大昔の話。
私は19歳の夏に北海道の酪農家(牧場)で一ヶ月間アルバイトをし、そのときに忘れられない経験をした。
子牛を母牛から【引っ張り出した】のである。
引っ張り出した?
そうなのだ。文字通り、引っ張り出した。
その話をしよう。
大学1年生になって日も浅い5月のある日、私は学生課の掲示板に貼ってあったポスターでそのアルバイトを知り、迷うこともなく応募した。
そして7月中旬に、同じような経緯で応募した80人ほどの学生たちとともに、上野駅から夜行寝台列車に乗った。
目指すは北海道。
夜行寝台車は明け方に秋田を通過、青森からフェリーに乗り換えて北海道に渡り、また電車に乗り、我々学生は北海道の南の海岸線を東に向かって走った。
その半年前まで広島県に住んでいた私は、大学生活のため上京し、その数ヵ月後には北海道にいるのであった。
ちょっと大げさに言えば、私にとって未知の冒険である。ともかく嬉しくて楽しかった。
最初に、途中の襟裳岬近くの駅で、昆布採取アルバイトの20数名の学生が下車した。
次に釧路の手前で、牧場でアルバイトするグループの第一陣が下車した。
私の属する牧場グループ第二陣も30人程度いたが、まだまだ東に進む。
私の選んだ就業先は厚岸の太田農協であった。(地区的には釧路の太田農協)
厚岸駅で列車を降りると真夏でも空気が少しひんやりした。
農協の係員とアルバイト学生を受け入れる農家の方々が、駅前で待ってくださっていた。
名簿を確認しながら農協の担当者が一人ずつ学生の名を呼び、
「きみは○○さんのところ」
と、迎えに来ている農家の人を紹介する。
紹介された学生は、その農家の人とともに車に乗って消えてゆく。
電車内で知り合って俄か友人となった学生たちは、
「じゃあ、またな」
と手を振りあって、各自のアルバイト先に向かうのである。
私も名を呼ばれ、『O牧場』のご主人に引き会わされた。
笑顔の良い人で、私の緊張はすぐ解けた。
Oさんは小柄な方だったが、日に焼け、筋肉質で力強い意思を感じる人であった。
私はたまたま夜行寝台列車の隣の席であったW大の4年生と打ち解け、いろいろ話をしているうちに誘われ、牧場でのアルバイト終了後に、いっしょに知床の羅臼岳登山をする約束をしていた。
私は彼より先に名を呼ばれたので、その人に片手を挙げて、
「お先に!」
と声をかけてOさんの車に乗り込んだ。
携帯電話など存在しない時代なので、彼とは、農家さんの電話を使わせてもらって、連絡を取り合うことにしていた。い
O牧場に向かう車は、なだらかな原野のような丘陵地形の中を進んだ。
もちろん本来の原野などはもう存在しない。ほとんど人間が開拓してしまっている。
その当時(1980年ころ)、太田農協あたりはでは最初の入植から3世代以上経過してたため、だいたいの農家は経営も比較的安定し営農規模も大きくなっていた。
大きな牧場(酪農)だと、乳牛が2~300頭も飼育され、なんとなく『乳搾り工場』みたいな規模なのである。
そういうところには人手も多く必要となる。
規模の大小にかかわらず、酪農経営では、冬季に牛たちに与えるための量の牧草を確保しておく必要があり、我々学生は、その労働力として北海道に来ているのだ。
酪農農家は基本的に家族経営であるが、営農の規模が大きければ専従の従業員がいる。それに加え、大学の農学部の実習生、そして東京などから夏休みの短期だけアルバイトに来る私のような学生などが、多いところでは10名近くいたりする。
私がお世話になった農家(O牧場)は、海岸近くにある厚岸駅からはかなり内陸に入ったところにある小規模な酪農家だった。
小規模というのは、他の周囲の牧場と比べて飼育している牛の数が少ないということである。
それでも牧場は広大で、牧草地の中には自然の窪地や小川まであり、隣の農家は遠く数キロ先の丘の上にポツンと絵画のように見えるのである。
「あそこまで、Oさんちの牧場ですか」
「そうだ」
「広いですね~」
「ははは、うちはまだ小さい。牛も土地もこれから増やしていくんだ。息子の代には何倍にもなる」
O牧場のご主人は、そう言って笑った。
私がお世話になることになった農家の営農規模が小さい理由は、Oさんが国鉄(JR)を辞めた脱サラだからであった。まだ営農を始めて10年程度しか経っていなかったのだ。
Oさんはもともと子供の頃から酪農をやりたかったのだが、国鉄職員だった父上に逆らえず国鉄に入った。が、どうしても酪農家という夢を実現したかった。
すでに幼いお子さんもいたが、奥さんも賛成してくれたので、30歳代になってから農協や役所の助力を得て、イチから牧場経営を始めたのである。
イチからである。
だから、住んでいる自宅もご主人の手造り。子供たちの2段ベッドなども手作り。
お風呂は大きな五右衛門風呂のようなものが土間に据えてあるもので、夜に電灯をつけていると、様々な虫たちが集合する。
もっとも驚いたのは、手の平大の蛾が数衆十匹も頭上の電灯の周りで羽ばたいていることであった。
私は平気だったが、虫などが苦手な人なら失神しかねない壮観さなのだ。
Oさんが初代として開拓した牧場でもあり、当時は生乳の買い取り価格が低迷していたこともあって経営に余裕もなく、思うように規模を大きくできず、私がアルバイトに行ったころは乳牛がまだ20数頭だけだった。
働き手は40代の御主人と奥さん。
子供3人は小中学生(長女、次女、長男)で、率先して家の手伝いはする良い子たちだったけれど、当然のことだが彼らは労働力とはいえない。
一番下の長男は小学2年ぐらいだったと思うが、驚いたことに、すでに大きなトラクターを自由に操っていた。 私はまだ免許証さえ持っていなかったので彼を尊敬した。
ご主人にお願いして、牧場内で何度かトラクターの運転をしてみたが、牧草の山に突っ込んだりして小学生の長男に笑われた。
長男の彼が大人(高校生くらいでも)になれば、父親を大いに助けるだろうと思うが、(Oさんも期待していただろう) 、それまでは夫婦二人が主力で働かねばならないのだ。
そこは小さくて発展途上の牧場だったけれど、みんな明るくて温かくほんとうに居心地の良いところだった。
私はこの牧場で30数日間過ごしたのだが、人生の中でもこれほど楽しかったことはなかった。
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