エッセイ06一覧

夏休みの自由研究の顛末 [1](子どもは時に変な研究をする。私も…)


夏休みの自由研究の顛末

(注:この項は内容がちょっと気持悪い部分ありです。食事前後に読むには適しません)

11歳の夏休みのときのことである。

私の実家はお好み焼き店で、母がひとりで切り盛りしていた。
昔のことでエアコンなどはなく、瀬戸内の蒸し暑い夏には店の表も裏も風が通るように戸を開けっぴろげにし、店内で扇風機を動かす。

家(店)の裏には狭い庭があった。
ある夕方、何かの種を植えようとしていたのか、私は庭の隅をハンドスコップで掘り返していた。すると浅めの土の中から、小豆くらいの大きさの何かがいくつも出てきた。

よく見ると小豆のようで小豆ではない。色がそこまで濃くない。それに形が違う。
その周りをさらに掘ると、どんどん出てくる出てくる。かなりの数であった。
「なんじゃ、これ?」
私は、その小豆みたいなものをつまみあげて、じっと見た。

「あ!これはもしかして…」

-------------------------------------------------------
(さて、その2週間前)

私は夏休みの自由研究のテーマを決定し、研究ノートの最初のページにこう書いた。

『ハエの成長記録』

まず私は味付け海苔の入った容器(縦長のガラス製もので高さ25~30cmくらい、底辺の四角の辺が20cmくらいで、それに味付け海苔を詰めて販売されていた)を母親からもらった。

「夏休みの科学研究に使う」
というと、喜んで提供してくれた。

私はそのガラス容器の中に、深さが1/3くらいになるまで庭の土を入れた。
次に私は近所の魚屋さん(当時はスーパーなどはほぼなく、家の近くの八百屋さんとか魚屋さんで買物をしていた)に行き、廃棄するサバの頭を2つもらった。
仕入れた生魚を店で捌いて販売するので、魚屋さんにはそういうゴミがいくらでもあった。

「こんなもん、なんに使うん?」
「夏休みの研究や研究!」
「なんの研究なん?」
「秘密」

私をその異臭のし始めているサバの頭を、用意した研究装置(海苔のガラス瓶に土を入れてあるもの)にセット(瓶の中の土の上に置いた)した。
そして、その瓶には蓋などせず、庭の片隅に置いた。

準備はできた。あとは待つだけである。

数日後、研究装置(サバの頭)にうごめくように多数のハエの幼虫がわいた。
「うう~、不気味や。でも研究じゃし、がんばって観察せんといけん」
私は熱意をこめて、瓶の中で繁殖し成長するハエの幼虫の生態を日々記録した。

(この文を書いていて自分でもかなり気持悪い…ごめんさなさい。しかし科学研究記録なので…。今ならこの不気味な観察研究は私にはできない。無垢な?子供だからできたのか?)

研究観察は順調に進み、私は朝昼夕の3回、庭の隅に置いてある研究装置(魚の腐った頭が入ったガラス瓶)の前に座っては、その様子(ハエの幼虫の成長)を念入りに観察し記録した。
この研究によって、私が科学者への道を進む可能性さえあるのだ。

そんなある日、私は昼の観察を終えた後、自転車で市が運営する格安料金の野外プール(市民プールと呼んでいた)に行き、午後はずっと泳いで遊んでいた。
夏休みだから、施設はごった返していた。

プールの中も混んでいて、とてもじゃないが自由に5mも泳ぐことができない。
でも楽しい。一日中、いられる、

(このお題、つづく)

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2019年02月04日

夏休みの自由研究の顛末 [2] 


夏休みの自由研究の顛末

夕方近くなったころ、私は2本目のアイスキャンディーを食べならが売店の横に座っていた。
すると突然俄かに空が暗くなり、見上げると恐ろしいほどの分厚い雷雲が発生していた。

すぐに雷鳴とともに雨が降り出したと思うと、もう土砂降りで辺りがかすむほどになった。
今ならAI技術も進んでおり、施設の管理責任上、雷雲の動きを事前予測し、それが近づけば落雷の危険を場内放送し、係員が利用者を室内に強制退避させるだろうが、当時は、
「お、雷雨じゃ」
くらいのことであった。

私などは、
「どうせ濡れているのだし、これは面白い」
ということで、そのまま雨を浴び続けて面白がっていた。
夕立の後もしばらく遊んでから家に帰った。

その豪雨は時間的には長くなかったが、今でいうゲリラ豪雨であり、滅多にないほどの降水量だった。帰り道の田んぼの畦などには降水があふれていた。

家に帰ると家の周囲も洪水のようになっていた。
私はふと気になって、庭の観察装置の確認に行った。

「あ!」
そこには大事件が勃発していた。

この実験装置のガラス瓶は海苔の保管用のもので、手を入れて中身が取り出しやすいように蓋の口が大き区作られていた。
普通の雨量なら大丈夫だったろうが、その日は類の無い豪雨であったため、瓶の中は雨水があふれていた。

瓶の中にいたハエの幼虫たちは、雨水とともに瓶からあふれて流れ出て、ほとんどが脱出してしまっていた。
見ると、庭のあちこちにハエの幼虫がウニウニと動いて、ランナウェィ中である。(書いてて、気持ち悪いぞ!)

私は慌てて、刑務所の看守のごとく逃避する幼虫たちを確保することに専念したが、夕立から数時間も経過しているため、確保できた個体は少なく、彼らの大脱走はほとんど完了していた。

私は瓶にいっぱいになっている雨水を捨て、確保した幼虫たちを瓶の中に戻したが、自由研究としては明らかに赤信号であった。
私は悲しかったが、科学研究の趣旨にのっとり、その日のことも正確に記録した。

もう瓶の中には数えるほどしか幼虫がいない。
そのうえ瓶の中は雨水で洗い流され観察環境が激変である。まだ子供だし、その事態をどう処理したら研究を継続できるのか、私には良い考えがなかった。

というわけで、私はひどく落胆し研究記録は中断した。

私の熱しやすく醒めやすいという性格もあり、なんかもうやる気がなくなった。

----------------------------------------------------------
そして、その数日後の庭での出来事(庭の土中で多数の小豆を発見)が、この項の冒頭の光景である。

庭を掘っていると、ぞくぞくと出てくるのである。
そう、ハエの蛹(サナギ)であった。大量の。(不気味…)

それがハエの蛹であるとわかったとき、私の研究意欲が再燃した。
「まだ、研究はいける!」

私は、庭の隅々を掘り返して、蛹の分布を記録した。
ハエの幼虫gは、どんな場所でどういう分布で蛹になっているかという考察は、重要な着眼点として研究項目となるはずであった。

その数日中に、私の育てた蛹は次々と成虫の立派なハエとなり、庭から宙を飛んで私の母がやっている店に飛び込んでいった。すぐそこだから、そうなるだろう。

う~ん、なんかマズイぞ。
エアコンもなく戸口が全部開け放たれた店だから、来る者拒まず!である。

母は私の科学研究(夏休みの宿題)を成績アップを期待する親心で強く支持してくれていたが、思わぬ結果(飲食物を提供する店の裏庭でのハエの大発生という保健所もびっくりの事態)に困惑し、隠しきれない怒りの表情を示していた。

まあ当然であろう。

私はしばらく、【ハエ叩き】という原始的な用具で、母に店内のハエの退治を命じられた。(飲食店なので、殺虫剤は使えない)

そして店の片隅の天井には、ハエ取り紙がいくつもぶら下げられた。
(当時はそのくらいの衛生推進装置でのキモイ装飾?にはお客もまったく平気で食欲に影響なし!)

