つくし(土筆)[2]

ツクシ(土筆)[2]




なぜ食べないのか?
食文化が違う。
ツクシはそれほど美味しくない。
同季節に他の山菜類が豊富にある。

という理由からだとわかってはいるが、幼少時の春にツクシ採りに狂奔した体験を持つ私には、妻の実家(その周辺地域)の人々のツクシに対する無関心、愛の無さが、どうにも解せなかった。

ただ、それは私にとって、好都合でもあった。

そう、誰もツクシに関心がないのだから、春のその季節には、妻の実家あたりはツクシだらけになるのに、誰も採取しないので手付かずのままなのだ。

そう。
採り放題!

妻の実家には、お盆と正月だけ帰省していたので、そもそもツクシのことは気にもしていなかったのだが、ある年に初めてGWに帰省して、妻の実家前に車を止めて降りたとき、私は思わず、
「おおおおぉ~!」
と、奇声を発していた。

あたり一面に、ツクシが…気持ち悪いくらいの数が…生えているのであった。
妻の実家の牛小屋の周りにも、その下の斜面にも、家の前の道路のへりにも、大げさでなく、
【見渡すかぎりのツクシの王国】
だったのであった。

私は実家の玄関で帰省の挨拶をすませると、すぐ大きなレジ袋をさげて、ツクシ採りに熱狂した。
子供時代と違い、ツクシ採取の競争相手はいないし、ツクシの数は…もはや無限なのでは?と思うほどある。

もう一度言おう。
採り放題!

これは夢なのか!?
そんな気持であった。

妻は、気の狂ったような私の『ツクシ愛』を冷ややかな目で見ており、採取を手伝おうともしなかった。
まあ、それはいいけど。
ひとりで採っても、ものすごい量が採れるので。

わはははははははははは。
楽しいぞ!

ツクシ狩りが数十年ぶりだったので、私は重要なことを忘れていた。
ツクシでもなんでも、そういう植物系のものは、大きく育つと繊維が硬くなりマズくなるのである。
季節はツクシにとっては晩期であった。だいたいが大きく育ち切り、また見た目ではわかりにくいが、もう枯れる時期に近づいていたのである。

だが、幼少期の精神状態に戻っていた私は、そういう判断能力を欠き、必死でできるだけ巨大なツクシを次々と袋に突っ込んでいった。

ものの10分で、とても食べきれないほどのツクシが採れた。
「そんなものを食べるの?」
と、バカにしている妻(や、何も言わないがそう思っているに違いない実家の人々)にも食べてもらって、来年からの食生活習慣に加えさせるのだ、と私は考えていた。

私はウキウキしながら、採取したツクシの袴をとり、綺麗に洗って、佃煮風に調理した。
そして、20数年ぶりに、調理したツクシをこれでもかというほど大量に箸でつかんで、口に入れた。

モグモグモグ…。
おお、懐かしい、この食感!

んんん!!!!
ん?

大きく育ちすぎたツクシは、口に中で、まぎれもなく藁(わら)そのものであった。

私の口の中は、甘辛い味がする藁(わら)状のツクシで、モゴモゴになった。
それはまるで、ここ、妻の実家で飼っている牛のエサである。
私は、その懐かしい記憶の染みたツクシ(ほぼ藁)を飲み込むことができなかった。

私は口の中のツクシを見つからないように吐きだし、何事もなかったかのように、こっそり部屋を抜け出し、ツクシ(ほぼ藁)を全部、裏の竹林に廃棄した。

その後、私にとって、ツクシのことは、大いなるタブーである。

(このお題、完)

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2019年07月06日