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グラサンした【れたす鳥】が生まれて数十年・・・。ごひいきに!
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タマ危機一髪 |
大昔の、子供の頃の話。 小学生の頃、キジトラ猫とシェパード犬を飼っていた。 猫はタマ、犬はアローというのが呼び名だった。 これから書く出来事は、私が小学校に行っている昼間に起こったので、これは後で母から何度も詳しく聞いた話である。 当時、母は自宅一軒家の一階で、お好み焼きの店をやっていた。 店の裏には、大人の背丈くらいの高さの板塀を廻らせた狭い庭があり、昼間の数時間、シェパード犬のアローは鉄製の檻から出してもらい、庭の中だけだが自由に駆け回っていた。 シェパー巨体で力も強いので散歩がたいへんだからだ。 父が飼い始めた犬だったが、実際に世話をするのは、いつも家にいる母であり、アローは食べ物を与える母だけに従順だった。 シェパードといえば警察犬というイメージで賢いはずだが、アローはどこか抜けたところのある犬でもあった。そのせいか、よくタマにからかわれていた。 タマは、アローが檻の中にいるときは悠々と庭を歩き、ときに檻のそばまで近寄り、毛づくろいなどをした。 それを見たアローが檻の中から吼えると、タマは「フゥー」と毛を逆立てて興奮して反撃し、檻の格子の間から出ている、アローの鼻の頭を引っかいたりしていた。 アローが昼間に庭に出てくると、高い屋根やアローが伸び上がっても届かない板塀の上で、じっとアローを見下ろしていた。 板塀の上にいる、というのは、塀の上部には15センチ幅の横板が地面と平行に固定されていたのである。ちょっと幅は狭いが、その板の上でタマは歩いたり寝たりして、くつろでいたのだ。 その日も、タマは気持ちよく寝ていた。そして、アローは檻から出してもらう時間帯で、庭に出ていた。 小春日和だった。 母が店でお好み焼きを焼いていると、庭で「フンギャー!!」というタマの異様な絶叫が何回も聞こえた。 異常事態が起こったのは、間違いない。母は慌てて庭に飛び出した。 見ると、タマが庭の中で、巨体のアローに追い掛け回されていた。 どうも、タマが眠りこけて庭の中のほうに落ちたらしかった。 それまでも時々塀の上から落ちるのを私は見たことがあったが、それまではたまたまアローは檻の中にいたのだった。 タマは必死で逃げている。 アローが特に強暴だということはないが、捕まればたぶん噛み殺されるだろう。 母がアローを叱りながら首輪を掴むが、アローは興奮していてなかなか制御できない。 母がアローの動きを少し止めた隙に、タマは死に物狂いで爪を立てて板塀をよじ登ろうとした。 が、塀の上板までは行くことができず、その手前あたりでピタリと動かなくなった。 あとで、母が、 「塀に、セミみたいにとまって…」 と表現した。 アローはそれを見ると大興奮して、母の手を振りほどき、 セミみたいに動かなくなったタマの尻のすぐ下に突進した。 タマの尻のすぐ下には、アローの鼻先、いや鋭い牙があった。 まさに危機一髪だった。 母は、吼えまくっているアローの首輪を再度つかんで檻に押し込み、タマを板塀から【取り外した】。 そのときのタマの様子を母が面白がって、その後、何度も何度も繰り返し家族に言うことになるのだが、言葉どおり、まさに 「塀にくっついとった猫を取り外したんよ」 という表現がピッタリだったらしい。 そのときのタマは、おしっこを漏らし、板塀に爪を引っ掻けたまま硬直して動かなかったのだそうだ。 「ほんとに、体がカチカチなんよ。カチカチに硬いんよ。猫は柔らかいはずなのに。もう心臓マヒで死んでると思うた」 と、あとで母は大笑いで回顧した。 私は人生で、【気絶してカチカチに固まって、庭の板塀にセミのようにとまっている猫】というものを見たことがないので、今でも半信半疑ではある。 母は板塀に食い込んでいるタマの爪をゆっくり外し、カエルのような格好のまま固まって気絶しているタマを抱いてみた。カチカチに固まったまま、タマはピクリとも動かなかった。 そんなタマが 心配であったが店も忙しく、硬直しているものの、どうやら生きているようなので、母はタマを小部屋の座布団の上に置いておいた。 寝かせたというより、「置物を置いたような感じ」だったそうだ。 数時間後…。 タマは覚醒したようで、あくびをしながら母のそばまでやってきたそうだ。 そして、一声、「ミュアー」と鳴いた。 私が学校から帰ったとき、タマはいつものように何事もなかったかのように、ガツガツと猫マンマを食べていた。 タマはしばらく、庭のほうには出ず、塀にも上らなかった。 (このお題、完) |
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ボス猫捕獲大作戦(1) |
悠々と歩く巨体。(デブ猫に見えるが、実はすごい筋肉質!) 毛があるため見えにくいが、顔や身体に大きな傷があちこちにあったりする。 そして、その毛並みが少し小汚い。 ヤツは、人間を見ても慌てることはない。 チラリとこちらに視線を向けてこちらをさっと観察し、特に何もしないだろうと思えば、プイッと元の方向に顔を向けて慌てず騒がず歩き去る。 どの町や村のどの地区にも、立派な風貌と態度物腰で猫世界を仕切っているようなヤツがいる。そういう猫を誰でも時々街角で見たことがあるだろう。 そう、野良のボス猫である。 ヤツらの柄や顔つきや体型はそれぞれ異なるが、ボス猫ともなれば、どいつもそれぞれ個性的だ。 私が中学生の頃にも、近所にそういうボス猫がいた。白黒柄だった。 遠目から見ても、その辺の猫より一回り以上デカイ。 私はヤツを【ヨコヅナ】と名づけて、(私は猫ではないが)そいつに一目置いていた。 三国志風に言えば、 『人中に呂布あり、馬中に赤兎あり、猫中に【ヨコヅナ】あり!』 というところである。 ん~、かっこいい! だが…。 あるときから、その【ヨコヅナ】が、我が家の愛猫である【タマ】をいじめ始めたのであった。それもかなりこっぴどく残忍さを感じるほどに、である。 可哀想なことに、そこから温室育ちの我が家のタマの傷だらけの人生が開幕してしまったのである。 きっかけは(おそらくだが)『猫の春(俗的にいうと【さかり】)』だったと思う。 そう、オス猫の本能の叫びである『恋人(メス猫)探し』だ。 私が代弁するのもおかしなことだが、いや、それほどおかしくもないのか…。 春先にオス猫が奇妙な声を発して鳴き歩くのは、彼ら自身にも(たぶん)どうしようもできないんである。 DNA的な種の保存のためのことで、なにやら妖しいホルモンが体内で発生しているに違いなかろう。 そうオス猫の意志ではない。要するにDNA的な要請(欲求)が完了するまで、そのホルモンは出続け、その間のオス猫は、かわいこちゃん猫を求めて鳴き歩く【制御不能の鳴きまくりマシン】なんである。(生命体だけど…) その夜も、我が家のタマは、おかしな発声をしながら夜の巷に、恋人募集に出かけていた。おそろしいくらいの必死さであった。 夜も更けたころ、家の外で凄まじい猫の悲鳴?があたりの空気を震わせた。 「あ、ウチのタマの声だ!」 私にはすぐわかる。 (同居猫なら当然のこと。我が家では猫は飼うのではなく同居と定義していた) 心配して窓から外を覗いていると、我が家のタマが猫なのに脱兎のごとく裏の戸口から家に飛び込んできた。 昔のことでもあり防犯意識も低く、猫が自由に出入りできるよう、家の裏の戸は十数センチほど開けてあった。 そのときのタマは地獄で閻魔様に出会ったような形相であった。 経験上わかるのだが、ようするにケンカに負けて逃げ帰ったわけである。 タマは私には目もくれず、そのまま猛スピードで部屋の奥のタンスの横の隙間に駆け込んでいった。 タマが飛び込んできたとき、私はすぐに気づいたが、タマは恐怖でおしっこを漏らしながら逃げ帰ってきた。もう部屋は、タマのおしっこの噴水で、大変なことになっていた。 そして、それに続いて同じ裏戸から一匹の猛獣が走りこんできた。 その猛獣は私がそこのいることを察知すると、ピタッとその場に停止し、私のほうをじっと凝視した。【ヨコヅナ】であった。 この【ヨコヅナ】が、タマを何かの理由で制裁して追ってきたことは確実であった。 私はすべての猫が好きである。だから【ヨコヅナ】も無条件で好きである。 だが、物事には順位というものがある。 私にとって、タマは【ヨコヅナ】よりだいじで可愛いのだ。 その愛するタマが巨大な猛獣【ヨコヅナ】に、ボロボロにされて逃げ戻ってきた。 私は反射的に手近の新聞をくるっと丸めて武器とし、【ヨコヅナ】に向かって突進した。 それを見て【ヨコヅナ】はさっと身を翻し、戸の向こうに消えた。 私がヤツを追って外に出ると、【ヨコヅナ】はいつでも退避できるように身体は逃避体勢のまま、頭だけこちらに向けて爛々と光る眼で私を見ていた。 憎いほど落ち着き払っているし、息一つ乱れていない。 やっぱ、かっこいいぞ、【ヨコヅナ】! そう感じてしまう私であったが、タマをボコったことは許せない。 私が怒り心頭で追おうとすると、ヤツはさっと暗がりに溶け込んで消えてしまった。 タマはしばらく物陰に隠れたままで、私の呼びかけにも姿を現さなかった。 小一時間もしてから、タマは「ニュアー」と悲しそうに鳴いて、私の横に来た。そして身体を舐め始めた。顔と足から出血していた。 顔は引掻かれたらしいが、足は逃げ回っているときに何かにひどく当たって、体のあちこちを負傷したようだった。 壁にぶつかり、溝に落ち…というように逃げまわったはずだから、おそらく見えない打撲は身体中にあるはずで、とても不憫な姿であった。 ところが本能というものは恐ろしいもので、傷も癒えない痛々しい姿なのに、翌日もタマは恋人を求めて夜の町に出て行くのである。 タマも家にいたいのだが、身体のどこからか湧いて出るホルモンが、彼をじっとさせないのだ。 私はタマの傷を気遣い、戸を開けずにタマを閉じ込めようとしたのだが、タマは家の中でミゃーミャーと狂ったように鳴くのである。 私にはタマの痛々しい傷も不憫だったが、その必死の声も(同じ男同士だからか?)不憫でもあり、戸を開けタマの好きなように出かけさせるしかなかったのだった。 (つづく) |
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ボス猫捕獲大作戦(2) |
【ヨコヅナ】にやられた傷をおして、我が家のタマは次の夜も、その次の夜も出かけていった。 そして必死で夜の町をメス猫を求めて鳴き歩いた。結果は悲惨であった。 タマはそれから3日連続で【ヨコヅナ】に追い回され、(身内の立場としては大げさではなく)まさに毎日命が危ないのではと思うほどやられて帰ってきたのであった。 タマの身体はあちこち血が流れて傷だらけで、私は本当に可哀想で涙があふれた。 いじめられて可哀想なのと、そんな危険を冒してでも外に鳴きに行く(メス猫を探しに行く)姿がなんとも哀れだったのだ。 (私がもう少し大人だったら「ああ身につまされる」ともっと強く感じただろうが、まだ子供だった私にはタマのそこまでの熱意は不可解だったが…) 言うまでもないことだが、愛情というものは感情に起因するがゆえに必ず偏っており、論理を超え、時に善悪道徳を無視するときがある。(でしょ?) 私のタマに対する愛情もそうである。 私は、 「このままではタマは猛獣である【コヨヅナ】殺される。なんとかせねば!」 とタマへの愛ゆえに、ある決断をしたのであった。 「【ヨコヅナ】を排除する!」 猫にも人権(猫権)がある。 だからこれは私の身勝手である。それは認める。が、しかたないのだ。偏愛なのだから。 【ヨコヅナ】がタマを攻撃する理由について、私は猫ではないし当事者でもないから、私にはわからないが、最近までそういうことが無かったことから考えて、この『猫の春(サカリ)』でのメス猫争い(【ヨコヅナ】の恋人猫に言い寄った?)なのか、それに関係することに原因があるらしいのは間違いなかろう。 タマがなにか猫世界のルールを破ったのかもしれないし、単に猫から見ても、毎夜見苦しく鳴き騒ぎ過ぎたのかもしれない。 あるいはただ単に【ヨコヅナ】の機嫌が悪かっただけかもしれない。 猫の抗争は私にはわからないことであるし、そもそも人間の私がこの件に口出しすべきではないだろう。 動物世界はやはり弱肉強食だし、猫のケンカに人間が出るのは極めて卑怯なことである。 が、このままではタマは【ヨコヅナ】にその気がなくとも殺される可能性がある。 これは非常時の非情にならねばならないのだ! もちろん猫好きの私であるから、いかに憎い相手とはいえ【ヨコヅナ】を傷つけるようなことは一切考えてはいなかった。 「他所に行ってもらおう」 ということである。 「【ヨコヅナ】くらいのヤツなら、どこに行っても生きていけるはず。ヤツには悪いが縄張りを替えてもらおう」 ということである。 具体的に言うと、【ヨコヅナ】を捕獲して自転車で大きな川の向こうの町まで運んで釈放し、平和的に移住してもらおう、ということである。 私は私で、悩みいろいろと思案した解決法であった。 先ほども書いたが【ヨコヅナ】は猛獣並なのである。ただの猫などと考えるのは甘い。 身体が子犬くらいあるし、力もスピードも規格外だ。 が、猫は猫だ。 サバンナのライオンや密林の虎ではないだろう。なんとかできるはずだ。 私は丈夫な蜜柑輸送用のダンボール箱をガムテープで頑丈に補強し、その側面に猫がギリギリ入れるくらいの四角い穴をあけた。 そして別のダンボールをその四角い穴より大きく切り、それを箱の内側に上部だけをガムテープで貼って固定した。 そこから中には入れるが出ることはできない、という単純な仕掛けである。 猫は賢いので箱の中に入って閉じ込められても、その後にじゅうぶんな時間さえあれば、前足の爪でその内蓋を手前に引いて隙間を作り、そこから逃げ出すだろう。 だから、その装置をただ放置していてはダメである。 猫が(この場合は【ヨコヅナ】)がその箱に入った瞬間、すぐにその入り口を塞いでしまう必要がある。 ということは、【ヨコヅナ】がその捕獲装置(入り口に仕掛けをしたダンボール箱)に入るところを私は見張っていなければならない。 入ったところを確認したら、私が駆け付けて、ダンボールの穴をすぐ塞ぐのだ。 実は、私がこの計画を思いついたのは、【ヨコヅナ】は大胆な行動を知っていたからであった。 ヤツはタマを毎夜、我が家の裏の戸口まで追いかけてきていたが、追って来た勢いで戸口から家の中にまで入ってきていた。 それで中の様子がわかったのだろう。 そのうちタマを追いかけることもなく単独でぶらりとやってきて勝手に家に入り、タマのご飯を食べるようになっていた。 大胆なヤツである。 この大胆さを私は好むが、この場合はタマの食事を盗み食いしているわけだから許すことはできない。タマに対して暴力とカツ上げをする不良猫である。 ますます許せん! そう。その【ヨコヅナ】の習慣的行動は利用できるはずだ、と私は考えて、この捕獲作戦を立案実施したのだ。。 私は製作したボス猫捕獲装置(入口付きダンボール箱)の中に、猫の好む食品を置き、それで【ヨコヅナ】を箱の中に誘うことを企だ。 さてこの幼稚な作戦は功を奏するのか? (つづく) |