私のそうした努力にもかかわらず、私の研究は何の賞も獲らなかった。

それどころか【気持悪い変な研究】としてしばらくの間、周囲をざわつかせた(らしい)。

私の科学者への道は、そのようにして絶たれた。

(このお題、完)

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2019年02月04日

世界コンピューター囲碁選手権大会【ソウル大学にて】  [1] (かつてITは、すごく弱かったんだよ!)


世界コンピューター囲碁選手権大会【ソウル大学にて】(1)

【第1回 2001年 The SNU-Garosu.com Cup International Baduk Competition(SG杯)】というコンピュータ対戦の世界囲碁選手権が、2001年3月2~3日にソウルのSNU(Seoul Natinal Universityの略)で行われたことを知る人は少ないのではないか。

この大会にアシスタントとして参加した私だったが、そのことは すっかり忘れてた。
CSで『ヒカルの碁』というアニメを観ていて、私はそのことを思い出したのである。

私は過去も今も、碁のことはわからず、碁には何も縁がなかったのだが、めぐり合わせでその大会の参加し、コンピューター同士が対戦するという現場を経験をさせてもらったのであった。

最近はIT囲碁ソフトの躍進が目覚しい。もはやプロも勝てない様子。
(将棋では、2017年で、プロ棋士がAIに敗北宣言をした)

昔の囲碁ソフトの実力は、どうだったのか?などを、そのときのことを思い出しながら書いておこう。

まず、この大会がどういう者であったかを、引用によって理解していただこう。

以下の記事は、SG杯に参加された清愼一氏が、CGFのMLに流したものの転載の転載である。大会の概要がわかるので、そのまま引用させていただく。

引用部
CGFのみなさま、 清です。
簡単ですが、The SNU-Garosu.com Cup International Baduk Competitionの レポートです。

SNU(Seoul Natinal Universityの略)とGarosu.comというITの会社の 合同主催で、今年から始まったコンピュータ囲碁の大会です。

なお、Badukは韓国語で囲碁のことです。
大会会場はSNU。ソウルのガイドブックに載ってる地図だと、南の街はずれに 位置します。
この大学は日本の東京大学にあたる、韓国一の名門です。 敷地はすごく広く、校舎もきれいでした。

会場は小さめの講堂を使いました。
宿泊はSNUのゲストハウスで無料でした。

スケジュールは、3/2が予選、3/3が決勝です。
ルールは韓国ルール(日本 ルールと同じ)。持ち時間は50分ですが、5分オーバーするごとに、相手に 2目加算されます。

しかし60分をオーバーすると、時間切れ負け。
コミは6.5目。

原則として通信対局。
スケジュールの関係で1プログラムが同時に 2局対局することがありました。

コンピューターは主催者が用意しましたが、参加者による持ち込みも可能です。
大会前のアナウンスでは、Pentium3の500MHzでしたが、実際には700MHzのマシン でした。

予選は参加者を4グループに分けて、それぞれ総当たり戦をし、上位2チームずつが決勝進出。
予選の割り振り時に、過去の実績から6チーム
(Go4++,Goemate,Wulu,Haruka,MFG,Fungo)がシードされ、適当に分散され、 残りチームはくじびきで割り振られました。

なお、他の大会と違って、プログラム名ではなく開発者名で試合をしました。そのため、プログラム名が無いのもありました。

参加は18チーム。
Zhangさんだけは来場せずに、代理人が操作しました。
GMS,SNU1,SNU2は開発チームの名前です。
SNUはソウル国立大学の略。
(中略)

優勝賞金は15,000,000ウオンで、決勝進出者は最低でも100,000ウオンの賞金が 出ました。
優勝したChen先生のプログラムには、韓国から9級の認定状が贈られ ました(日本ではアマチュア2級ぐらいに相当すると思います) 。

(抜粋したが、上記の記事には具体的な参加者やその対戦成績なども書かれている。興味のある方は上記の大会名で検索してください)

私は囲碁に関してはさっぱり無知であったが、この大会の参加者の一人が私の尊敬するT氏であったため、彼の助手として主催者に招待された(交通費宿泊費は主宰者負担)。
この大会には、ソフト開発者プラス、任意の一人が助手として参加できた。

宿舎はソウル大学のゲストハウスで二人部屋。かなり広かった。
3月初旬のソウルはとても寒かったが、部屋はオンドルのおかげでパンツ一枚で寝れるほどの快適さだった。

大会は予選と決勝ラウンドとの2日だったが、その対戦の合間にソウル大学の一室(食堂?)で交流昼食会などがあった。
大きな丸テーブルに白いテーブルクロスがかけられ、1つのテーブルに6人くらいが座ったと記憶している。

私の右隣は大会に参加していた(たぶん囲碁ソフト開発者の一員)ソウル大学の学生だった。
お互い相手の母国語がわからないので、英語で話すことになる。
その学生は英語が上手かったのあろうが私のほうが下手くそであったため、会話は難渋した。
それでも1時間以上の食事と交流の時間があったから、深くはないがいろんな話ができた。

会話の内容はほとんど覚えていないが、私のほうは囲碁がわからないので囲碁の話題はなく、コンピューターの話とか学生生活の話とか私の好きな三国志のこと(韓国でも三国志は人気があるのか?)とか、そんなものであったろう。
ほんとうに楽しかった。

夜は地下鉄で街にも繰り出し、地面がコンクリの土間であるような庶民的な店や野外の屋台で飲食もした。

イチゴが屋台で山ほど積まれて安く売られているのを見て、私は袋いっぱい(3キロくらい?)買って、夜中に宿舎で全部食べた。
オンドルで室内の空気は乾燥しており、イチゴ大好きの私としては、水分補給に役立てたのである。




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2019年02月05日

世界コンピューター囲碁選手権大会【ソウル大学にて】  [2]


世界コンピューター囲碁選手権大会【ソウル大学にて】(2)

さて、肝心の大会そのもののことである。

このごろはすでに、囲碁のコンピューターソフトが世界のトッププロを打ち負かすようになっているが、当時(2001年)はまだまだソフトの実力は全然ダメであった。
コンピューターのCPUそのものの計算速度やメモリの量や、基盤の能力なども、今から見れば赤ちゃんレベル以下だっただろう。

