<今日のお題> |
一切努力しないで、成功させてください。 |
その絵馬に書かれた願い事の、本当の意味とは? |
【スノーウィー神主のつぶやき】
この手の願い事は、とても多いのです。
まあ、神社ですから。
とはいえ、ここまで露骨に自分の努力を放棄している文も珍しいのですが、私としては、そこに清々しささえ感じてしまい、久しぶりに心が洗われた気分です。
最近の私は、こういう破廉恥で自己中心的で身勝手な内容の絵馬を見ると、思わず微笑んでしまいます。
「すぐに神様に、この人の希望をお伝えしなければ!」
と、張り切ってしまいます。
なぜ公正中立であるべき神職の私が、この自分勝手な文言に好意を持ったかと言いますと、たいがいのこういう絵馬には、
「がんばりますから、お願いします」(うそ!)
「ボクはこれに人生の全てを賭けています。希望が叶いますように!」(おおげさ!)
「精一杯の努力をします。神様、お願い!」(やってから言え!)
などと、まず自分の(たいしたこともない)頑張りを言葉だけで強調し、『だから当然のこととして』神様から(努力に見合わない…つまり万馬券のような巨大な)ご利益を得ようという趣旨が書かれています。
私はそういう、
『(ちょっと)頑張るから、(すごく)なんとかしてくれ!』
みたいなことが書いてある絵馬は、もう読み飽きていますので、神様に奏上する気にならないのです。
ほかの神社はどうなっているのか知りませんが、この神社では、私が神様に絵馬の内容を奏上しなければ神様に伝わらず、伝わらなければ神様のご利益も得られません。
そう、まず、神主である私の心を動かさねばならないのです。
さて、今日の、
『何も努力する気はないけど、儲かるプロスポーツ選手か経営者にしてくれ』
という厚顔無恥な絵馬には感心しましたので、私は社殿の奥に一人籠って、我が社の祭神である【雪玉豊幸神(ゆきだまのゆたかなるさいわいのかみ)】に、この方の願いを奏上いたしました。
私がこの絵馬の内容を奏上すると、神様が目の前に現れて、こう申されました。
「なぁ神主。世の中には死に物狂いの努力をしても、なお夢が実現せず人生を終える者も多いじゃろうが」
「ああ、そうそう…そうですねぇ」
と、私。
「とはいえ、ワシ、最近ヒマだし、せっかく持ってるパワーも使いたいし。この願いを叶えてやってもいいけどなぁ」
「え? 神様。このムチャクチャ自己本位でヒモ的発想の願いを叶える気がおありなのですか?」
「ないこともない。ほら世間には、人格も知能も破壊されているが、運(と、他者の心が理解できない無慈悲な無感覚さ)だけでやってるとしか思えない成功者が多いじゃろ。あれあれ。あれは、ワシら神様の、そういう気まぐれの成果」
「…」
なんだ、そういうことなのか。
ならば、私もその神様のきまぐれのおこぼれに…。
「じゃあ、私だってプロサッカー選手やIT社長になりたいんで、お願いします」
「あ、それはダメ。この神社でワシを祭り、社殿や氏子を管理する者がいなくなるから、ダメ。お前は、一生ワシに仕えてくれんと困る。神主をやめるというならバチを当てるでぇ」
「…」
私はそのパワハラ的な神様の発言を聴いて、
「ちぇっ、なんでだよう」
と、腹が立ち気分が悪くなったので、神様との交霊を中止しました。
日本の神様は、このように、良く言えば『人間的』なので、まことに俗っぽい方々なのです。
絵馬は落ち葉と一緒に、庭で燃やしました。
このようにして、人々の願い事は、神様に届かなくなることもあるのです。
ご愁傷様。
人はこれを【運】というようです。
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