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ボス猫捕獲大作戦(3) |
【ヨコヅナ】がタマのご飯を盗み食いに来る時刻は、ほぼ毎日同じくらいの時間帯であった。ヤツの町内巡回の途中の寄り道なのかもしれなかった。 そこで私は、その時刻に合わせて捕獲装置(ただのダンボール箱)を、家の戸口の内にさりげなく?置き、じっと隠れて鏡を持ち様子を伺うことにした。 こんな方法で感覚が鋭く警戒心の強い野良猫が捕まえられるはずがない!と誰もが考える。 私だってそう思っていた。たぶん無理だろうと。 でもタマのためにやってみるしかなかったのである。 ところがである。 なんと初日に【ヨコヅナ】はあっさりと箱の中に入ってしまったのだ。 やはり、おとりのエサに(高級)焼き魚を使った効果だったに違いない。 私は物陰に隠れ鏡に映してその光景を見ていたので、すぐに走り寄ってダンボール箱の入り口を押さえ、予め切って用意していたガムテープでその入口の四角い穴を2重3重に塞いだ。 穴は完全に、閉じられた! 箱の中では事態に気づいた猛獣が大暴れしていた。その振動で箱を持って保持していられないくらいであった。 私は中学生1年生で、まだ大人ほどの力は無かった。暴れるダンボールを何とか押さえておくのが精一杯だった。 【ヨコヅナ】も必死である。 動物の本能として生命の危機を感じている暴れ方であった。 そして数十秒のすさまじい動きの後と、信じられないことに【ヨコヅナ】は分厚いミカンのダンボール箱を突き破って出てきたのである。 ガムテープで補強してあるところではなく、分厚い箱そのものをぶち破って出てきたのだ。 「うわぁ!」 それは、まったくもって想像もしていなかったので、私は一瞬にしてパニくった。 私はダンボール箱を抱くように持っていたのだが、その私の顔の前に【ヨコヅナ】の凄まじい形相の頭と鋭い牙と爪が飛び出してきたのだ。 私は何か異次元世界から怪物が出てきたような、恐ろしさを感じた。 そのとき一瞬だけ、私と【ヨコヅナ】の視線が合った。 私は反射的に顔を背けた。 【ヨコヅナ】は身体をよじって箱から抜け出したかと思うと、その爪で私の右腕の内側に深い8センチくらいの長さの傷をつけると同時に、弾丸のように私の胸に体当たりし、床に落ちた。 そして、あっという間に戸口の隙間から逃げて消えてしまった。 数秒のことである。 私は呆然と、それを見送った。 私は【ヨコヅナ】のパワーに恐怖を感じていた。 『窮鼠、猫を噛む』というがまさに『窮猫、人を引っ搔く』である。 私の右手のひじの内側にはギザギザと深くえぐれた傷があって、すさまじい勢いで血が噴き出していた。 (数十年たった今でもその傷跡ははっきり残っている。顔面をえぐられなくてホント良かった…と今でも思ってしまう) こうして、私の一回目の捕獲作戦は、想像以上の【ヨコヅナ】のパワーに押し切られて失敗に終わった。 一回目? そう、私は数日後、もう一度同じ作戦を決行するのである。 愛するタマのために。 (つづく) |
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白い猫(1) |
大昔の話。 大学入学で上京して最初に住んだアパートは古い木造二階建てで、私のその一階の湿った角部屋であった。 当時は珍しくないことだが、部屋を入ったすぐのところに、小さな流しと小型ガスコンロが置けるスペースがあるだけで、風呂は無し、トイレは共同(和式のみ)だった。 仕送りはなく、バイトと2つの奨学金で学生生活をしなければならなかったので、そういうレベルのアパートに住むことになる。 特にボロな住処ということもなく、地方の標準以下の収入の家庭から上京してきた男子学生にとっては、普通の古さ、小汚さなのである。 翌年、二階の部屋が空いたので私はそこに移った。 その冬のある日、アパートの外で、か弱い子猫の鳴き声がした。 上京するまで、実家ではずっと猫を飼っていたので、私は猫が大好きである。 だから、猫の声には、すぐ反応する。 外に出てみると、アパートの横の空き地で、痩せた産まれて間もないような真っ白な子猫が震えて鳴いていた。 眼のふちや鼻の頭、耳の内側、肉球の肌色が透き通っている。 「うわぁ…」 猫好きにとっては(いや誰にとっても)、これは一種の悪夢である。 とくにアパート住まいの貧乏学生などには、悪夢中の悪夢である。 この腹ペコで凍えて死にそうな子猫を、一時的には世話することはできる。 暖かい部屋の中で、食べ物を与え、こたつの中で眠らせることもできる。 足元で鳴いている、この気の毒な仔猫の危機を救うことはできる。 しかしその後は、どうしていいかわからない。 アパート賃貸のルール上、猫といっしょに暮らせないからである。 しばらく世話はできるだろうが、そのあとは、今、この子猫がされているように、私もまた、数日後に、この子猫をどこかに置き去り(置き捨て)にしなければならない。 そういうことが頭の中をよぎったが、 とにもかくにも、私はその仔猫を拾い上げ、部屋に連れ込んだ。 幸いなことに、誰にも目撃されていなかった。 子猫の体は綿のように軽く、冷たかった。鳴き声は、かすれていた。 私は子猫を、すぐコタツの中に入れた。 それから冷蔵庫の牛乳をほどよく温め小皿に少量入れて、コタツの中にもぐりこんで、子猫に与えた。 仔猫は体が温まったため安心してだろうか、毛づくろいをしていた。 「毛づくろいするような体力があるようには思えないんだが…」 私は、なにか不思議な光景を見ているように感じた。 子猫は、何かにとりつかれたみたいに、ペロペロと自分の体を舐めていた。 そして、目の前に牛乳を置かれても、それをやめないのである。 私は、こたつの中の赤外線ランプの下で、子猫の鼻先をミルクを入れた皿のほうに、グイっと強制的に向けた。 ところが、その猫は、それでも毛づくろいをやめないのだ。 体はガリガリだし、お腹も空いているはずなのに、牛乳に見向きもしないとは…。 「へんなやつ…」 私は、多くの猫を見てきたが、こういう猫は初めてだった。 もしかして、牛乳が嫌いなのか? などと考えていると、その白い子猫は、しばらくして牛乳の存在に気づいた。 牛乳に気づくと、毛づくろいをやめ、皿に近づいて、ペロペロとゆっくり舐め始めた。 お腹が空いているはずだが、ガツガツしたところがまったくなかった。 普通ならこういう空腹時には、必死で舐めるのが猫であろう。(偏見?) (つづく) |
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白い猫(2) |
牛乳を飲み始めたので、私はコタツに突っ込んだ上半身を抜き、冷蔵庫から魚肉ソーセージを出し、細かく切り刻んで与えた。 子猫は、それも行儀良くゆっくりと食べた。 「体力が消耗しすぎているのだろう」 と、私は判定した。 それは正しい判定で、数日たって体力を回復した子猫に向かって、ティッシュを丸めたものを、ポイッと投げると、子猫は子猫らしく、丸まったティッシュを追いかけまわして、部屋中を駆け巡ぐることになる。 空腹で冬空に下をうろうろして、体力を消耗してはずなので、満腹になると眠るかと思いきや、子猫は、また毛つくろいを始めた。 「おいおい…なんじゃ、こいつ」 それが私の感想だった。 猫は毛づくろいをする。それは普通のことである。 が、この子猫は、なにか違う。 一心不乱というか…恍惚とした表情で、ペロペロと自分の毛並みを舐めているのである。 いや…猫はそういう表情もする。だから、別に何がおかしいということはない。 猫というものは、おおよそそういうふうなところ…毛づくろいに夢中になるときがあるものだ。 幼いころから猫好きの私は、飼い猫、野良猫、多くの猫と接してきたが、その仔猫の毛づくろいの様子は、何か違うのだった。 しばらくするとコタツで温まりすぎたのだろう、仔猫はコタツの外に出てきた。 そして、すぐまた毛づくろいを開始した。 普通…普通というのは、何が普通かという問題はあるが、こたつから出た猫はのぼせてグッタリとなり、しばらく何もせず、床に寝転がってしまうものである。(だいたいの話) が、その子猫は、コタツの外に出てからも、30分以上、毛づくろいを続けた。 う~ん、ちょっとやりすぎじゃないか? 自分の身体を舐めると気持いいのはわかるが、やりすぎでは? べつに、毛づくろいを長時間することが、悪くはないんだけど…。 ほおっておくと際限なく毛づくろいをしているので、私は仔猫を引き寄せ、首の後ろ、尻尾の付け根(背中下)、頭の上(眉あたり)など猫の好むポイントをコリコリと掻いてやった。 仔猫は毛づくろいをやめ、ゴロゴロゴロと喉を鳴らし、身体をねじって喜んだ。 子猫の喉を鳴らす音は、その小さな身体から出ているとは思えないほど部屋中い響いていた。 やっと、普通の猫らしくなった…ような気がした。 じょじょに脇や腹のほうを触っていくと、仔猫はじゃれて、すごく喜んで興奮しはじめ、私の手に爪を立てたり、私の手を甘噛みしたりした。 子猫でも、普通に体力があれば、私の手は爪のひっかきで出血し、甘噛みされたら、時に飛び上がるほど痛みを感じることがあるが、弱っていたその子猫には、そこまでの力がなかった。 しばらく体をなでていると、仔猫はやっと眠った。 子猫は、両手の平に収まる大きさでしかなく、毛色は真っ白、毛の生えていないところは透き通るようなピンク色だった。 眠っているから目は閉じてしまったが、目の色はブルーがかった灰色で、輸入された海外の猫か、雑種らしかった。 ともかく、子猫というより、赤ちゃん猫に近い。 もう数か月しなければ、とても冬の野外で生き抜けるようには思えなかった。 さて【悪夢】のことである。 私は、この仔猫を飼えない。(同居できない)。 とはいえ、まさかこの寒空に放り出せない。 赤ちゃん猫に近いから、季節が夏でも死ぬ可能性がある。 地方から上京してきた私には、この猫をもらってもらうアテもない。 部屋にいる猫が見つかれば、一大事である。 過去にそういうトラブルがあったらしく、私の入居時に契約書とは別に口頭で、大家さんから『動物厳禁』と念を押されていたのである。 私は窮した。 が、すやすや眠っている痩せた仔猫をじっと見て決意した。 「ここに住まわせよう」 猫がいることがバレれば大問題になるに違いない。しかしそのときはそのときだ。 ともかく、この仔猫がもう少し成長するまでは保護しなければならない。 独り立ちできそうになったら、その時考えよう。 まあなんとかなるだろう。 そういうふうに考えた。 そういうふうに考えるほか選択肢がなかった。 (つづく) |
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白い猫(3) |