そういう情況に中で、世界各国の囲碁好き、コンピューターでのAI開発好きの面々がソウル大学に集結し、開発した囲碁ソフトの優劣を競ったということである。

私は囲碁の基本ルールさえも怪しいくらいいの知識であったので、そこでコンピューター同士で戦われている実戦画面を見ていても、囲碁の対戦そのものは何がなんだかわからなかった。

どちらが優勢だとか、巧妙な手が出たとか、愚かな差し回しになっているとかが理解できないので、私は人間のほうを見ていた。

なまじ囲碁が理解できていたら、囲碁の対戦に集中して、その周りで一喜一憂している人たちのことを、そこまで観察できなったろうから、そのとき囲碁の知識がなかったことは良かったのではないかと、今は思っている。

そういうわけで、見ていて実に面白かった。【対戦内容ではなく、喜怒哀楽を表す人間のほう】が、である。

対戦はコンピューターをケーブルでつないで行う。
対戦が始まれば、後はコンピューター任せである。

ソフト開発者は、自分が作ったソフトが自分の作ったアルゴリズムでどういう手を打つのかわからない。もはや、じっと見ていることしかできない。

前述のの引用部分に書いてある通り、そのとき優勝したソフトが日本でのアマチュア2級程度と認定されたのだから、当時は最強の囲碁ソフトよりも、囲碁のプロ棋士でもないソフトの開発者である人間のほうが碁力は格段に上であった。

だから開発者が対戦を見守る心理というのは、囲碁の強いお父さんのようなものだった。
自分の子供(ソフト)に囲碁を教え、その子供(ソフト)の対戦をハラハラしながら見守っているようなものなのだ。

予選日は多くの対戦があるので、対戦は同時に同室で何局も行なわれていた。
参加者や大会役員などが、あちこち動き回って観戦している。

時々会場のあちこちで、
「あ、あ~!」
「ひぇ~!」
「げげっ!!」
「え~何で、そこに打つんだよぉ!」
という声が上がる。

(参加者は中国、韓国、日本、アメリカ、ヨーロッパと多彩なので、日本語に訳したら【たぶんそんなことを言っているのだろう】という雰囲気)

そうなのだ。
自分が作ったまだまだ碁力の低いソフトが、【とんでもない手(いわゆる悪手よりもヒドイ無意味な手)】を平気で打ったりするである。それも、あちこちの対戦で、優勝したプログラムも含めて、すべてソフトがである。

ひっ迫しているらしい囲碁の対戦の場合には、私は画面を見ても要点がわからず楽しめなかったが、それを凝視しながら一喜一憂する人間模様がすごく楽しめたのであった。

画面を見てその時点での優劣がわからなくとも、そこに座っているソフト開発者の顔を見れば、それがわかるわけである。

2日の激闘?珍闘?の結果、優勝は中国の Lei Xiuyu 氏の開発したプログラムであった。

私の不確かな記憶では、氏は北京大学の教授だったと聞いた気がするのだが、この記憶に全く自信はない。
細身の長めのボサボサした白髪の老人という感じで、仙人みたいな人であった。

優勝したソフトではあったが、そういう当時の最高峰の囲碁ソフトであっても、Lei Xiuyu 氏が対戦中に何度も何度も小さなうめき声を上げていたのを私は覚えている。
氏の囲碁の実力からすると、自分か開発しているソフトは、まだまだどうしようもないなぁ、ということだったのであろう。

将棋は既にAIのほうが、完全に強くなってしまった。
囲碁は、一流プロ棋士なら、勝てることはあるようだ。

そういう時代になってしまって、このソウルの大会を思い出すと、なにやら不思議な気がするのである。

(このお題、完))

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2019年02月05日

(大昔の)大阪万博の苦い思い出 [1] (1970年の大阪万博で、私は人生最初の【コンピューターゲーム】を体験し…)


(大昔の)大阪万博の苦い思い出 [1]

また大阪で万博が開催されるそうである。

万博の誘致が決定したとき、ニュースで集まっていた関係者の歓喜の様子が放送されていたのを偶然見たが、絵面が変だった。
背広を着たオッサンばかりが集まって、万歳までして喜んでいた。

この人たちは、そんなに万博が好きなのか?

「よし!これで何らかの人類の発展に寄与する情報を発信し、世界文化の交流の場ができるぞ!」
という意味での歓喜は見られず、
「経済効果!こりゃ、商売になりそうだぜ!」
という雰囲気だった。というか、そういうコメントばかり聞かされたような…。

気持ち悪い。

そういえば妻と『愛・地球博』に行ったけど、行列する気になれず、とりあえず頑張って並んでマンモスは見たけど、あとは小さな国の小規模な展示を見ただけになった。それなりに面白くはあった。

とはいえ、夜、ホテル近くの有名店で、手羽先を食べた印象だけが残っている。

残念だ。

さて、私が語りたいのは『大阪万博』のことである。

といっても、これから未来に開催されるものではく、
「1970年の~こんにちわぁ~~~~」
という昔の大阪万博のことである。

私は30数年、フリーランスでコンピューターのソフトウェア・エンジニアをしているが、パソコンは好きではない。
パソコンが好きでない原因は、この大昔の大阪万博での出来事にあるのかもしれない。
いや、正確に言えば、パソコンは関係ない。

あの万博のコンパニオンのお姉さんの、私に対する仕打ち…。
それが私の心に深いトラウマを残した…のか?

今でも、展示会などに行って、ニコニコ笑ってるコンパニオンの女性を見ると、
「あの嘘笑いの裏に、恐ろしい本性が…」
と、つい思ってしまうのである。

…。

当時私は、まだ可愛く、いたいけない小学生であった…はずだ。
子どもというものは、経済効果や人類の未来とかとは関係なく、そういうイベントが見たい。
おもしろそうだから。

私は広島で育っていたから、大阪は遠い。
が、大阪には叔父がいた。

私と弟は熱心に両親に対し、
「科学時技術と世界の文化の展覧会を体験することは、子供の成長に多大なる好影響を及ぼす…はず」
などという正論で迫るのではなく(…そんな知恵はまだない)、ただただ珍しくて新奇なものが見たい!という子供の本能的な強い欲求を、
「行きたい!」
という一言に込めて、毎日毎日、親がイヤになるまで言いつのった。

同時に、実家で母がやっていたお好み焼き屋の手伝いをするふりをしながら、いかに我々兄弟が万博に恋焦がれているか!を猛烈にアピールした。

その時の万博の目玉はなんといっても、アポロが持ち帰った【月の石】の展示であった。
「アメリカ館に行きたいんじゃ! えかろうがぁ。行かしてくれん?」

その時の私の熱意は、その後の私…数学が全く理解できないにもかかわらず、宇宙と物理学が好きになり、そのジャンルの本を購入しては数式を無視して読み漁って理解した気になる…という残念な青年~大人に成長していく…、その芽生えであったのか?