私は、こっそりと、その子猫をアパートの部屋で保護した。 ありがたいことに、この白い仔猫はほとんど鳴かなかった。 「どうかしてるんじゃないか」 と心配になるほど鳴かなかった。 お腹が減っていても寂しくても、聞き取れないくらいの小さな声で、「みゃ」と短く言うだけだった。 だから、近隣に鳴き声で悟られる恐れは少なかった。 だが、当然のことに様々な問題があった。 私は学校やアルバイトに行かねばならない。友人のところで酒盛りをして、そのまま泊まることもある。 が、猫を部屋に閉じ込めておくわけにはいかない。 今ではペット用品も良いものが多くあり、マンションの部屋で仔猫のときに連れてこられてから一生一歩も外に出ずに、それなりに楽しく幸福に暮らす猫もいるらしいが、今もその当時も私の感覚ではそういう【監禁】は考えられなかった。 猫は勝手気ままに好きなように行動して生きなければ猫ではない。 か弱い仔猫のうちは室内で保護できるからいいだろうが、猫がその後も部屋にずっといるなんて…である。 この仔猫が青年になったとき、猫の夜の集会とかに出なくていいのか、とかも心配だ。 とはいうものの、私はその解決困難な問題を棚上げして、しばらくは部屋の中で仔猫を生活させることにした。 とりあえずこの弱っている仔猫が元気になることを考えなければならない。 学校やバイトで夜まで帰れないときは、十分な水と腐りにくい食べ物を多めに置いておいた。また、子猫が成長するまで、外泊はしないことにした。 外泊しないというのは、猫の世話をするためでもあるけれど、猫が見つからないように監視するということでもある。 鳴かないおとなしい猫だったので、なんとか外部に露見することなく数ヶ月が経過した。 仔猫は立派に成長していった。 まだ遊びたい盛りの仔猫の感じがあっても、体の大きさや態度が、青年に近づいていた。 あ、言い忘れていたが、メス猫である。 きれいな真っ白な毛並みは、栄養も足りてか、ますますゴージャスになり、眼はだんだん青みが濃くなっていた。 そろそろ【シロ】を出歩かせねばなるまい…。 (私は仔猫を【シロ】と名づけていた) 私の部屋はアパートの入り口から階段を上がったすぐ右側だった。 1階も2階も、4部屋であった。 階段を上がった右側の壁の中のスペースに、共用の3段の靴収納棚が作ってあった。 つまり、その靴収納棚は、私の部屋の中から見れば、私の押入れの中にあった。 私の部屋の押入れスペースを使って、外側に靴置き棚が設けられているわけで、そのぶん私の部屋の押し入れは、狭くなっているわけである。 「やはり、ここしかないなぁ」 ややムチャなことではあったが、私は靴収納棚の奥に猫の出入り口を作ることにした。 築50年近くの古い壊れそうな木造アパートであるが、私は勝手に建造物の一部に穴を開けようとしてる。 おそらく、いや間違いなく犯罪である。器物損壊とか? 靴の棚は、靴がはみ出さないように、40センチ以上奥行きがあった。 (その奥行きのぶんだけ、私の押入れの中を区切って占拠している) 靴棚の奥の板は私の部屋の押入れの中にある。 ということは、そこに穴を開ければ、猫はその穴から押入れ(靴棚)を通って自由に行き来できるのである。 名案である。犯罪だが…。 階段には窓などなく照明も裸電球だけであり、昼でもそこは薄暗い。靴棚の奥はほぼ真っ暗と言ってよい。 また、慣習的に、私が靴を置く棚の位置は決まっていたので、その段の奥に穴をあけ、そこを私の靴でなんとなく隠せば、奥の穴は見えないだろう。 私は靴棚の構造を十分に確認し、もっとも視界に入りにくい位置に猫が通れるギリギリの大きさの穴を開けた。薄いベニヤ板が張ってあるだけなので、大きなカッターでも簡単に切り取れた。 穴を開けてしまっとき、私は犯罪に手を染めたことをやや後悔したが、もう開けてしまったのだから、覚悟を決めた。 私の思考は、『猫ファースト』となっていたのだ。 開けた穴がわからないように、ちょうど同じ大きさの光を通さない分厚い布を切って、その上部だけを押入れ側から貼り付けておいた。 靴棚の奥に穴があるなどと考えて探さない限り、誰かがそれに気が付くことはなさそうだった。 住人がいないときに【シロ】に、押入れ側と靴棚側からその出入り口を教え、【シロ】の身体を押して何度か出入りさせてみた。 【シロ】は、それが通路であることを、すぐに理解した。 これが自由への扉だと。 (つづく) |
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白い猫(4) |
【シロ】は猫の習性に従って、その『自由への扉』を使って、好きなときに出て行き、好きなときに帰ってくるようになった。 当然ながら、そのうち誰かがそれを目撃することもあるだろうが、そのときはそのときだと思っていた。 住人とはほどよく仲良く付き合っていたし、おそらく見つかっても大家さんに告げ口はされないという確信めいたものがあった。 ただ建物に穴を開けている。それはマズイだろうなぁ。 さて、【シロ】)のことである。 【シロ】と出会った最初の日に【毛づくろいをするのが異常に好きな猫】という印象を持ったのだが、成長しても、やはりそうであった。 【シロ】は美猫に育ち、別嬪(べっぴん)さんであったが、より美しく見せるために自分の身体を舐めるのではなかった。 ただただ、『舐めるのが好き』なのである。 そういう意味では、たくさんの猫を知っている私であるが、この【シロ】がもっとも変わり者(猫)であった。 ともかく気がつくと、ずっと毛づくろいをしているのだ。 掘っておくと、1時間でも2時間でもやっている。異常である。 そして、その顔は恍惚としているのだ。なにかに取り憑かれているかのように、である。 そういうとき、私は心配になり【シロ】の気が散るように、ティッシュペーパーを丸めて放り投げたり(【シロ】はすぐ飛びついてお手玉を始める)、手をパンパンと叩いて恍惚状態から解放し、我に返らせるように試みたりした。 初夏になったある夜、【シロ】は夜更けに帰ってきた。 もちろん、あの靴棚の穴を通ってである。 そして、私が寝ている薄い掛け布団に入ってきた。 そして布団の中にスペースを確保して、例の毛づくろいを始めた。 いつものことなので、私は、「またやってる」くらいに思っていた。 エアコンなどもあるはずがなく、夏なので寝ている私は、パンツだけである。 【シロ】は、私の背中側にいた。 そのうち【シロ】は自分の身体の延長だと思ったのか、私の背中を舐め始めた。 「えっ?何してる」 と思ったが眠いし、そのざらざらした舌の感触がなんとも気持いい。 蚊に刺されていたのか、汗疹でもできていたのか、痒いところにざらざらした舌がジャストマッチだったのだ。 「こりゃ、極楽」 と私はうつらうつらしながら心の中でつぶやいた。 【シロ】は舐めるのが好きである。私が眠るまで舐め続けていた。 私の背中が気に入ったのか、【シロ】はときどき、そうやって私の背中を舐めるようになった。 変な猫である。 そんなある朝、私が目覚めたとき【シロ】が、部屋の中にいなかった。 だいたい朝は私の横で寝ているのである。いつもではないが…。 私は、なんとなくイヤ感じがした。なんとなくである。 朝の食べ物がなかったので、私はそのままTシャツだけを着て、すぐ表通りにある商店街のパン屋さんに行こうと思った。 階段を降り、アパートを出て駐車場の横を30mほど行ったところが商店街なのである。 その日はゴミ出し日であった。 電柱の指定場所に、ゴミ袋が積みあがっていた。そしてそこに【シロ】が転がっていた。 そのとき、 私は世界が止まったような気がした。 【シロ】が死んでいる。 私は何も考えることなく、冷たく硬くなっていた【シロ】を抱き上げた。 身体に目立った傷はなく、きれいな毛並みのままの姿だったが、体は冷たく硬直し、そこには生命というものが失われていた。 その表通りで、車にはねられたのだと思った。 ときどき、その道で危ない渡り方をしている【シロ】を見ていたからだ。 猫は…おかしなことに、車に向かって飛び込むように、道を渡ろうとするときがある。 とくに夜の道では、車のヘッドライトに吸い込まれるかのように、やってきた車にタイミングを合わせるように、自ら車に突っ込んでいくような習性がある。 夜間か早朝に車にはねられて転がっていた【シロ】を、誰かが、ゴミとして捨てたのだろう。ゴミ扱いはひどいが、道路上に放置されるよりはよい。 道路上にいれば、車に踏み潰されてしまっていただろう。 私は【シロ】を部屋に連れ帰り、タオルの上に寝かせて長い時間泣いた。 子供の頃から、いつでもどんな猫でも死んだときは悲しくて、私は死ぬほど泣いてきた。 でもいつもそばには家族がいた。でもそのときは、私は東京で一人だった。 子供のころは、猫が死んだら庭に埋めたり、川に流したりした。(たぶん今は禁止) しかし、そこは住宅が密集した東京であった。 探せば猫を埋められる空き地がないことはなかっただろうが、まさか勝手に埋葬するわけにはいかないだろう。 当時はネットというものはないから(パソコンも一般には売ってない頃)、電話帳で猫の埋葬をしてる施設を探した。見つけたのはお寺であった。 私は【シロ】の遺体を丁寧にバスタオルに包んでビニール袋で密閉して紙袋に入れ、電車とバスに乗って1時間ほどのところにある、そのお寺を訪ねた。 そして、埋葬供養料を奉納し、【シロ】を、そのお寺にゆだねた。 しばらく、私はウツになった。 私は靴棚の穴をふさぎ、同時に自分の心にもしばらく蓋をした。 時間がたち、日記を書く習慣がないため、今では【シロ】をどこのお寺に葬ったのか、私にはわからない。 しばらくはお寺の名称を、しっかり記憶していたけれど、いつの間にか忘れてしまった。 それは、私にとって大事なことであるはずだが覚えていないのだ。 ただ【シロ】と出会った寒い日のことや、【シロ】の美しい姿は覚えている。 私の背中を舐めた、あの舌のザラザラした感触も。 (このお題、完) |
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北海道の牧場・子牛の出産(2) |
さて、その牧場での、だいたいの生活スケジュール。 まずは朝4時半ころ起床。日本列島のほぼ最東端だから、夏だと4時頃にはもう空がうっすら明るくなっている。 5時から7時まで2時間が朝の搾乳。 朝食後8時から12時、13時から17時の間は牧場仕事である。 牧場仕事とは主に冬季の飼料として貯蔵する牧草確保集めで、刈り取った牧草をそのままサイロに入れて発酵させるものと、刈り取りながら梱包(四角い牧草の塊)にして牛舎の階上に積み上げて保管するものがある。 他には牧場の境界線の杭打ち、自家用の畑の耕作等もたまにある。 杭打ちは、なかなか打ち込めない粘り気のある土壌に、大きな木槌で一日に数百本も打ち込んだため、夕飯時に茶碗も持てないくらいになったこともある。 若かったし、筋肉がいくらでもつくはずである。 牧草地で働いていても、お昼は家に帰って食べる。 15時には『おやつタイム』があって、牧場に寝転がってお菓子や果物を食べた。 17時前に牧草地から家に帰って、19時まで搾乳。 そのあと夕食、お風呂、子供たちと遊んで就寝、となる。 子供たちがすぐ仲良くなってくれたので、毎晩トランプなどしてなかなか寝させてもらえなかったが、若く体力もあったので翌日に疲れは残らなかった。 ただ朝はすごく眠かった。 ちなみに休日は農家個々の事情によるが、週1日程度。 一日、農協主催の慰安バス旅行があり、摩周湖、阿寒湖、屈斜路湖を巡った、 日給はたしか、2600円だったと記憶している。 三食が本当の遠慮なしの食べ放題で、一日中ずっと肉体労働なので、私は1ヶ月で5~6キロも増量した。 それ以前は、だらだらした生活をしていたから体脂肪もかなりあったのだが、それがなくなった上での体重増であるから、実質の筋肉増大量はかなりのものだったろう。 若いっていいな…。 さて、昼間は牧草地で作業するが、朝夕2回の定時搾乳がある。 牧草地での作業も、フォークの使い方に慣れることなどに戸惑ったが、搾乳作業は生きた巨大な牛相手なので要領がわかるようになるまで数日かかった。 そもそも牛という生き物は、小さな子供の頃に親戚の農家で数回見たことがあるくらいだけだから、20数頭のホルスタインが牛舎内に並んでいる光景に、最初はびびってしまった。 まず、牛たちはデカイ。 体重は600kgくらいあり、体高は150cm程度ある。 体重80kgの私が押したくらいでは、彼女ら(雌牛だから彼女)を動かすことはできない。 牛たちは、あの大きな目で、しっかり人を観察している。 私が新米だということを彼女らは知っているから、最初の数日は、 「こいつ、誰よ?」 って感じなのである。 搾乳作業中に、彼女らは、あきらかに私を挑発するためにというか、からかうためにというか、小バカにしたような態度をとるのである。 牧場で休んでいるとき、牛はお腹を地面につけて寝転がる。そのときに乳房も地面につく。 だから搾乳前には必ず、牛の乳房や乳首をキレイに拭いて消毒殺菌をしなければならない。 乳房を拭くときや、搾乳器を取り付けるときに牛の横や後方から近寄るのだが、そのとき彼女らは尻尾でバシッと軽く、私の顔をひっぱたくのである。もちろん、わざと。 牛がそれを意地悪で意識してやっているというのは、よ~くわかる。 牛は眼が頭の横のほうにあるので、首をそれほど曲げなくても後方が見やすい。その眼で私をずっと私を観察している。 私が乳房を拭こうと近づいたり屈んだりすると、そのタインミングで私の顔を尻尾で、バシッ!とやるのだ。 もう一度、言う。 わ、ざ、と、だ。 私がキッと牛をにらむと、牛は「へへへ」って感じで、なんとなく笑っているような表情をする。(気のせい?) はじめは私は牛たちに遠慮していたが、(怖いからビビッていたというより、平和的に友達になろうという意味での遠慮)、そういうふうに何度も『わざと』バシバシやられると、こっちだって腹が立ってくる。 だから私も牛の身体をパンパン叩いて応戦するようになった。 まあ、それも必要なコミュニケーションなのである。 大人が赤ちゃんに張り手をされても全然痛くも痒くもないように、私が牛を(愛情をこめて)少々どついても彼女らはなんともないのだ。 そのようにして私は少しずつ牛たちとも仲良くなっていき、酪農家の仕事にも慣れていった。 (つづく) |
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北海道の牧場・子牛の出産(3) |
乳牛(ホルスタイン)たちは、朝夕の搾乳の時以外は、牧場(それも牧草のおいしいところ)で草を食みながらのんびり過ごす。 牧場での作業をしながら手を休め、ときおり牧場を見渡すと、丘陵地形の牧草地の遠くに牛の群れが見える。 朝5時と夕方5時の搾乳の時には、牧場のどこにいても、牛たちは列になって歩いて牛舎まで戻ってくる。 その時刻前に、私たちは干草や配合飼料をそれぞれの牛の牛舎内の所定位置に配置しておく。 それから牛舎の扉を開ける。ガラガラガラ…。 牛舎の扉の向こうには、牛たちの集団が、 「さあ入るわよ!」 という感じで待ち構えていて、ゆるゆると歩いて牛舎の中の自分の決まった位置に行く。 彼女たちは、どこが自分の居場所かを覚えている。 最初はそれを見ていて不思議だった。誘導など何もしなくいいのである。 牛たちは自主的に移動し、『自分の位置』に着くと、そこに配置してある飼料を食べ始めるのだ。 もぐもぐ、もぐもぐ。 飼料を食べ始めたとき、牛の頭部は首輪(固定具)をくぐっており、私たちはその首輪をカチャカチャとロックしていくだけだでよい。搾乳の準備完了である。 そして、牛たちがおいしい飼料を夢中で食べている間に搾乳をするわけだ。 「なぜ牛たちは牧草地から、決まった時刻に、自分たちの意思で遠い牛舎まで戻ってくるんですか?」 と、ご主人に訊くと、 「配合飼料がうまいんだろうなあ。訊いたことはないが…」 と笑っていた。 「でも、ときどきすごく美味い牧草に当たるときがあるらしいんだ」 「牧草も味が違うんですか?」 「そりゃ違うだろう。草の種類もあるし成長の具合もある。(若い草は柔らかいから美味しい)。日当たりもあるし、土壌の栄養もある。草が美味いときは牛舎に戻ってこないときもある」 「え?そうなんですか」 「そのうち、わかる」 確かにその通りで、その後何度か搾乳時刻になっても牛たちが牛舎まで戻ってこない日があった。 牛たちのご飯(配合飼料)の準備を整えて牛舎の戸を開けると、いつも群れをなして入場を待っているはずの牛たちが、そこに一頭もいないのだ。 「あれ?」 と思ってキョロキョロしても、どこにもいない。近くにもいない。 小高いところまで移動して、ぐるりと牧場を見渡して探してみると、ずっと向こうの緑色の丘の上で、白黒の置物みたいな牛たちが群れになって屯(たむろ)している。 「あそこは、草が美味いらしいな」 と、ご主人が苦笑いする。 「悪いが、呼んできてくれ」 私は牛舎の横の小高いところに立ち、 「べぇ~べぇ~」 と大声で叫ぶ。 牛たちまでの距離が数百mから1キロ以上のときもあるが、何も遮るものがないので声は届く。 牛たちは私の声に気づく。数頭が私のほうを見る。 そして、 「あ、ご飯の時間だったか…」 みたいな様子でゆっくりとその数頭がこちらに向かって歩き始める。 最初に歩き始めるのがリーダーなのか? 数頭が歩き始めると、寝転んでいた牛たちも立ちあがり、それに続く。 そして、距離によるが、文字通り牛歩で、数十分かけて牛舎まで戻ってくるのである。 我々は、苦笑いしながらそれを待つしかない。 2度ほど、いくら「べぇ~べぇ~」と私が叫んでも、(聞こえているからこちらを見る牛もいるのだが)、牛の集団が牧草地に居座ったまま、まったく動かないときがあった。 よほど、その場所の牧草がおいしかったのだろうか。 そういうときは、こちらから出向いて彼女らを引率しなければならない。 丘を越え川を渡り、牛のところまで行かねばならない。牛のいるところまで行って、私と子供たちとで牛たちを追い立てるのだ。 「さあ立って立って立って。歩いて歩いて、牛舎に帰るよぉ~」 しかし、呼んでも帰らなかった牛は、私たちがそこまで行って追い立てようとしても、なかなか牛舎に帰りたがらないのだ。 「今日は牧草地の草が美味しいので、配合飼料は要りません。ほっといてよ」 って感じである。 そういうときは、仕方ないので、小枝や大きな草の茎をムチにして、パシパシと牛の背中や尻を叩くのである。 牛にとっては全然痛くはないのだが面倒くさいから、 「ちぇっ」 というような態度?で、いやいやながら牛舎に向かって歩き出す。 私と子供たちは、アルプスのハイジみたいに、のどかに牛の群れとともに牧草地を牛舎を目指して歩いてゆく。 牛のいた場所によっては、往復に1時間はかかるので、予定の搾乳時刻は大幅にずれてしまう。いくらズレても毎日朝夕、かならず搾乳しなければならない。 「牧草で満足してるのなら、わざわざ配合飼料を食べさせなくても、一日くらいほっといてやればいいのでは?」 と私は思っていたが、それはダメなのである。 ホルスタインは、牛乳を多く生産するために品種改良されている。そのため、妊娠していなくても毎日毎日乳を体内で作り、それが乳房に溜まる。 この体内の乳を搾って出してやらないと、病気になってしまうのである。 毎日乳を搾ることは、生産量の確保(収入)ということではあるが、牛の健康のためにも絞ってやらねばならないのである。 (つづく) |
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北海道の牧場・子牛の出産(4) |
私がいた1ケ月の間に、2頭の仔牛が誕生した。 すべて人工授精である。 1頭は、朝、牧場で出産しているのを見つけた。 もう1頭は…。 それを書きたくて、私はこの話を書き進めているのでだ。 ある日の午後、牛舎に入ると、その母牛は1頭だけガランとした牛舎の中にいた。 ほかの牛たちは、牧場のどこかでのどかに草を食んでるはずだ。 その牛は、妊娠していた。 そして出産予定日を大幅に超過しており、母子とも危険な状態に近づいているのだった。 獣医さんによると、出産予定日をすぎても産気づくようすもなく、思っていたより胎内の子牛が急成長してしまっている、とのことだった。 もはや薬で産気づかせても子牛が大きくなりすぎているため産道につかえてしまう、というマズイ状況になっているようだった。 分娩できなければ仔牛は体内で死に、当然のことながら母牛も死んでいまうのだということだった。 「えっ?おおごとだぞ」 と、私は青くなった。 その母牛より身体が大きな牛は何頭もいたので、牧場初心者の私は気づかなかったが、そう言われて見てみると、たしかにその牛の腹部は大きく膨れているようだ。 そのうえ、そのように母牛の状態を説明されると、知識も経験もない私にも、その母牛がかなり苦しそうにしてるようにも思えてきた。 これは、思ったより大変な事態らしかった。 午後から獣医さんは、出産の準備に取り掛かった。 医者らしい用具や薬剤の入れ物以外に、丈夫なロープとかなり大きな輪の長さが数メートルはある銀色の鎖が用意された。 ロープ? 鎖? 午後お牛舎内にいるのは、この妊娠した牛だけである。 ご主人と獣医さん、そして私が彼女を取り囲むようにして、なにやら物々しい雰囲気であり、牛もそれを感じ取っているようだった。 まず、獣医さんは要した数メートルの鎖の端を手で掴んだまま、その両腕を母牛の膣から胎内に突っ込んだ。 そして手探りで胎内の子牛の前足を探り当て、その足首に鎖を結びつけた。 (そのときは獣医さんが何をしているのかわからなかったが、あとの状況でそれを理解した) 次に、獣医さんは鎖の外に出ている部分に長いロープをしっかり結びつけた。 そしてそのロープを長く伸ばして、その一方を後方の柱にぐるぐるとしっかり巻き結びつけた 。医療行為というより屋内工事みたいだった。 さて、そのときの状況を整理しておこう。 (1)母牛は出産日をかなり過ぎて大きく成長しすぎた子牛を胎内に入れたまま、苦しそうではあるが4本の足でしっかりと立っている。 (2)ホルスタインは体重が5~600キロあり、胎内の子牛は4~50キロある。出産は立ったまま行われる。 (3)その胎内の子牛の前足には鎖がくくりつけられており、その鎖は膣から外に数十cmほど出ている。鎖は母牛の膣から出ていて、鎖には丈夫なロープが結ばれて、そのロープはピンと張った状態で後方の柱にしっかりと括り付けられている。張られたロープは、地上から120cmくらいの高さに位置している。 (4)ご主人と獣医さんと私という男3人が、そのロープを両手で掴んで準備完了となっている。 そのような状況である。 見た目は、ちょっとした綱引きである。 そして、実際もそうだったのである。 「よぉし、引け~!」 というご主人の声を合図に、3人の男が全力でロープを引っ張りはじめる。 私は目の前で行われていることが初体験でもあり、出産分娩という概念とはほど遠いものなので、とても戸惑っていた。 とにもかくにも、力づくで、母牛の胎内にいる仔牛を、引っ張り出そうとしているわけである。 私はなにやら自分がやっていることが恐ろしくもあり、まごまごしていた。 するとご主人が、 「本気で引っ張れ!出さないと親も仔も死ぬんだぞ!」 と私を強く叱咤した。 「は、はい!」 3人の男は顔を真っ赤にして、全力でロープを引く。しかし全くロープはまったく動かない。仔牛は母牛の体内から、まったく出てこない。 「いったい俺は何を引っ張っているのか!」 と、おかしな感覚になる。 (つづく) |
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北海道の牧場・子牛の出産(5) |
いくらロープで引っ張ってみても、仔牛が出てこないので、途中からは引っ張るだけでなく、ピンと張っているロープにみんなで身体を乗せて揺さぶったりもした。 ともかく、やっていることが、むちゃくちゃになっている。 これは子牛の出産(分娩)のはずだが…。 我々は必死であった。 仔牛を出さなければ、2つの命が失われるのである。 格闘すること15分。 やっと、まず子牛の前足と細長い鼻と口が見えてきた。まだ子牛の目の部分は見えない。 発育しすぎた頭部が大きくて、そこでつっかえているのだ。 どうしても、そこからはまったく抜ける気がしない。どうにもこうにもならない。 体外に出てきている子牛の口からはダラリと力なく、長い舌が垂れていた。 あぶくのような唾液も滴っている。 「もう子牛は窒息死してるのではないか」 と私は不安になった。 見えている子牛の前足や口や鼻の部分は、全く動いていないのだ。 獣医さんはロープから手を放し、出てきた子牛のその前足を掴んで引いていた。 そんなにに引っ張って子牛の前足は大丈夫なんだろうかと、私は心配した。 「このままだと子牛は死にます。時間がありません。ともかくどうやってでも出すんです!」 という獣医さんの言葉で、我々はついに鬼の形相となった。 「自分たちは子牛を引っ張り出しているんだ」 というナイーブな思考を停止し、土木建築作業のごとく、とにもかくにも力の限りで死に物狂いに引っ張った。 とロープを20分以上全力で引っ張っていたので、私の腕の筋肉もしびれて力が入らなくなっていた。 それでも少しずつ少しずつ子牛の大きな頭部が現れてきて、閉じている子牛の眼のあたりも見えてきた。もう少しでもっとも大きな頭部(額の部分)が抜けそうだった。 母牛は、あまりの苦しさからなのだろう、大きな啼き声(泣き声でもあったろう)を上げ続けていた。 私は、母牛を見ないようにした。見たら、引っ張れない。 「もう少しだ!」 と誰かが叫んだ瞬間、頭部がスルリと抜けて、ズボズボッと子牛の体が母牛の体内から出て牛舎の床に大きな音を立てて落下した。 獣医さんは、その子牛の頭部を守るようにして抱きかかえ、一緒に床に倒れた。 それと 同時に、母牛の大きな体がゆらりと傾き、左側に信じられないくらいの衝撃音を立てて倒れた。 母牛は、口から泡を吹いて身体はピクピクと痙攣し、目を大きく剥いてまま失神していた。 目を開けて失神しているようすは、怪奇現象のようだった。 そのとき私は、 「ああ、子牛も母牛も死んだ」 と思った。 見ている情景は、まさにそうなのである。 獣医さんは、まったく動かない子牛にマッサージを始めていた。 私は何をしていいかもわからないし、心身とも疲労困憊だし、その場の異様な光景に普通の感情はぶっとんでしまい、棒のように突っ立っていた。 私も混乱してしまい。ほぼ心神喪失状態である。 その私の精神に更なる追い打ちが…。 なんとご主人が、倒れて泡を吹いている母牛の背中に猛烈なキックを浴びせ始めたのである。 「ええっ!!、なんてことを!ご主人、おかしくなっちゃった!?」 それは凶悪レスラーのような容赦のない本気の蹴り(ストンピング)なのである。 人間の腹部をそういうふうに蹴れば、間違いなく内臓破裂するだろうというような蹴りである。 私は異様な光景に更に異常な光景が見てしまい、もはや痴呆状態の呆然自失となった。 数秒間、私の意識は宇宙の果てに飛んでいったと思う。 が、すぐ我に返った。 「この人(ご主人)はいったい何をしているんだ。今、生死をかけて出産をしたばかりの母牛の身体を渾身の力で蹴り上げているとは!気でも狂ったのか!!こんなこと止めなければ!」 そう思った。 そうは思ったが、声も出ないし身体も動かない。 そんな私に向かって、ご主人が怒鳴った。 「お前も早く蹴れ!蹴れないなら、そこの箒でこいつを叩け。早くしろ!」 日頃はすごく温和なご主人が、すごい顔でわめいている。 それも、 「蹴れ!叩け!」 と。 え~!!これって、なんなのぉ~!? 私はその言葉の意味が理解できず、そのまま突っ立っていた。 「見てみろ、泡を吹いているだろ。このままだとショック死することがあるんだ。これは『気付(きつけ)』だ。母牛が死んでもいいのか、とにかく正気に戻してやるんだ!蹴れ~、蹴れ!!」 「あぁ、はい!わかりましたぁ!」 そういうことなのか。そういうことなのか。 いや、どういうことなのだ? いや、そういうことなんだ! そういうこと(母牛の命を救うため)なら、殴る蹴るでも何でもしなければ! 前にも書いたように、600kgもある巨体の牛にとって、人間の力で蹴られたくらいではなんてことはない…らしい。 (もちろん本気の蹴りは痛いだろうし、つま先なんかで蹴ったらダメだけど…) 『気付(きつけ)効果』のためには、たしかにそれ相当の『刺激』が必要なので、ご主人のやっているように思い切り力を入れて蹴るのである。 しかし見た目は、悪質な動物虐待。 イギリス人が見たら、激怒。 泡を吹いて気絶している母牛を、私はどうしても蹴ることはできず、箒でその身体をバシバシと遠慮がちに叩いた。 叩きながら、なんでか知らないが涙が出てきた。 そのときの私は(たぶん)半狂乱であったろう。 いったいこれはなんなんだ! すると母牛は突然、意識を取り戻した。 そして、ブルルと体を震わせたかと思うと、すくっと立ち上がった。 巨体が急に立ち上がったので、ご主人も私もびっくりして、数歩飛び退いた。 母牛は 「べぇ~!」 と大きく一声啼くと、今産んで、すぐそばで蘇生が試みられている自分の子牛には目もくれず、タッタッタと走って牛舎の戸口に向かった。 私は、あっけにとられて、呆然として、それを見ていた。 母牛は何かが心に引っかかったように、一度戸口の前で立ち止まった。 外は薄暗くなっていて、いつの間にか数メートル先も見えないような濃霧が立ち込めていた。 牛舎を出た母牛は、その濃霧の中に、すぅ~と消えていった。 一切、振り向きもせずに…。 (つづく) |
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北海道の牧場・子牛の出産(6) |