ともかく、そういう熱意ある運動(ふてくされた態度で親を追い込むダークな手段も併用…)が実り、父が大阪の叔父に頼んでくれ、私と弟の二人は大阪万博に行けることになったのであった。

両親は忙しかったのだろうし、さほど万博に関心もなかったのか、私と弟の二人だけで行くことになった。
いや関心はあったろう。おそらく経費のことを考えたらホテルはムリだし、親子で叔父の家に泊まるのも気が引けるという理由もあり、
「私たちはともかく未来ある子供たちにだけは、そのなんかわからないが、凄そうな万博を見せてやりたい!」
という親心であったろうと、想像する。

親に感謝。ありがたし。
私のような【いちがい】で小生意気だった子供でさえ、愛情深く育ててくれたのだから。
(子どもがグレたり、ひねくれたりしない程度の『愛の鞭』込みでだけど…今やこういう表現も許されない時代…)

ということで、夏休みに、私と弟は大阪に旅立つのである。
が、どうやって大阪に行ったかは、憶えていない。

山陽新幹線は、1970年には、まだ開通していないはず。
飛行機に生まれて初めて乗ったのは、19歳の時だし…。
(CAさんにサービスの雑誌か新聞を渡され、「これ、いくらですか?」と訊いた苦い思い出…)

山陽本線で三原から大阪まで行ったのだろう。
まさか普通ということはなかろうから、特急とか?
何も思い出せない。

ともかく、幼かった私は、もっと幼かった弟と二人で、『はじめてのおつかい』じゃなく『はじめての子供旅行 for 大阪万博』に旅立ったのである。

目指すは、世界の大阪万国博覧会!
19070年のコンニチワ!
見るぞ、アメリカ館の【月の石】!

(このお題、つづく)

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2019年06月08日

(大昔の)大阪万博の苦い思い出 [2]


(大昔の)大阪万博の苦い思い出 [2]

大阪駅で叔父に迎えられ、私たち兄弟は車で叔父の家に向かった。

途中で伊丹空港だったと思うのだが、大型旅客機が密集した民家の屋根を擦りそうなくらいの超低空飛行で着陸しているのを車内から見て、すごく驚いた。
騒音とか事故の危険とか、その当時の日本は、経済は高度成長期だったろうが、民政は劣悪だったのだ。

公害問題もそうだが、数十年しか生きていない人は、昔のニッポンの『低度』を知らないから先進国と呼ばれない国のある状況を、
「ひどいなぁ」
などと思うだろうが、日本だって、つい最近までそうだったのである。

さて、叔父の家に着き、従姉妹たちに初めて会い、夕食を食べ、風呂に入った。
いよいよ寝て、明日早朝に起きて万博会場に向かい、月の石の展示で大人気のアメリカ館の長蛇の列に並ぶだけであった。

最近はマニア以外には、まったく下火になってしまったが、当時はプロレス全盛時代であった。
私と弟は、ワクワク感が抑えきれず?、寝る前のひと時を『プロレスごっこ』で過ごした。
もちろん、チェップの真似事や、必殺技の『4の字固め』や『コブラツイスト』などの技を軽く掛けたりするだけのものである。

しかし子供だから、はしゃぎすぎたりもする。
私のなにかの技が痛かったのか、弟が興奮し、私に『ドロップ・キック』を仕掛けてきた。

『ドロップ・キック』とはプロレス独特の技である。(新日本プロレスのオカダカヅチカ選手のドロップ・キックは凄いぞ)
両足で踏みきって飛び上がり、体を地面に水平にした状態で空中に浮き、やや縮めていた体と足を一気に伸ばして、両方の足先ないし足裏で相手の顔面(ジャンプが低いと胸あたりになる)を突き刺す技である。
この技がきれいにできるプロレスラーは、運動能力に優れていて華のある選手が多いのだ。

さて、私の技に怒った弟が私に、そのドロップ・キックを炸裂させたのであった。
私は今でもハッキリ覚えている。
そのとき、見事に空中に浮きあがった弟の体と怒りの眼光を!

だが私は、その弟の攻撃を見切り、さっと身をかわした。
弟の技は空振りとなり、彼は空中で体を水平にして浮き上がった体勢のまま、やや体の左側面を下側にして、ドスン!と鈍い音を立てて畳の上に落ちた。

「ふふふ、弟よ。甘いぜ!」
というセリフが私の口から出る前に、弟が体の下になっていた左腕を押さえて、
「ぎゃぁ~!」
と、叫んだ。大げさではなく、叫んだ。

ガメラと戦うギャオスの雄たけびのようであった。
(※何のことかわからない人。ごめんなさい。日本の有名な怪獣ですよ)

そして、弟は文字通り、叫びながら、転げまわった。
私は突然のことに固まってしまい、その異様な声を聴いた叔父が駆け付けてきた。

「なんじゃ?」
「弟が自爆した…」

叔父が泣いている弟を何とか椅子に座らせて、弟の左腕を触っていた、
「こりゃ、肘の骨が外れとる」
「えっ、肘が!」
「医者は時刻も遅いけぇ、もうやっとらんが接骨ならやってるかも。すぐ連れて行かんと」

確かに、弟の左腕はダラリとしたままで動かせないようだった。
弟は動く右腕で涙を拭きながら、
「お前が、よけるからじゃ!」
と、私を非難した。

そういう問題じゃなかろうが…。
でもまあ、プロレスは受け身の美学…。技は受けてやらねばいけなかった。
とはいえ、技をスカすのも、これまたプロレスの妙味。しかたあるまい。

そうは思ったが、弟の姿が痛々しく、私は、
「ごめん」
と謝った。

夕方だが夏なので、外はまだかなり明るかった。
私たち兄弟は叔父の車に乗り、叔父の知っている接骨院に向かった。

う~ん、明日の万博は、どうなるんだろ?
月の石、見たいしな…。

弟のかなりひどそうな怪我よりも、翌日の万博での『アメリカ館の月の石』の見学予定を心配する、いけない兄であった。

(このお題、つづく)

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2019年06月10日

(大昔の)大阪万博の苦い思い出 [3]


(大昔の)大阪万博の苦い思い出 [3]


接骨院というより『骨接ぎ師の家』は古びた雰囲気で、病院的な感じではなく、仙術とか忍術道場の控室のようであった。
おそらく、壁などに貼られた人体骨肉図や中国鍼灸術のツボがびっしり描かれた掲示物の妖しげな雰囲気で、そう感じだのだろう。

どうも診察時間外に来てしまったようで、先生が出てくるまでに時間がかかった。

しばらくすると、いかにも、
「夕食の途中だったのに…」
と言いたげな表情の長い白髪の初老の先生が現れた。

私も弟も、その仙人風の容姿に驚き、
「おお…」
と、心の中で怪しんだ。
(弟は腕の痛みで、それどころじゃなかったかも)