とんでもない仔牛の出産(…あれが出産?)を体験した私は、翌朝いつものように薄暗い時間に起き、牛舎に入った。 昨日産まれた子牛が、牛舎の一番奥につながれていた。 子牛は獣医さんの懸命な手当てにより蘇生して元気になっていたのである。 生命の力というのは、すごいものなのだ。 でも、ポツンと一頭の小さな体は寂しそうであった。なんか不憫でもあった。 そして私には懸念があった。母牛のことである。 「あんな無理な出産だったし、苦しくて気も失ったし…。それは情状酌量しよう。でもあの母牛に子牛に対する愛情はないのかなあ」 と、私は昨日の母牛の退場シーンを思い出して、少し興ざめな感じがしていたのだ。 日課である配合飼料の用意をして、いつものように牛舎の内側から牧場側にある扉を開けると、一頭の牛が私のすぐ目の前に立っていた。 「うわぁ、なんだ!」 大きな頭と大きな眼が、開けた扉に鼻先がくっつかんばかりのところにいたのある。 扉を開けた態勢の私の身体から、ほんの数十cmの至近距離だ。 それまでにそんなことは一度もなかったので、私はびっくりした。 ほかの牛たちは、いつものようにその後方でのんびりと待機している。 その一頭だけが異様であった。 その牛には目の前の私など存在しないかのようだった。 その牛は頭を少し持ち上げて、いきなり 「モウオ~」 と、すごい声で啼いた。 なにやら目が血走っているようでもあった。 そしてその牛は私に体当たりをする勢いで牛舎の中に突進してきた。私はとっさに身を避けた。 「あ!」 そのとき私は気づいた。 そう、その牛は昨日の母牛であった。 牛舎の奥に子牛を見つけると、母牛はここが闘牛場であるかのようにダッシュして子牛のところに走り寄り、すぐ子牛の体を舐めはじたのである。 ペロペロペロペロ、と一心不乱だった。 子牛も母牛のことがわかるのか、すりすりと母牛の足にからんで甘えていた。 それを見て、私の眼から大粒の涙が溢れてきた。大量のポロポロと涙が自然に出てきていた。 昨夜の母牛のあっけない退場シーンに興ざめした思いがあっただけに、よけいにその光景に私は感動していた。 泣きながら、私はこう想像をした。 おそらく母牛は気絶したショックで一時的な記憶喪失になり、昨日はあんなつれない行動をしたが、あとから記憶が蘇り本能の母性が発動してしまった。 母牛はいてもたってもいられなくなり、明け方前から牛舎の扉のまん前に立って、ずっと待っていた、のだろうと。 まるで、ナショナル・ジオグラフィックの一場面である。 私は、子牛と母牛の仲睦まじき光景を見ながら、涙をふきふき感動にふけっていた。 そのとき…。 「こらぁ~!」 と叫びながら、一人の暴漢が箒を手にして牛舎内に飛び込んで生きたかと思うと、子牛をペロペロしている母牛をバンバンバン!と、その箒で叩き始めたのである。 「え?」 その暴漢は、なんと、ご主人であった。 彼は私の感動の名シーンをぶち壊すかのように(ように…ではなく実際に激しくぶち壊したのだが)、母牛を全力で打撃し始めたのだ。 デジャブ…。 昨日も似たようなことがあったような…。 「何を見てる。お前も殴れ。叩いて母牛を子牛から離せ!」 「…」 私は困惑し硬直していた。 これはいったい? もう一度言わねばならないが、このご主人はとても温和な方で、私はアルバイト中に怒られたことも不機嫌な顔をされたこともまったくなかった。 そのご主人が、『また、この暴挙』である。 「この子牛は雄だから、すぐ他所にやる。うちは酪農だから雄牛は飼えない。情が深まるともっと別れが辛くなる」 「あぁ…」 「今のうちに引き離しておくのが人情なんだ。心を鬼にして引き離せ!」 私は目の前の【暴行】の事情は飲み込めたが、目の前の幸せそうな親子の情に水を差すなんて…。 でも、ご主人の言う理屈もわからないではない。 私はひじょうに複雑な思いで、箒を手にした。 「どうして感動だけで終わらないの…かなぁ」 である。 私もご主人と一緒に箒を振り回して、母牛を叩いた。涙に濡れた顔を引きつらせて。 二人の人間に叩かれても母牛は抵抗して、まったくもって動こうとしなかった。 だから我々は余計に強めに叩かねばならなかった。 もし事情を知らない人が見れば、それはまったくもってひどい蛮行で、我々二人はヒューマニティのかけらもない外道に見えただろう。 この人間二人の罪深い行為に閉口して、母牛はイヤイヤながら子牛から離れるしかなかった。母牛は私に尻を押され、自分の首輪がある所定の位置に向かって歩き始めた。 ときどき振り向いて子牛を見ていたが、おとなしく飼料を食べ始めた。 その日の午後、母牛たちが放牧されているときに、その子牛の姿は牛舎から消えた。他の農家にもらわれていったのである。 母牛は数日の間、牛舎に戻ると大きく啼いて子牛を探す様子を見せて牛舎の奥まで走って行った。私はそれを箒を振り回して制した。まるで監獄の悪徳看守である。 そういう数日が過ぎて、母牛は何もかも忘れたかのように平穏になった。 (つづく) |
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ソウルフードは備後風お好み焼き(1) |
私はこれから【広島県のお好み焼き】について語ろうとしている。 それも私という個人が知るだけの限定された経験と情報からである。 よって異論、憤慨、無知についての哀れみなど様々なことを感じられる方々がおられるのは承知の上でのことだということを、申し上げておきます。 テレビや雑誌などで【広島風お好み焼き】という言葉や文字を見聞きするたび、私は、 「う~ん」 となるのである。 この私の「う~ん」は、よくある広島県人の、 「風(ふう)って何? お好み焼きといえば、広島じゃ。大阪風はお好み焼きじゃのうて、パンケーキ!」 などというパターン化した憤慨とは違う。(ある意味では、同じ) 【広島風】として紹介されているお好み焼きは、私のソウルフードであるお好み焼きと少し違うからだ。 (少し違…だけなら「あまり変わらない」とも言えるわけだが…) 私独自の(つまり身勝手な)定義でいうと、一般的に紹介される【広島風お好み焼き】とは、あくまで【安芸風お好み焼き】である。 安芸風? そう。 旧分国では、広島県の西半分を安芸、東半分を備後という。 だから、【安芸風】とは広島市を中心として食べられているお好み焼きのこととなる。(私個人の見解) 私の故郷は備後のほうにあり、私が子供のころ、私の母は一人で自宅の1階で、お好み焼き店をしていた。 よって、私はお好み焼きを食べて育った。血肉がお好み焼きなのである。 そして、私の食べていた(母が作っていた)のは、【備後風】お好み焼きでなんである。 お好み焼きには各地に色々なものがある。 私は基本的にそれらの全てが好きだ。それぞれのお好み焼きに個性があり、おいしく、人それぞれのソウルフードとなっているからである。 とはいえ話を簡単にするために、あえて極めて大雑把に世俗的にお好み焼きの【作り方】だけで分類すると、大きく2つになると私は思っている。 ひとつは【広島(安芸)風】、もうひとつが【大阪(関西)風】である。 既に誰も知っていることではあるが、この2つの作り方の手順を要約してみよう。 以下は、あくまで作り方の手順であって、小麦粉を水に溶くとき何を加えるとか、お好み焼きにどういう具が入っているとか、トッピングがどうとか、そばやうどんを入れる(いわゆるモダン焼き)とかの部分はここでは関係ない。 私が語りたいことの要旨は【作り方】であり、それこそがポイントだからである。 ------------------- ■広島(安芸)風■ ------------------- 鉄板にクレープ状のものをまず作る。 それからその上に色々好きな具を乗っける。 ひっくり返して『表』も焼いてできあがり。 『つなぎ』がないため、極端に言えば具がバラバラになる。 ----------- ■大阪風■ ----------- ボウルなどで小麦粉も具も何もかも混ぜる。 それを円盤状に成形しながら鉄板で焼く。 ひっくり返して『裏』も焼いてできあがり。 (大阪風には裏表はない…ソースをつけるほうが表になるだけ?) 『つなぎ』の中に具があり、パンケーキみたいになる。 そして、この2つのお好み焼きの中間…地域的にも作り方的にも中間の【備後風】が存在する。私の母が作っていたお好み焼きである。 ----------- ■備後風■ ----------- 作り方の基本部分は、ほぼ【広島(安芸)風】と同じである。 【広島(安芸)風】との違いは、 お好み焼きをひっくり返えす前に『つなぎ(具をくっつける)』として水で溶いた小麦粉汁を少量かけて、乗っけた具の中にしみ込ませてから、それをひっくり返して『表を焼く』 ということだ。 ----------- 備後風にお好み焼きを作ると、 【大阪風】のように、『小麦粉に具が埋まったパンケーキ状』にもならず、 【広島(安芸)風】のように、『具がばらばら』にもならない。 よって、、 適度に全体が『固まった』お好み焼きができるのだ。 この備後風の作り方だと、固まっているぶん【広島(安芸)風】よりコテで切って食べやすいし、【大阪風】よりも小麦粉部分が少ないので素材の食感や味も生かすことができるのである。 だいたいのお国自慢は独善的で視野が狭い者が多く、地域外の者から見れば、たいていバカげているものであるという自覚を私は持ったうえで、言う。 ああ、すばらしい【備後風お好み焼き】! こう言って、一人で喜んでいるんだけど…まぁ、仕方ないよね。 私のソウルフードなんだから。 備後地方(備後隣接地も?)以外の一般的日本人は、四捨五入して言えば広島風か大阪風のお好み焼きを、お好み焼きと思っている。気の毒である。 (つづく) |
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ソウルフードは備後風お好み焼き(2) |
自宅がお好み焼き店なので、私は子供の頃には好きなだけ、お好み焼きを自分で作って食べることができた。 店の鉄板は大きな事務机より広めのもので分厚く、父が鉄工所で作ったものだったが、私はそれで何百枚ものお好み焼きを自ら焼いて食べた。 当然、全部【備後風】である。それが私のお好み焼きでなのである。 さて…。 私が【安芸風お好み焼き】を初めて食べたのは高校生の頃ではなかったかと思う。 広島市内で食べたのである。 広島では店員がお好み焼きを焼く。 焼いているのを見ているときから、 「んんん?」 だったが、 出てきたお好み焼きを見て、実際に食べてみて、 「なぜ具がバラバラなのか」 と不審だったが、当然のこと、それはそれでとてもおいしかった。 そのとき、同じ県内でも、西部地方(広島市)には、ちょっと変なお好み焼きがあることそ知った。 広島市は県庁所在地というだけでなく、中国地方の中心?(れを言うと他県は激怒?)であり、カープの本拠地として全国的存在なので、ついつい『広島市内のお好み焼きが、広島県民のお好み焼き』などと、とんでもない誤解を生んでいるのは、とても残念だ。 【大阪風お好み焼き】は、私が大学生になり東京に住むようになってから、初めて食べた。 さきほども書いたが、ボールにオールインワン状態にして混ぜて、パンケーキみたいに固めてる作り方を見たときはびっくりした。 「なんじゃ、こりゃ」 カルチャーチョックである。 とはいえ、それはそれでとてもうまかった。 大阪風もおいしいということは、認めざるを得ない。 しかし、実家がお好み焼き店であった私の心の中にあるのは、【備後風お好み焼き】オンリーである。 ソウルフード愛なのだし…。 進学で上京して【大阪風お好み焼き】を初めて食べた年の暮れに、広島(備後地方)の実家に帰省した。 「やはり【備後風お好み焼き】を食べねばなるまい」 という意気込み満々であった。 すでに母はお好み焼き店はやっていなかったが、私は母にお好み焼きをリクエストした。 ジュージュージュー。 しばらくして出てきたのは、なんと【大阪風お好み焼き】であった! 「げげっ!」 これはいったい? パンケーキ状やないか!! 「お袋、これ、なんなん?違おうがぁ!」 「なにが?」 「ボウルで具を全部グチャグチャに混ぜて焼いたろ?大阪のやつみたいに」 「うん」 「なにしょ~るん」 母は少しバツが悪そうに笑っていた。 母はお好み焼き職人だったのであり、自分の作っていた【備後風】に誇りを持っており、特にごちゃ混ぜの【大阪風】には批判的だった人間だからである。 「こっちのほうが簡単にできるんよ。家で作るときは小さいフライパンじゃけ、店をしとったときみたいに作るのは手間じゃし、いたしい(難しい)けぇねぇ」 母は、あっけらかんとしていた。 私のソウルフードは、我が家においては、この日をもって消滅した。 痛ましい話でしょ? (注)ーーーーーーーーーーーーーーーー 確実に【備後風お好み焼き】を作っているのは、三原市と尾道市。そこでは実際に食べたから。昔ではなく最近も食べたし。 竹原市や福山市などはどうなのだろう。行ったことがあるのでお好み焼きも食べたことがある気もするが、幼い頃の記憶でわからない。 呉市などはどうなのか?三原から呉線でつながっているし…。 備後地方でも、内陸部は? 府中市は確実に、【備後風】だということを最近になって知った。 都営新宿線の神田小川町駅に、『NEKI(ネキ)』さんというお好み焼き店がある。 それと、岡山の東部(備中)の倉敷市などのお好み焼きは、どうなのだろう? もし同じような焼き方であれば、県境を越え、まとめて【備の国お好み焼き】として、一つのカテゴリーにすべきだと思うぞ。 (このお題、完) |
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関西風お好み焼きの店で【備後風】を焼く(1) |
お世話になっている会社の打ち上げや忘年会などが、お好み焼き店で開かれることがある。 たいがい、そこは関西風お好み焼きのお店だ。 私は育った家が【備後風お好み焼き】店だったため【備後風お好み焼き】で育ち、【備後風お好み焼き】をすごく贔屓(ひいき)する。 【備後風お好み焼き】びいきの私ではあるが、いわゆる広島風(私の定義では【安芸風】)も関西風も大好きである。 【備後風】が好きだが、他の『焼き方(調理法)』を否定は…しない。 「【備後風】だけが、お好み焼きだ!」などという愚なことは言わないし、そういうみみっちい人間ではない。 でもまあ、【備後風お好み焼き】は私のソウルフードだから、贔屓の引き倒しにならない程度に、やはりすごく贔屓はする。 これはもうどうしようもないことだろう。 というわけだから日頃、 「自分の実家が広島のお好み焼き店ではあるが、その調理手順は広島風と少し異なる」 ということを熱く熱く語っていた。 その日、関西風お好み焼店で、誰かが、 「お好み焼きは、○○(私の名)に焼いてもらおう。れいの備後風とかで」 と言うと、皆が賛同した。 「それがいい。話だけだとよくわからんから実際に見たい」 という趣旨である。 ふ~む…。 私は大人になってからお好み焼きを自宅で作ることはあまりないし、作っても関西風に作る。家庭で鉄板もなくフライパンだけで作るなら、それが簡単だからだ。 【備後風】で作ることは時々しかなかった。 口先では熱く【備後風お好み焼き】を推しながら、実際は【関西風お好み焼き】に魂を売っているダメ人間だったのである。 ふふふふふ。しかし何の心配もない! 私は子供の頃、毎日のように自分で好きなだけお好み焼を焼いて食べた。 鉄板は、父親が鉄工所で製作した特注であり、お好み焼きをひっくり返してから『押しつぶす(※一般的には、お好み焼きのではダブーは調理法だが、備後風ではポイント)』ための特殊専用器具まで、父が母の命令で作っており、私はそれを自分の手足のように使っていたお好み焼き職人だったのである。(足は使わないが) 顔見知りのお客さんであれば、母の代わりに私が焼いたりすることもあった。 そう、私はプロだ! 私は食べていただけではなく、実戦で何百枚も焼いていたのだ。 自分で焼いて食べ他お好み焼きの枚数は、4ケタを超えているはずだ! わははあははははは。恐れ入ったか! というような気持ちは表に出さず、平常心で、『備後風お好み焼の実演実食』のリクエストを私は受けることにした。 まあ、日頃からかなりの『【備後風】大プッシュ』をしていたから、そういうリクエストがあれば引くに引けない、ということもある。 ただ問題がある。それも大きな問題だ、 その店は関西風お好み焼の店なのだ。 まず、当たり前だが、お好み焼の材料が小さな金属のボウルに入って運ばれてくる。 生地(小麦粉などを水で溶いたもの)も具も一緒になっている。 これは、エントロピーの法則からしても、広島風(【備後風】【安芸風】)のお好み焼を作るのが困難である。 だが、これは生地の液体だけ別の容器に移し替えることで、なんとか『生地と具の分離作戦』で対応できないこともない。 ただし、具(野菜や肉など)に生地がからまってしまっているので、分離できる生地(液体)は、とても少量になる。 前に別項で【備後風】の調理法を説明したのでお分かりだと思うが、 『具(野菜や肉など)に生地がからまってしまっている状態』は、【備後風】調理法にとっては悪いことではない。 (【安芸風】いわゆる一般に言う【広島風】としては致命的にダメであるが…) よって、関西風として用意されたお好み焼のボウルから分離した生地(小麦粉などの液体)で、最初のクレープ状の円盤さえ作ってしまえば【備後風お好み焼き】にかなり近いものができるのである。 私はボウルから分離した生地の液体を鉄板上でなんとか広げて、まずフレープ状円盤を作った。具と分離できた量が少ないので、どうしてもその面積が小さくなるが仕方ない。 そしてその上に、ボウルの中の具をできるだけ固めないように、キャベツ、肉、その他というように積み上げた。 『具(野菜や肉など)に生地がからまってしまっている』ので、『つなぎ』としての生地(小麦粉の汁)をかける必要はない。 じゅ~じゅ~じゅ~。 そのまま裏面を焼く。 しばらくして、裏面がしっかり焼けたら、それをひっくり返して、表面を焼く。 表面が適度に焼けたら、卵をその横で割って崩し、その卵の上にお好み焼本体を乗せる。 卵が好みの硬さになったら、それをひっくり返して出来上がりである。 (つづく) |
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関西風お好み焼きの店で【備後風】を焼く(2) |
私の私見(極度に偏向した好み)だが、マスコミのグルメ番組などで、『ふわふわのお好み焼』という表現がされ、お好み焼店で取材したりしたときに、 「ふわふわ感を損なわないように、できるだけ調理中のお好みおやきに触らない」 というのが『お好み焼きを美味しく焼くコツ』と言われていることが、すっごく不審である。 『中がフワフワのお好み焼き』はそれはそれで美味しいのだが、そういうものがお好み焼きのおいしさだと大きな誤解を全世界に拡散することを、私は深く憂慮するんである。 【備後風】は、ふわふわにしない。 【備後風】が全部が全部ではないだろうし、『私流(私の母流)の焼き方』なわけだが、私の作るお好み焼は『ふわふわ』にしない。 私にとって、『中がふわふわなお好み焼き』はお好み焼きではない! (備後地方民以外を敵に回す、大胆発言! バズっても悔いなし!) 【備後風】は、お好み焼きをコテで押さえて、空気を抜いて焼く。 表面はカリカリにして、中は、『べつに柔らかくなくてもいい』ということである。 私は私の血肉となっている【備後風お好み焼きの作り方(私の母の作り方)】を駆使して、関西風として用意されたものから、私流の【備後風お好み焼】を完成させた。 「こういうのは食べたことがない」 という絶賛感想が多く、私へのお愛想もあるのはわかっているが、すごく好評であった。 そもそも世間に蔓延している、2つのお好み焼き(広島風と関西風)という妄念に迷わされて、ほとんどの人が正しいお好み焼(備後風)を食べたことがないのである。 不憫な人々である。 私はそれから汗だくになって、もう何枚かを【備後風】に焼いた。 食べるより焼くだけの日であったが、自称【備後風お好み焼き大使】の私としては(材料が関西風になっているため完全とは言えないが)【備後風お好み焼】を実際に見て食べてもらって、とても満足であった。 もう一度確認しておくけれど、その店は関西風お好み焼の店である。 店のテーブルには、 『お好み焼の作り方』という熱血指導の手書きのオリジナル説明書が、ちゃんと親切に用意されている。 そして、その説明書で力強く偏執的と思えるほど強調されているポイントこそが、『ふわふわ』なのである。 店員さんは店内にくまなく視線を配り、慣れないお客さんのテーブルを回っては、『ふわふわの関西風お好み焼』の作り方を熱心に説明しているようなところであった。 おそらく、ボウルに入れられた材料一式は、たとえば山芋を入れていたりして、『ふわふわに焼けるよう』、寝る間を惜しんでの試行錯誤の末の工夫がなされているはずである。 なのに、私はそれらを無視(全否定)したかのように、お好み焼きを押さえつけて表面をカリカリに、中はほどほどに堅めに…という、店員さんから見れば『変な焼き物』を作っているのである。 それも、いろいろ勝手なウンチクを大声で垂れながらである。 「あやつ、許しがたし!」 と、思われたに違いない。 ふと見ると、明らかに店員さんの顔が曇っている。 というのも、最初、私が店のマニュアルを完全無視して、『変な焼き方』をしているのに気づいた店員さんは、とても私に対して、すごく心配で気の毒そうな表情で近寄ってきて、 「これでは、ふわふわになりませんよ」 と優しく注意し、私からコテを取り上げて自らの実演で私の『過ち』を正そうとしたのだった。親切心であろう。 しかしながら【備後風お好み焼き】を作ることを要請されていた私は、 「あ、すみません。関西風も好きなんですけど、ちょっと私の故郷の焼き方をリクエストされたので…」 と低姿勢で説明(言い訳)し、店員さんにコテを渡すことを(断固)拒んだ。 私がコテを渡すのを拒んだので、その店員さんはかなり機嫌を損ねたようだった。 「せっかく、おいしい作り方を教えてあげようと言ってるのに、なんだよ。こんなゲテモノ作って」 みたいな感じである。 店が関西風を看板に書き、それを売り物にしているのに、そこで【備後風】をわざわざムリして作っている私が確かに良くはない。 それに店員さんの立場も信念も気配りも、じゅうぶん理解できた。 だから私は彼に逆らうよな態度は見せず、笑ってごまかしておいたが、彼のほうはプライドを破壊されたようであった。 日本人同士なのに、カルチャー対立! それからその後も何度か誘われてその店に行った。 私の気のせいだと思うのだが、事実として、3回目あたりから生地(小麦粉などの汁)がネバネバすぎて分離できないようになったボウルが来るのである。 そうなると、最初のクレープ状の下敷きが作れないので、もはや【備後風】調理はお手上げであった。 もう【備後風】は作って食べてもらったから、私としては気が済んでおり、特に【備後風】を作りたいとは思わないから、関西風でそのまま作って、おいしく食べている。 私としては、問題ない。 ただ、な~んか店員さんの視線が私に対してだけ、キツクて鋭いような気がするのだ…。 気のせいかな? (このお題、完) |
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茗荷(みょうが) |
茗荷(みょうが)の話の前に、まず私の食事に関する癖について書かねばならない。別に誰も、そんなこと知りたくもないだろうが、この話には必要なことなので…。 私は、 『好きなものは残しておいて、最後に食べる』 『嫌いなものは、何が何でも先に食べておく(だから嫌いだから食べ残すということは、ほぼない)』 というタイプの人間である。 妻は全く逆(好きなものだけ先に食べ、嫌いなものは手も付けない!)なので、食生活ではいろいろ問題が生じるが、ここではそのことは置いておく。 さて、はじめて妻の実家(福島の農家)に行った時のことだ。 実家での正真正銘最初の食事であった昼飯のとき、汁物が出た。【茗荷の卵とじ澄まし汁】だった。2つの茗荷が、丸ごと入っていた。 私は生まれて初めて、家庭の食膳で茗荷を見た。 私の母は自分が嫌いなものは一切食卓に出さなかったから、母の嫌いな食べ物は私が大人になって社会に出るまで、テレビなどで見たことはあっても、食べ物として見ることがなかったのだ。 だから正確に書けば、その吸い物の中に入っているのが茗荷というものだと私にはわからなかった。 食べてみて、 「うぅ、これは?」 と、その味に不審を抱いたので、 「これはなに?」 と、隣の妻にこっそり聞いて、それが茗荷というものだと知った。 これが、ミョウガか…。 そう、クセがある。 それも私には合わないほうのクセだった。茗荷に罪はない。私の好みだけのことである。 私は、前述したように、『嫌いなものは先に食べる(嫌いなものでも残さない)』人だから、頑張って、2つの茗荷を飲み込んだ。 そして、他のおかずで茗荷独特の風味を消す作業に没頭した。 茗荷の味が口の中にあると、どうにも食が進まないのだ。 妻は嫌いなものは食べないわけだし、妻も茗荷は嫌いだから手さえ付けない。 その妻の分の椀は私の前に、すっと移動されていた。 「え?」 と思ったが、初めての妻の実家での食事である。 「これは嫌いで、食べません」 ということはできない。 私でさえ、こういうときは気を遣うのだ。 妻は私が茗荷を初めて見たらしいことはわかっただろうが、私はもともと好き嫌いがさほどない人間なので、私が初めて食べた茗荷の味を強く拒絶していることには気づいていなかった。 それに妻は私と逆で、『好きなものだけを先に食べる』人間だから、私がバグバグ茗荷を食べるのをを見て、 「この人、茗荷好き?」 と、勘違いしているらしかった。 義母がせっかく作ってくれたのだから、ということで、目の前にスライドされた妻のぶんの茗荷汁もさっさと食べた。 やはり、まずい。 たくさん食べると、もう他のおかずで胡麻化すこともできない。 茗荷は私がそれまで経験したことがない、どうにも好きになれない独特の味だった。 私は必死で食べているのだが、初めての妻の実家での食事なので、顔は愛想笑いで満開である。おそらく、おいしく食べているように見えただろう。 そして更に怖ろしいことだが、この家(妻の実家)の人は、妻と同じで、全員が『好きなものを先に食べる』人たちだったのだ。 「ありゃ、もう食べたの。じゃあすぐお代わりを(福島弁の再現ができないけど福島弁)」 そう嬉しそうに義母は言い、茗荷汁のお代わりを持ってきてくれた。 「そんなに茗荷をバクバク食べる人はいないぞぅ。よっぽど好きなんだな」 と、嬉しそうに…。 見ると、あふれんばかりの大盛りの茗荷が椀の中に! う~む…丸ごと8個は入っていそうだ。 こうなればしかたない。 私はニコリと笑って、その椀を受け取った。 ただし、食べきってしまうと、またお代わりが出、そうなると私は死んでしまうだろうから、私にとって『茗荷は嫌いなものだから、先に食べるべきもの】ではあったが、すぐ手を付けず、食事の最後に何とか(必死で)全部食べた。 最後に大量の茗荷を食べたので、昼食は茗荷だけを食べたような食後感になっていた。 言っておくが、茗荷を食べれないわけではない。食べれる。 好きな味じゃないだけだ。 いや…。 いい子ぶるのは、やめよう。はっきり言おう。 「私は、ミョウガは、大キライだぁ~!」 そんな私だが、その後も毎年、茗荷汁を飲み続けていた。 大量な茗荷を食べる人間は茗荷好きに決まっており、私のために義母は、選りすぐりの大きな立派な茗荷を毎年収穫してくれたのである。 私が意を決して義母に、 「じつは茗荷は嫌いです」 と打ち明けたのは、結婚して20数年後であった。 それまで、ずっと茗荷汁を(おかわりしなくていいように、ゆっくり1椀だけだが)食べ続けていた。 「嫌い?はいや~!」 と、義母は本当にのけぞった。 それはそうだろう。20数年、私の好物と信じていたのだから。 その帰りの高速道路での運転中、私は、 「ついに言ったぞ!」 と、自分をほめていた。 「 四半世紀かかって、ついにオレは茗荷から解放されたんだ!」 助手席の妻は、 「バカじゃない。気を使わないで、早く言えばよかったのに。私にまで口止めして食べ続けるなんて」 と、冷たかった。 義母(おかあ)さん、茗荷が嫌いで、ごめんなさい (このお題、完) |