「どうしたんかの?」
と、弟に向かって座った老先生が口を開いた。
なにやら、威厳のある声であった。
どうやら柔道の有段者で、今は痩せてしまっているが背は高いし、昔はかなりの猛者だったのではないか、という雰囲気…。

「肘の関節が外れたようなんです」
と、叔父が説明した。
老先生は、ふむふむ…と頷いた。
「では、みましょう」

老先生は、弟のだらりとしたままの腕の肘あたりを触診していたが、やがて、
「かんぜんに、外れとる」
と、つぶやき、
「元に戻そう。関節を入れるのは一瞬だが、ものすごく痛い、我慢しなさい」
と、弟に言った。

弟の顔に恐怖の色が浮かんだが、先生は意に介さず、弟の前腕と上腕をつかんで、
「えええいっ!」
という気合とともに、弟の外れていた肘関節をはめ込んだ。

弟は、
「ぎゃっ!」
と喚いたが、数秒の出来事だったので、痛いというより、きょとんという表情をしていた。

「さあ、肘の関節を元に戻したぞ。動かしてみなさい」
老先生は、ゆるやかに優しく、弟に語り掛けた。

ただ、私も叔父も弟も気づいていたが、弟の腕は『だらり』としたままで、変化したようには見えなかった。

「さぁ、手をあげて」
老先生は弟にそう言い、弟は懸命に腕を上げようとしているが、まったく上る気配がなかった。

私は、弟の戸惑う姿を見て、心の中で、
「このジジイ、下手ぴぃじゃけ、関節がはまってないんじゃなぁか?」
と不審を感じた。

弟は、できません、と首を振っている。老先生も、なんでじゃ、と首を振っている。
先生の威厳と自信に満ちた表情は一変し、やや焦りを感じているようであった。

「そんなはずはないんじゃが…」
と老先生は、弟の左腕をあちこち触っていたが、しばらくして、
「あっ!」
と、小さく叫んだ。

私と弟と叔父は、びくっとして、先生の顔を凝視した。

老先生は、呆れたような顔をして、
「肩の関節も、はずれとる。肘も肩もいっぺんに外れとるのは珍しいわい」
と、眉をしかめた。

そして、弟の顔をまじまじと見て、
「なにしたら、こうなる?」
と、訊いた。

「プロレス…」
と、弟が小さな声で答えた。
「ドロップ・キックをよけたけぇ…」
と、私が付け加えた。

「ドロップ・キック?」
老先生は、不思議そうな顔をしていたが、
「そんじゃ、肩を入れるで」
と言い、再び気合を込めて、弟の肩関節を元に戻した。

左腕全体にかなりの痛みを感じているようだったけれど、弟の左腕は、それでやっと動かせるようになった。

(このお題、つづく)

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2019年06月12日

(大昔の)大阪万博の苦い思い出 [4]


(大昔の)大阪万博の苦い思い出 [4]

脱臼していた弟の左腕の肩と肘の関節は、元の位置にはめこまれはしたが、関節周囲の組織が破壊され炎症を起こし、変色までして腫れ上がっていた。痛々しかった。

病院ならばレントゲン写真(当時はCTやMRIはなかった)を撮るだろうが、接骨院にはそういうものはない。施術者の経験と勘だけである。

こういう治療に経験豊富そうな、その接骨の老先生は手慣れた様子で手際よく、弟の肩と肘に重厚な湿布薬を塗り、包帯でグルグル巻きにし、三角巾で首から腕を吊り下げるスタイルにした。

「肩と肘が同時に脱臼するなんて…なかなかないぞ」
と老先生は、弟の三角巾の位置を整えながら、また言った。

そんなに珍しいのか?

「で…じゃ。脱臼によって関節まわりの組織がどのくらい傷んどるかはいろいろで、今の段階ではようわからんところがある。このあと、どれくらい腫れるか、どれくらい痛みが出るかも、何とも言えん。ともかく症状に応じた初期段階の治療がとても重要で、それをちゃんとしないと、今後、腕の動きがおかしゅうなる可能性もある。だから明日、朝いちばんに、診療に来なさい。日曜日じゃが特別に診察しよう」

その老先生の指示は医学的には正しいものであると、子供の私にもわかったが、私にとっては、
「げっ!」
であった。

「そしたら、明日の早朝に万博の入場ゲートに並んで、入場と同時にアメリカ館に突っ走って行列に並び、なんとしてでも月の石を見る…ちゅう人生最大の体験(予定)は、どうなるんじゃ?」
と、私は心の中で叫んだ。
「このジジイ、おかしなこと(接骨師的には正しいこと)言うとるでぇ!」

弟の怪我より、月の石!
そういう自分勝手で愛のない、兄として失格の私の本音ではあったが、弟だって、そう思っているはずだ。

そうだろ?弟よ!
兄弟二人であんなに楽しみにしていた『アメリカ館の月の石』だぞ!

弟よ!この老先生の指示を完璧に拒否するのだ!
「ボクは月の石を見たいので、明日は来ません。万博から帰って、夕方来ます!」
と、言うのだ!

弟よ!
そう言え!

しかし、弟は、よっぽど左腕が痛かったのだろう。
(あたりまえだ。肩と肘の同時脱臼だからな…)

もはや彼の頭には『月の石』の存在は陽炎のように、はかなく影の薄いものになっていた。
(あたりまえだ。そのときもズキズキと痛いのだからな…)

弟は、小さく頷いて、翌朝の受診を受け入れた。

「そんなん、ダメやん! 月の石が見れんじゃろうがぁ」
という言葉を、私はぐっと呑み込んだ。
そういうのは、いかにも非人間的で、兄弟愛のかけらもない自己中の発言だとわかっていたからである。

いや、まだ可能性はある。
弟が、ふと思いなおして、
「やっぱり、人生の一大イベント、夏休みの自由研究課題に最適、月の石の見学記録が書きたい気もするんで…」
とか、言い出せば…、言うわけないけど…。私は往生際が悪いのだ。。

が、そのとき、
「わかりました。今後の生活に支障が出るような後遺症でも残ったら、たいへんですからね。明日朝、連れてきます」
叔父がそう発言し、この重要な選択問題(万博 or 治療)には終止符が打たれた。

私の脳裏には、さまざまなことが浮かんだ。

あのとき、プロレスごっこを始めなければ…。
あのとき、ちょっとキツイ技を弟に仕掛けなければ…(弟は報復のドロップ・キックをしなかった?)。
あのとき、弟のドロップ・キックを逃げずに受けていれば…(弟は落下時に受け身を正しく取り、脱臼は免れた?)
そもそも、なんでプロレスごっこなど、はじめたんだろ?

私が、なぜこうも『明日』に、こだわるのか?

それは、叔父の休日が『翌日の日曜日だけ』だからであった。予備日はなかったのだ。
当時の会社員の休みは、日曜だけであった。
日本中が高度経済成長期の中にあり、普通の会社員というものは、普通に週6日、残業もしながら働いていた。
ほぼ50年前の日本に、週休2日など、まったく影も形もないどころか、荒唐無稽な夢物語である。

有給休暇で家族サービスという概念も、当時はほぼなかったはずだ。
今や令和。
この話は昭和45年という遠い過去の話なのである。

叔父の家から見知らぬ土地の大混雑の万博会場に、子どもだけ行くことはできない。
叔父が我々子供たちを引率して万博に行ける日は、明日だけなのであった。

もちろん、我々兄弟が叔父の家に、次の日曜日まで連泊することはできないことではないだろう。
しかし、遠方に住んでいるので、親戚とはいえ付き合いは浅く、そんなに長い滞在をするのは気が引けるわけであったし、泊めてもらって万博に連れて行ってもらうということだけでも、畏れ多いという気持ちなのだった。

(このお題、つづく)

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2019年06月14日

(大昔の)大阪万博の苦い思い出 [5]


(大昔の)大阪万博の苦い思い出 [5]

翌朝、私と伯父は弟に付き添って、接骨院に行った。

老先生は、てきぱきと患部を診断し、必要な手当てをし、
「まぁ経過は良さそうじゃ。また明日来なさい」
と、言った。

明日か…。明日は家に帰るんだよなぁ。
私の人生で一回きりの、1970年の大阪万博は、今日だけである。それなのに…。

本当は…暗いうちに起きて万博会場に行き、入場ゲートにまず並んで、開場と同時にゲートを突っ走って抜けて、アメリカ館に並び、あの世紀の月の石を観るはずだったが、午前9時に伯父の家近くの接骨院にいる…この不幸。
(弟の不幸は、あえて除外。ちなみに人気No.1は、ソ連館だったらしい)

伯父に連れられて超大混雑の万博会場についたのは、もうお昼に近い時刻だった。
人気のあるパビリオンの待ち時間は、軒並み最低でも数時間になっている。
ソ連館やアメリカ館などは、もはやムリ!であった。

いや、5時間とか並べば見れないことはなかったろうが、伯父が、
「世界のいろいろな文化を見る機会だから、アメリカ館だけを見てもしかたない。キミらは子供だから、月の石はたぶんまた見る機会がある。今日はできるだけ見れるところを見て、多くの文化に触れよう」
という趣旨のことを言い、アメリカ館に並ぶことを許してくれなかった。

まぁ、伯父は並びたくなかったのだろう。
私も大人になってからは、レストランでもラーメン店でも、ディズニーランドでも、基本は絶対に並ばないからねぇ。

というわけで、私の思い描いていた私の万博はすでに終わっていた。

比較的容易に見れるのは、小さな名も知らぬ国の小さな展示館で、科学的な要素はなく、文化物産展覧会であった。
太平洋の小さな島国。アフリカや東南アジアの国。南米の国。

大人になった今ならば、それら似も興味が持てるし、じっくり鑑賞したいと思うものもあるだろう。
が、そのときの私は、普通の小学生である。
それらの国々の方には申し訳ないけれど、儀式のお面とか民族衣装とかを見ても面白くはないというのが正直な気持ちであった。。

その時の私は、兼高かおる…ではないのだ。
(※わかる人だけ笑ってください)

「この万博には、未来の科学技術を見に来たんじゃ!」
なのである。

会場内はどこもかしこも人の群れで、その日の日中のことについては、ベルギー館付属の食堂で、なんとかカレーライスを食べたことと、大混雑のトイレで列の短いところに並んだら、当時は極めて珍しい洋式トイレだったので、トイレの上に乗ってしゃがんで用を足したことくらいしか覚えていない。

小さな人の並んでいない展示館を巡っているうちに、夏の日も暮れて暗くなり、だいぶ人も減ってきた。
といっても超大混雑が大混雑になったというくらいのことで、その時点で並んでも、外国の人気パビリオンを観ることはムリであった。

科学技術を展示するのもテーマの万博であったが、今のレベルのようにIT技術が進んでいるわけでもないから、各所の混雑状況がスマホですぐ確認できる、というようなことはまったくない。(スマホがない!)
会場内に各パビリオンの状況を案内する表示物があったのか、なかったのか…。覚えていない。
基本的には、会場内を歩いて、空いていそうで面白そうなパビリオンを見つけるしかないのであった。

伯父と伯母と私たち兄弟と、従姉妹二人の6人は、一日中会場内を歩き回った。
真夏でもあり、大人の伯父伯母は疲れていたはずだが、その日一日しか万博を観る機会がない我々兄弟のために、終了時刻まで会場にいてくれるつもりのようだった。

そうこうしているうち、夜になっていることもあり、日立館が比較的短い行列で入館できそうだということがわかった。
操縦という子供にとって大好物の飛行機のシュミレーターがあって、科学技術に触れられそうでもある。

よし、日立館に行こう!

会場マップで、日立館を探しながら歩いていると、暗くなっている会場の一角で、屋根と柱だけの開放された建物で、なにやらアトラクションをやっているのに遭遇した。
見ると、子供が行列を作っている。子供向けのものである。

これは参加せねば!

今では、これまで何十年もの間、毎日パソコンの前に座ってプログラムを書いている私であるが、このアトラクションが、コンピューターというものとの初めての(不幸な)出会いなのであった。
そして同時に、純真な小学生の男子児童(私)が、綺麗な大人のお姉さん(アトラクションゲームの進行役)の心の闇?を初めて知ることになるのだった。

(このお題、つづく)

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2019年06月18日

(大昔の)大阪万博の苦い思い出 [6]


(大昔の)大阪万博の苦い思い出 [6]

その子供向けアトラクションは、こういうものである。

昔のことであるということと、自分が幼い子供だったので当時の自分の身体のサイズ感で記憶しているから、そのアトラクションの建物の広さが、よくわからない。おそらくバトミントンのコートくらいの広さだったと思う。
そして、壁はなく、四方から見物人が会場を2重3重に取り囲んで見ているのであった。

床には、大小さまざまな直径の筒が、たくさん立てられている。
天井には『あみだくじ』のようになったレールがあり、そこを『コンピューター制御』の移動体が自由自在に、ゆっくりと動くようになっている。
移動体にはボールをつかむ部分があり…ようするに今でいうUFOキャッチャーと同じようなものである。

このアトラクション(ゲーム)は、こういうものである。
音声認識で、コンピューターに、『ボールをつかめ』『前に行け、右に行け、そのまま進め』『止まれ』『よし、ボールを落とせ』などと指令を出し、移動体に取り付けられている機械の手がつかんでいるボールを、穴の中に落として入れることができれば賞品がもらえるのだ。