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広島名産の生牡蛎(カキ) |
私は広島県の出身だが、不憫にも牡蠣が広島の名物であることを東京に出てきて後、人から聞かされるまでまったく知らなかった。 私が子どもの頃、もちろん牡蠣はよく食べた。たいがいは牡蠣フライであった。 生産地に近いのだから新鮮なものはいくらでもあったが、生で食べた記憶はない。母が生牡蠣を好かなかったせいかもしれない。 もちろん、牡蠣を生で食べる人がいることは、海で遊んでいたときの経験で知っていた。 私は河口の汽水域のあたりで育ったから、いつもすぐそこの海で遊んでいた。 海には野生の牡蠣がいくらでも棲息していた。そこらじゅうのテトラや岸壁にびっしりついているのである。 どこかの大人が先の曲がった金具を用いて牡蠣の殻を開け、その金具の先で身を擦り取って、そのまま口に放り込んで生で食べるところをよく見た。 「変な人だ。近寄らないでおこう」 と、私は思っていた。 私たち子どもは石で牡蠣殻を割り、中身を取り出して釣りのエサにすることがあった。 牡蛎の身はグニャグニャしていて針から外れやすいので、投げ釣りのエサとしてはダメだった。 我々子どもは海では浮釣りではなく、主に投げ釣りをしていたからゴカイなどのほうが魚釣りのエサとして上等だという感覚だった。 そういう意味でも、私にとって牡蛎は外道なのであった。 海の中にはハゼがたくさんいたが、牡蠣の剥き身を投げ与えると、パクッとすぐに食らいついて飲み込んだ。 それを見て私は、 「牡蠣はどうやら、魚にはよほど美味いものらしい」 ということを学んだ。 そう、『魚にとって』である。 我々の子ども時代は牡蠣を食べ物としてより【魚の好物】として見ていた。 私は家がお好み焼き店(定食や麺類やおでんなどもあった)であったため、自由食べれるものも多く、海でいくらでも採れる牡蠣を食べようという動機がなかった。 大人になり、 東京で暮らすようになってから、広島の伯父から高級な瀬戸物の壺に入った生食用の生牡蠣がクール便で送られてきたことがある。 私はその包装を解き、表面に光沢のある重量感あふれる焼き物の壺に驚いた。 「(魚のエサなのに…)牡蠣は、このような入れ物に入れるとは。牡蛎はこのように貴重そうに扱われるものだったのか…」 もちろん、私が子どもの頃に海に棲息していた野生の牡蠣と、プロが手をかけて丁寧に養殖された牡蠣は全く別物であろうが、私にとっては牡蠣の尊貴さを実感として知ったときだったのだ。 しかしながら、私はその生食用の高級生牡蠣を全てフライにして食べた。 子どもの頃から、牡蛎を生で食べたことがなかったからである。 今でも、テレビで生牡蠣を食べているシーンを見ると、不審である。 私は、牡蠣に関してはまこと不憫な人間であろう。生牡蠣のおいしさを知らないのだから。 別に知りたくないのだが…。 後に帰省したとき伯父が私に、 「あの牡蠣はうまかったじゃろ?」 と訊いた。 まさか高級生食用生牡蠣をフライにしたとも言えず、私は、 「おいしかった。最高級品の味だよねぇ」 と誤魔化した。 こういう嘘をつかざるを得なかった私は、ますます色々と不憫者である。 伯父さん、そして広島のおいしい高級牡蠣さん、ごめんなさい。 (このお題、完) |
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『香港亭』の餃子 |
その昔(1970~1990年くらい)、広島県の瀬戸内の小都市の駅前に、『香港亭』という小ぶりな中華料理店があった。私の伯父さんと伯母さんの店である。 私はいまだに、その『香港亭』の餃子が、一番好きで一番おいしいと思っている。 (親戚の贔屓だけではなく) 伯父さんの店の餃子以外の料理は、普通であった。(伯父さん、ごめん) そのことは伯父さんにも自覚があったようだし、他の多くの常連さんも了解していることで、まるで餃子専門店のように餃子ばかり注文されていた。 要は、餃子がうますぎて、ほかの料理はおざなりにされしまった、というところだろうか。 ともかく、餃子が最高だった。 だから、私は香港亭に行くと餃子だけ食べていた。 若いころは、50個から100個は食べた。 黙っていても、店に入って座っていると、私の目の前にそれくらいの数が焼かれて出てくるのだ。 母のやっていたお好み焼き店は、私が中学生の頃には閉めてしまったので、私はしょっちゅう駅前の伯父さんの店に行って、餃子を食べた。 (それ以外のものも、もちろん食べた。育ち盛りだったし、いくら食べても無料だったし) 私の血肉は、母の店のお好み焼きと伯父の店の餃子でできているのである。 私は大学で東京に出てしまってからは、故郷には時々帰省するだけになった。 それでも帰省のたび、ほぼ必ず駅前の伯父さんの店に立ち寄り、腹いっぱい餃子を食べてから実家に帰る、ということを繰り返した。 実家では母が手料理を作っているので、それも頑張って全部食べることになる。 末っ子の母とは年が離れていた伯父さんも歳をとり、後継ぎもなかった。 (私は時々、店を継がしてもらって餃子を作りたいなぁ、と思うこともあったが、やはり東京で色々なことをしたかったので、そういう話を実際にはしたことはない) そういう状況の時に駅前の再開発があり、伯父さん夫婦は駅前の店をたたんで、駅から少し離れた場所でカウンターだけの小さな店を始めた。 中華料理店ではなく、餃子とお酒の店である。 夕方から深夜までの営業時間で、餃子メインでお酒と中華の肴を出す。 夕方頃は昔からの馴染み客、夜も遅くなると水商売の方々がやってくるような店になった。 餃子が美味しいこともあるが、伯父さん夫妻が朗らかで楽しい人柄だったので、店を小さくして場所が変わったあとでも、常連客がたくさんいたようだ。 私は帰省の時しか行けないわけだが、必ず実家に帰る前に伯父さんのその店に立ち寄り、たくさんしゃべり好きなだけ飲食した。 私は、伯父さん伯母さんが、大好きだった。 何年も過ぎていき、 残念なことに、伯母さんが健康を損ねたこともあり、その小さな店も閉じることになった。 名物の【『香港亭』餃子】も、表向き”終焉”となった。 ただし、伯父さんの自宅に行けば、必ずその餃子が食べれた。 冷蔵庫にいつでも50個100個くらいは餃子ができる量の餡が寝かされているのだ。 伯父さんの家に行くと、 「餃子、食べるじゃろ?」 「うん」 というのが、あたりまえのことであった。 時が過ぎ、伯母さんが亡くなり、私の母も亡くなった。 この二人は、【香港亭餃子】のレシピを暗記していた。だが、その二人はこの世にいなくなった。 丈夫そうな伯父さんは、いつまでも生きそうだとは思ったが、 「香港亭餃子のレシピを伝授してもらわねば」 と、思うようになっていた。 ある帰省した冬、私はそのことを伯父さんに言った。 伯父さんは、 「ほぉ」 と少し意外そうな表情をしたが、喜んで、すぐ了解してくれた。 二人でスーパーに行き、餃子の材料を買った。 さぁ、伝授である。 私は、母が【香港亭餃子】を家で作っていたから、おおよそのレシピは知っていた。 けれど、レシピについて深く考えたこともないし、実際に自分で作ったこともなかった。 私はメモを取りながら、伯父さんの作業と調理を見ていた。 【香港亭餃子】は、小ぶりで皮が薄い。 モチモチした皮ではないから、あえて極端に表現すれば、最初の食感は『カリッ、パリッ』という感じに焼ける薄い皮が特徴なのだ。 「皮は市販の一番薄いのでもええ。問題は餡だからな」 と、伯父は言った。 (つづく) |
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『香港亭』の餃子 | ||
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私は時々、この【香港亭餃子】を作る。 作ると、何食かに分けてだが、百個から二百個くらいは食べる。そのくらい食べておくと、しばらく食べなくてすむからという理由もあるが、子供のころから、そういう数を食べてきたので、そのくらい食べないと食べた気がしない。 餡作りは、2~3時間(買い物からだと半日)かかるから、無精者の私としては、そうたびたびは作る気にはならない。 私は料理をするのは好きでもないし、料理が上手でもない。 食事の量は多いほうだが、食べ物にほとんど執着がない人間なので、日ごろは何でも食べるし、 「今日はこれが食べたい」 などと思うことが、あまりない。 そういう私にとって、わざわざ手をかけて【香港亭餃子】を作って食べるのは、一種の『儀式・儀礼』なのだと思う。 もちろん、伯父さん伯母さんとの思い出への追悼の儀式である。 私は、『【備後風お好み焼き】を食べれば、母』を、『【香港亭餃子】を食べれば、伯父伯母』を思い出すのである。 ここまで書いたところで、妻が来て、これを書いているモニターを覗き込んだ。 「食べ物で、親族を思い出すんだぁ~。へぇ~」 そう呟いて、そのまま立ち去った。 おいおい…。 なんかこう、書きながら、しんみりしてたのに…。台なしじゃないかぁ。 (このお題、完)) |
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(このお題、完)) |
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ツクシ(土筆)[1] |
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ツクシ(土筆)[2] |
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蜂 [1] |
風呂上がりに、ベランダから取り込んだばかりの洗濯物の中にあったパンツを履いて、蜂に刺されたことがある。 そう。 パンツの中に蜂がひそんでいたんである。 さいわいなことに、内またあたりを軽く刺されただけですんだ。 刺されたところによっては、大ごとだったと思う。 洗濯物の中に蜂が隠れていたという話は時々聞くから、そう珍しいことではないのだろう。 蜂といえば、私には忘れ難い思い出がある。 小学低学年の夏休みの、午後のことであった。 母がお好み焼き店をやっていた家の近くに、一般サイズの校庭ほどの空き地があって、そこが廃材置き場になっていた。周囲は畑と住宅地であった。 その廃材は、近所の銭湯で湯を沸かすのに使われており、ときどきトラックが家屋などを解体したものを積んできては、野積みにしていた。 積まれた高さは2~3メートルあり、戸板や柱や壁面から剥がされた板が混在しているので、ところどころにいい感じの隙間ができ、雨が降っても濡れない箇所が自然にあちこちにできていた。 私たちはそこを『基地』にし、色々なものを持ち込んで整備した。子供が必ずやることだろう。 その廃材を使う銭湯には、湯舟が3つ(男女で6つ)もあり、私は体が小さかった幼児のころには潜水したりして遊んでいたし、小学生になると【マブチモーター】をつけた潜水艦の模型を潜航させていた。 そんなことをしていても、怒られた記憶がない。 不思議だ。 その銭湯のボイラー室を見たことがあって、経営者のおじさんに色々教えてもらって知ったのだが、基本的には重油を燃料に使っているが、それより安くつく廃材も併用していたんである。 さて、その夏休みのある日の午後。 私はその廃材置き場で、数百匹の蜂(ミツバチ? 大きな鉢ではなかったような記憶…)が、(直径30cm長さ5mくらいの)廃材から出ている樹液に群がっているのを発見した。 家の廃材から樹液が出るとも思えないので、山から集められた倒木なのかもしれない。 私はなぜか魅入られたように、その木の樹液に群がる蜂の大集団を見た。 どういうわけか、しばらく、その場で立ち尽くしたのだった。 虫の集団がうごめく様子は、私にとって気味が悪いものだったし、蜂が危険な昆虫だという知識もあった。 が、私は、じっとその生態を観察した。 今では昆虫は『気味わるい』と思うようになってしまったが、子供のころは平気で何でも触れたし、興味があったのだろう。へんな夏休みの自由研究もしたし。 私のそのとき、ふと、こういうことを考えた。 「こいつら(蜂の大集団)を脅かしたら、どういう行動をするんだろう?」 どういう行動って…。怒って襲ってくるに決まってるじゃないか! しかし私は、なぜか、そういうふうには考えなかった。 それじゃあどう考えたのか?ということは、まったく憶えていない。 しかし、襲われるとは考えなかったから、私はあの驚くべき行為に及んだのであろう。 |
(この話、つづく) |
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蜂 [2] |