賞品が何だったかは、この後の理由で、私は憶えていない。
ともかく、たくさんの人が見ているし、
「かっこよく決めて、賞品をゲットするぞ!」
と、子供たちは、張り切るわけであった。

私は列に並んで、順番を待ちながら、前に並んでいる何十人もの子供たちのプレーをじっくり観察した。

まず、コンパニオンのお姉さんが、子供に年齢や名前や居住地などを訊いて、子供の気持ちをほぐすと同時に、観客にプレーヤーの情報を提示し、関心を高める。
子どもは、小学生以下で、多くの観客に圧倒され、みんな緊張している。
今の子供なら、もっとこういうものに馴れているだろうが、当時の地方から来た子供たちは、だいたいが恥ずかしがり屋だったのだ。

プレーヤーの子供とコンパニオンのお姉さんは、少し高い場所に立って、会場を見渡している。
細長い会場なので、テニスやバレーボールでサーブを打つ位置のエンドラインの中央に立っているイメージである。

プレーヤーは定位置にいて音声で指示を出すだけで、会場を横から見ることなどできないので、遠くになるほどボールをつかんでいる移動体と床にある筒の位置関係がわからなくなる。
はっきり言えば、5メートルも離れると、もうどこが筒の真上位置になっているのか、さっぱりわからないのだ。

だから、だいたいの子供は、近くの直径の大きな筒を狙うことになる。
そして、賞品を獲らせて子供を喜ばせ、観客を盛り上げたいコンパニオンのお姉さんも、そういう近い場所の筒に目標を定めるように、子供を【指導】するのであった。

それはいいとして…。
私は、何人ものプレーを見ていて、不審を感じた。いや、極めて厳正に言えば、一種の不正である。

というのは、プレーヤーである子供たちは、自分の意志で自由に狙う筒を決め、自分の声でコンピューターに指令を出し、移動体を自分の判断で操るはずであるのに、誰も彼もが、コンパニオンのお姉さんの傀儡(操り人形)と化しているのでった。

こういうことである。

プレーが始まる。
お姉さんが、さかさず、
「あの近くの大きな筒を狙ったらどうかしら?」
と、子供に提案(指示)するである。

優しく方針を示しているわけであるが、緊張している子供には、それはスポーツチームの監督の指示と同じ圧なのである。
そう、ほぼそれは命令なのである。

子供は列に並んで待っているときに、それぞれの狙いたい筒を決めいるはずで、それがそのコンパニオン嬢の示した筒と同じだとは限らない。
だが、そういうことは斟酌せず、どの筒をターゲーットにすべきかの提案(指示)が発せられるのである。

その提案(指示・・もはや強制)が、子供たちの望むものと一致していない場合があるのは、子供たちの当惑した表情でも明らかだった。

しかし、コンパニオンのお姉さんは、優しい言葉と笑顔の影で、目の奥を厳しく光らせていたのだった。
それは観客には見えないが、お姉さんの目の前にいる子供には、はっきりわかるのである。
だから、子供たちは自分の意に反して、ついコンパニオンの言葉にうなづいてしまい、自由意志を否定されていた。

私は、そういう様子を見ていて不審を感じていた。

とはいえ、それは進行上、仕方ないのかもしれなかった。
子供たちが、どの筒に入れるか迷って時間がかかるのはマズイのである。何十人も並んでいるから、テキパキ処理せねばならないのである。

それに、狙う筒をコンパニオンに強要されたとしても、その筒の真上まで音声指令で移動体を動かして、筒の中にボールを落とすことに成功しなければならないのである。
そこが子供たちの腕の見せどころだし、子供たちや観客が楽しめるポイントなのだ。

ということであれば、コンパニオンの部分的な横暴?は、許してあげねば…。

ところが…。

(このお題、つづく)

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2019年06月20日

(大昔の)大阪万博の苦い思い出 [7]


(大昔の)大阪万博の苦い思い出 [7]

コンパニオンのお姉さんは、狙う筒をプレーヤーの子供に提案(指示・強要)するだけでなく、恐ろしいことに…次の段階の子供の自由意志(プレーする喜び)をも封じ込めていたのであった。

『筒の中にボールを落とす目的を成功させて、子供たちは賞品をもらって喜ぶ。観客も喝采する』
という予定調和の実現は、コンパニオンに課せられた使命ではある。
そのために、コンパニオンがアドバイスすることは許されるだろう。プレーヤーは小学生以下の子供だし。

ところが、実際はこういう感じなのであった。
(【コ】コンパニオンさん、【子】プレーヤーの子供)

【コ】さあ、始めましょう。スタートと言ってください。
【子】スタート!
【コ】さあ、動き出しました。まず、まっすぐよ。
【子】まっすぐ!
【コ】狙うのは、あの右側の赤い大きな筒ですよぉ。どっちに行くのかなぁ。右ですよぉ。
【子】右!
【コ】はい、次はここらへんで、ちょっと前じゃないかな。
【子】前!
【コ】さぁ、止まって!
【子】止まれ!
【コ】あ、いい感じのところで、止めることができましたね。じゃあ、ボールを落としましょう!
【子】落とせ!
【コ】わぁ! 見事に筒にボールが入りました! 凄いです!(観客拍手。でもなんか違うだろ感あり?)
【子】…。(嬉しくて笑っているが、自分でやった感がないから不完全燃焼感あり?)

私は目の前の数十人の子供たちが、そういう具合にあしらわれて、全員が見事に賞品を獲得するのを見ていて、持ち前の【いちがい(あまのじゃく、強情)】な性格が沸騰していた。

「ボクは、ああいうふうな言いなりにはならない! 自分の思うとおりにやって賞品をとる! それで失敗したら、それはそれで仕方ない」

私の順番になったとき、私の心はそういうふうに定まっていた。一点の曇りもなくである。
よし、やるぞ!

「ボクは、ほかの子供とは違う、ほんもののパフォーマンスをみせてやる!」
私は、すごく意気込んで、プレーヤーの台上にあがった。

私の名前や、どこから来たかなどの簡単な話が終わって、コンパニオンのお姉さんは、
「じゃあ、始めましょう。左側のあの青い大きな筒にしましょうか?」
と、予定調和に導くべく、甘言を放った。

が、私は、その提案(指示・強要)を無言で無視し、うなずきもしなかった。
私は順番を待っている間にターゲーットの筒を物色し、最も遠くの最も右奥の最も小さい筒を目標に定めていたのである。

あれに入れれば、とても入れられるとは思えないが…だからこそ決まれば、大喝采は間違いなし!
他の意志薄弱な子供たちとの格の違いを観衆に見せつけ、すごい思い出を作って、学校で自慢するのだ!
絶対!