私は近くにあったソフトボール大の石を拾い上げ、その石を(蜂の集団にではなく)その集団から50cmくらい離れた木の部分に思い切り投げつけたのであった。 石は見事に木材を直撃し、その激しい振動で蜂たちは攻撃されたと判断してか?(まあ攻撃したわけだが)パニックになり、ほとんどの蜂が一瞬で空中に飛び上がった。 恐ろしい数の蜂たちであった。 彼らは、空中でグルグルと小さく旋回して反撃用の集団態勢を形成した。 【北斗の拳】で、レイが奥義『飛翔白麗』で宙に舞った姿に心をうばわれたユダのごとく、そのときの私は、その蜂の空中での集団行動の美しさに見とれた。 「おおっ!」 である。 が、すぐさま、その声は、 「あっ!」 に変わった。 そう。 日体大の『集団行動』のごとくの、蜂の集団行動の美しさに感心しているどころではないのであった。 蜂たちは私が襲撃者であることを察知(周囲に誰もいなかったから)し、その蜂の黒い集団は、一部は個々に飛びながらも、全体として明らかに私に対しての一斉攻撃を開始したのであった。 「げげっ!」 私はある種の夢から覚め、覚醒して現実を把握した。 「や、ら、れ、る!」 動物の自己保存本能的な危険と恐怖を感じた私は、当然のことその場から逃げ出した。 全速力! しかし私は、同時に悟っていた。 「絶対、逃げ切れない」 と。 相手は、飛行する昆虫なんである。人間が走って逃げられるわけもない。 家の裏口が数十メートル先に見える。あの中に逃げ込めば安全である。 が、逃げ込める可能性はゼロである。絶体絶命! 私はその時、 「あ、そうか! この手があったぞ」 と思いつき、その場に倒れて【死んだふり】をした。 私は地面に伏して、じっと動かず息を止めた。 5分後、私は首後ろあたりを数か所刺され、泣きながら家に帰った。 さされた傷は大したことがなかったが、心に傷を負った。 「死んだふりをしたのに、なぜ?」 私はその体験を夏休み明けにクラスの友達に話した。 「なんで刺されたのか…わからんのじゃ」 と、私が最後に言うと。クラスメート達が一斉に爆笑した。 「死んだふり? それは、熊じゃろうがぁ!」 「クマ?」 そのあとも、ずっとあとに大人になってからも、何度かその話をし、その都度、同じ反応に遭った。 でも、私は今でも、なぜ刺されたのか、疑問なのである。 蜂に襲われたら、死んだふりでしょ? だって、熊だったら食べられちゃうよ。 妻いわく、 「蜂に襲われたら、水に飛び込むのよ!」 だそうである。 |
(この話、おわり) |
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犬といったら、”シェパード” (その1) |
まだ小学生低学年のころ、シェパードを飼っていた。 大昔の、昭和の話である。 シェパード(ジャーマン・シェパード・ドッグ)といえば警察犬というイメージを多くの人が持つのではないだろうか。 実際に、今でも日本の警察犬で、シャパードが最も多いそうである。(by Wik) 警察犬は、賢い(はず)。 だが、我が家にいたシェパード犬は、2匹とも残念ながら不出来であった。 おそらく、『だから』購入価格が安く、うちの親父にも買えたのだろう。 ------------------------------------ さて、私が9歳ころのある日、親父が何を血迷ったのか、 「シェパードを飼う!」 と言い出して、家族をびっくりさせたのであった。 我が家では親父以外は全員(母、私、弟)が猫大好き人間であり、【猫のタマ】が何を置いても主役であり、犬も好きではあったが、犬を飼うという発想はなかった。それも大型の外国犬なんて、である。 そこにその親父の、宣言だったのだ。 そもそも雑種の犬ならともかく、『シェパード』という犬種はテレビの外国ドラマで見たことがあるだけで、実物も知らず、 「ドイツの犬じゃろ?」 「でこうなるらしいのう(大きくなるみたい)」 と、我々は親父に対して消極的な拒否反応を示したのだが、親父はどういうわけか、 「近所で誰も飼っていない大型犬を飼いたい」 ということに異様な興奮を発していて、家族の反対意見を聴く耳を持たなかった。 母が、 「誰が世話するん?」 と訊くと、 「わしがする!」 と親父は答えていたが、これはペットを飼いたがる子供と親の会話と同じで、最初に飼いたがる者は、その熱中が冷めれば世話などしないんである。 母は自宅でお好み焼き店をやっており、一日中家にいるから、自分が世話をさせられるのが目に見えており、強硬に反対したが、親父は珍しく押し通した。 鉄工所で働いていた親父は、自分で大きな鉄の檻(犬小屋)を造り、狭い庭に備え付けた。 いつもダラダラしていた親父にしては、意気込みが凄かった。 まぁ、熱しやすく冷めやすいんであるが…。 私と弟は母の絶大なる影響を受けた【猫党】ではあったが、 「(そのうち大きくなるにしても)、可愛い子犬がきたら楽しいかもしれん」 と、多少期待しているところはあった。 ところが、連れてこられたのは、まだ若いのだろうが、すでに成犬に近いようなデッカイ犬であった。 9歳、7歳の私と弟からすると、猛獣に近い大きさなのだ。 そのうえ、そのシェパードは、我が家族に対し狂暴な唸り声をあげ、吠えまくり、首輪が千切れんばかりに紐を握っている納入業者を引っ張りまわし、やっとのことで犬小屋(鉄の檻)に入れられるのであった。 その夜、その犬は、ワォォ~ン!と夜空に向かって、吠え続けた。 子供の私は、 「とんでもないものが来たのう」 と不安になっていた。 我が家は、新興住宅地にあった。 昔の地方都市のことでもあり、家屋が密集しているとまではいえないまでも、町中なんである。 近所迷惑なことだったろう。 |
(つづく) |
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犬といったら、”シェパード” (その2) |
「ほら見ろ。これが血統書だ。名前は【ドル】だ」 と英語も混じった書面を私に見せながら、親父はご機嫌だった。 「シャパードはドイツの犬じゃろ。ドル言うたらアメリカのお金じゃなぁん?なんで、ドルなん?」 と、私が聴くと、親父は、 「そう言うても、買(こ)うたときに、もう名前がついとったけぇ、しゃぁなぁ」 と、寂しそうに答えた。 今思えば、自分で名前(愛称)をつければ、愛情も湧いて良かったと思うのだが、親父にはそういう柔軟さはなかった。 いい加減で不真面目な性格だったくせに、そういうところの融通が効かないのは、血統書かそれに付随する書類に書かれていた『血統上の名前を有難がる』という権威主義への信奉心のためだったと思うのだが、それだからこそ『血統書つきのデカイ洋犬』を飼いたがったわけであり、しかたないことだったのだろう。 おそらく(騙されて)かなり高価で買ってきた犬が狂暴で誰にも懐かず、昼間はワンワン、ガオガオと吠え、夜は遠吠えを繰返していても、親父は気にも留めず、 「やっぱり、シェパードはオオカミじゃなぁ。よう似とるしのう。身体はデカイが歳からしたら、まだ子供といえば子供じゃけ、夜に遠吠えするんも親が恋しいからじゃろう。仲良くしちゃれ」 と、私や弟に言った。 産まれたてくらいの子犬であれば可愛らしくもあり、いっしょに遊んでいるうちに馴れもするだろうが、インチキ業者に騙されて、おそらく出来が悪く引き取り手のない、人間不信の犬をつかまされたに違いなく、まだ小学生低学年だった私と弟は、自分より大きく恐ろしい犬がいる檻にさえ近づけなかった。 「犬小屋に閉じ込めておくのは可哀そうじゃけ」 と、親父は近所の大工さんに頼んで、狭い庭に高さ120cmくらいの木の塀を作ってもらい、 「懐いて大人しくなってきたら、昼間は庭に出してやろう」 と、動物愛護精神に満ちた宣言をした。 とはいえ、「懐いてきたら…」というのは、 「懐かんうちに檻から出したら、ワシらが噛み殺されるかもしれん」 という警戒心なのであるが…。 先に言っておくと、この我が家初代のシェパードの【ドル】は、数ケ月後に病気で死んでしまう。 そのときまで、いっさい親父には懐かず、手まで噛まれてしまうことになる親父は、落胆と失望で【ドル】に近づかなく(近づけなく)なるのであった。 私と弟は、まだ身体も小さい子供であったから、犬を飼う、という感覚ではなく、トラとかオオカミを飼うという恐怖しかなかった。 ただ、人間というものには『適応』というものがあり、狂暴な大型犬でも毎日近くで見ていると、少しずつ少しずつ慣れてくるのである。 |
(つづく) |
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犬といったら、”シェパード” (その3) |
大型犬を飼うことに憧れていた親父の予定では、親父が餌の皿を持って現れると、この外国犬は可愛げな態度で尻尾を千切れんばかりに振りながら駆け寄ってきて、喜び勇んで親父にじゃれつき、親父はその頭をなでながら、 「お座り」 「待て」 「よし」 とかコミュニケーションをして楽しむつもりだったらしいのだが、(小学校低学年の我々兄弟も、猛獣のような洋犬に対する、父のそういうカッコイイ姿を期待していた)、実際は、親父が【ドル】の前に姿を現すと、どういうわけか狂気に近い興奮度合いで吠えまくられ、そのうえ、その凶器そのものの牙で、ガブリ!と手を噛まれ、親父は、最初の対面の後、もう一切【アロー】に近づけなくなってしまったのである。 ところが、どういうわけなのか…。 猛犬【ドル】は、狂ったように吠えていても、母がお好み焼きを焼区手を止めて、裏口から顔を出し、庭に向かって大声で一喝すると、頭を低くし上目遣いに母を畏怖した様子になり、すぐ大人しくなった。 【ドル】には、母がお好み焼きや汁うどんなどの店の残り物を与えており、母が食べ物を持って行くと、喜び勇んで駆け寄り、静かに黙々と食べるのであった。 おそらく、『食べ物をくれる人』という認識が、母に対する恭順な態度の理由だったろう。 当時は深く考えなかったが、今考えると、【ドル】に対する親父の失望は大きかったろう。 念願の大型洋犬を、(まがい物をつかまされたとはいえ)かなりの高額で買ったのに、その犬が家族の前で自分をコケにし、あろうことか『か弱い』はずの自分の妻には子分のように尻尾を振っているのである。 犬は『家庭内で誰が主人』かを見抜き、家族に自分を含めた順列をつけるそうである。 子供で身体が小さかった私と弟は、【ドル】より下位で、基本的に無視。 毎日、お好み焼き店の残り物を食事としてくれる母が、【ドル】のご主人様。 朝から夜まで家にいないし、何もしてくれないくせに威張った態度で接してくるから、(たぶん)「なんかコイツ気に入らねぇ!」と思われていた親父は、【ドル】にとって敵で、積極的な攻撃対象。 【ドル】が我が家に来て数日後には、もうそういう態度であった。 しかし、この初代シェパードの【ドル】は、数か月後、ジステンパー(らしい)で、あっけなく死んでしまった。 何か苛立ったように吠えてばかりいたし、あまり懐かなかったので、もとより身体に不具合があったのかもしれない。 大昔の田舎町には、今のようにペット病院があちこちにあるわけでもなく、ペットの病気についての意識や知識も乏しく、「生き物だから死ぬだろう」という感覚であった。 これは動物に対する愛が少ないということではなく、江戸時代より現在のほうが、人間の平均的な健康寿命が大幅に伸びていることと、同じようなことなのではないかと思う。 |
(つづく) |
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犬といったら、”シェパード” (その4) |
初代シェパードの【ドル】が、あっけなく死んだとき、私も弟も泣いた。 まったく懐かず恐ろしい犬だったが、朝起きて庭の小屋の中で冷たく横たわっているのを見たときは、可哀そうでならなかった。 やはり、一緒に暮らしているのだから、恐くても【ドル】に対して、愛情が湧いてはいたのである。 死骸は保健所なのか、業者なのかが引き取りに来た。 小さな庭に大きな鉄製の犬小屋(檻)だけが、寂し気に残った。 ところが…。 驚くべきことに、親父は、すぐさま次のシェパードを買ってきた。 間違いなく『今度は愛犬に自分が愛されたい』というリベンジだったと思うのだが、我々兄弟が思いのほか悲しんでいるので元気づけたかった、ということもあったのかもしれない。 ただ、またしても、生まれて間もない『いたいけない子犬』ではなく、生れて1歳以下だったかもしれないが、すでに成犬近くにまで育ったしまった犬だった。 先代と同じように、成長してしまったら懐きにくいので価格が安かった、のだろう。たぶん。 2代目シェパードの名前は、【Arrow(矢)】であった。 これも血統書上の名前なので、こちらで勝手に親しみやすい愛称を付ければよかったのだが、『英語の由緒ある名前』らしいということで、そのままであった。 (再度書くが、ドイツ原産犬なのだから、ドイツ語の名前ならカッコ良かったのになぁ) 【アロー】は、初代【ドル】よりも大人しかったが、やはり幼犬ではないので、体が大きいから可愛いということもないし、すでに自我?もできていて、我々には懐きにくかった。 この【アロー】も、我が家に来てしばらくの間、夜になると遠吠えをした。 ほんと、オオカミみたいであった。 「見た目はデカイが、まだ子供だから寂しいんじゃろう」 と、以前聞いたことのあるセリフを親父は、また言った。 「こいつは、オレに懐いてくれるかもしれん。まぁ、前の犬よりは、よかろう」 という期待をもっているようだった。 気の毒なことに、その親父の期待は、またもやすぐ裏切られ、【アロー】も親父には敵対し、食事をくれる母には従順になるのだった。 (我ら小さな子供の兄弟は、当然格下扱い) もちろん、親父も、 「今度こそ、うまくやるぞ」 と意気込んで、積極的に【アロー】の世話をしようとし、声をかけたり、餌を運んだりしたのだが、どういうわけか(前世で犬をいじめていたのか…)、いつも吠えまくられて噛みつかれそうになるばかりであった。 「なんで、【アロー】はワシになついてくれんのじゃろうか」 と、親父は嘆いていたが、それを見ていた我が家のヒエラルキートップの【猫のタマ】は、胡散臭そうな目であった。 この【タマ】も、日頃から、ほとんど親父に近寄らなかった。 どういうわけか、動物に(人間にも?)好かれない哀れな親父であった。 |
(つづく)…続編は、そのうち…。 |
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