お姉さんは、私が無言だったのは、私が緊張しているか、シャイな性格だからと思ったようで、気にもせず、
「じゃあ、始めましょう」
と、マイクで小さく叫んだ。

私は、最も遠くの筒を狙うのであるから、
「まっすぐ!」
「まっすぐ!」
「まっすぐ!」
と連呼し、ボールを持った移動体を、ずんずん前進させた。

今までの子供たちは、近くの大きな筒を目標にし、コンパニオンの指示通りに音声指令を出し、筒にボールを入れることに成功していた。
が、私はそういう『お決まり』を無視して、一直線に会場の向こう端までボールを下げた移動体を進めさせているのである。

「おおお…、なんやこいつ!」
「今までと違うこと、やりょうるぞ」
「大丈夫なんかぁ」
そういう…これまでと異なる熱気を帯びた観客の雰囲気を、私は感じていた。

このような無謀かつ大胆な行為は、もし失敗しても、私のその思い切った挑戦は観客の心に永遠に響くに違いないのだ。

よし、いいぞ! ボクって、注目の的だぞ!

そう。
確かに、私は観客たちの注目を浴びたし、彼らが家に帰ってから、間違いなく私の話を家族や友人知人に対してしたに違いない衝撃的な結果を出したのであった。

私のとって、その衝撃は、半世紀近くたった今でも、鮮明である!

(このお題、つづく)

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2019年06月21日

(大昔の)大阪万博の苦い思い出 [8]


(大昔の)大阪万博の苦い思い出 [8]

子供らしく困難に立ち向かうという大志を抱き、コンパニオンのお姉さんのアドバイス(指令)を無視し、一番遠くの小さな筒にボールを投入すべく、小学生の私は、
「まっすぐ!まっすぐ!」
と、【音声認識によるコンピューター制御のボールを保持した移動体】に命令を発し続けた。

移動体は、かなりゆっくりと、天井のレールにぶら下がって進んで行く。
動く速度が速すぎると、方向を変えるポイントを行き過ぎ、言葉(音声)による指示が間に合わないからである。

観客は、それまでの子供と違う、私の自由な(コンパニオンの指示を完全に無視した)プレーに、どよめいていた(はず)。
私は、その段階で、すでにヒーローなのであった(はず)。

その時の私の気分をわかりやすく表現すれば、
『悪者に騙されて、牢屋に鎖でつながれていた英雄が、今、鎖と檻を破壊し、世の人々を救うために太陽の下に現れたのだ!』
である。
(おおげさ!)

とはいえ、英雄は、悪者に行く手を阻まれるものだ。

「あらぁ、遠くの筒は難しいから、手前のものにしましょう。さぁ、一回ここで止まったほうがいいわよ」
と、コンパニオンのお姉さんが、やや険しい目つきで、私にささやいた。
ささやくといっても、マイクで観客に聞こえるように『ささやく』わけである。

人々は、
「あらっ、お姉さんが毎度のように、(でも今回はちょっと強い口調で)指示を出したわよ」
「ほんとじゃ、このガキ(私のこと)、どうするんじゃろ?」
「そもそも、あんな遠いところだと位置よくわからんし、ボールが入れられるわけないだろ」
「いや、それをやりたいという心意気がだいじなのよ」
などと盛り上がっていた(はず)であった。
(私はプレーに集中していたので、周囲の様子はよくわからなかったわけだが、そうだったに違いない!)

「あっ、キミ、そんなに行くと…。私のアドバイスを聞かないと…」
コンパニオンのお姉さんの声が、明らかに険しくなっていた。
(と、後で観ていた叔父が言っていた)

ここまで、文章では長いが、移動体がゆっくり進んでいるため、20秒くらいだっただろう。
だから、私の目指す、一番奥のところまで行くどころか、距離は半分も進んでいなかった。

コンパニオンさんは、マイクを通さず、小さな声で私に直接、
「止めなさい!」
と命じたが、私は聞こえないふりをした。私は自分のやるべきことに集中していたのだし。

そのとき…。

「あっ!」
と、私は視界の端で不審な動きを目撃した。
お姉さんが、(観客からは見えない)テーブルの下にあるボタンをこっそり押したのだ。

と同時に、私が順調に動かしていた移動体が、ピタッと停止した。
そして、それまでのゆっくりした動きが嘘のように、すごいスピードで勝手にバックをし、シュルシュルシュルとスタート位置まで戻って来るのであった。

私はあっけにとられて、声も出せず、それを見ていた。
観客も、
「えっ、なになに?」
という驚きとともに、それを見ていた。
それまでの子供たちのプレーで、そういうことは一切なかったし、そういうことが起こることを誰もイメージできなかったからだ。

『音声認識で、コンピューターが人間の指示通りに移動体を動かす』
という当時では最先端のテクノロジーの凄さを見せる目的のアトラクションなのである。
これでは、科学技術のスゴサが疑われるではないか。

シュルシュルシュッルシュルシュル~、ピタッ!
移動体は、落とすべきボールを持ったまま、私の指示を無視して、元の位置に戻ってきて停止した。

私は、茫然である。

観客は、ややザワつき、
「なんだぁ、こりゃ。故障か?」
「途中で勝手に制御不能になるなんて、この子(私)がかわいそうじゃないの」
という感じである。

コンパニオンのお姉さんは、この『不測の事態(じゃないのか?)』にかかわらず、落ち着き払っていた。
にこやかな笑顔で、やや私に同情するように(同情するふり!)、マイクを通して力強く、こう言った。

「コンピューターが、怒ってしまいましたね!」

えっ?
コンピューターが…なに?

(このお題、つづく)

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2019年06月23日

(大昔の)大阪万博の苦い思い出 [9]


(大昔の)大阪万博の苦い思い出 [9]

それまでコンパニオンのお姉さんの指示に従って結果を出していた子供たちと異なり、彼女の指示を無視した私のプレーは、途中で中断され終わっていた。

異様な結末に会場はざわつき、私が茫然自失しているとき、進行役のコンパニオンのお姉さんが、
「あ~ぁ、コンピューターが怒って(ゲームを中止して)しまいましたね!」
という、明朗だが理不尽な説明が会場全体になされたのであった。

私は、この言葉を一言一句、今でも忘れらない。
そのときの、お姉さんの嬉しそうな声色も。

その進行役コンパニオンによる説明の意味を理解するため、一瞬観衆は、し~んと静まり返った。
そして、次の瞬間、私にとっては悪夢であったが…、会場は大爆笑に包まれた。

「えぇ~、コンピューターって怒るんかい?」
「そんなことあるのぉ? おもしろ~い!」
「ぎゃははははははは!」
「わははははははは!」
「あららら、あの子(私)可哀そうだけど、笑えるぅ!」

「うそぉ。コンピューターが怒ったの? 故障じゃなくて?」
「あ~そうか。あの子(私)が、コンピューターに無理な指示を出したからってこと?」
「このガキ、好き勝手にやりすぎたみたいだぜ」

会場は、おおよそ、そういう雰囲気になってしまっていた。

念入りなプログラミングがされていれば、感情を表現できるような賢いコンピューターがないこともなかろうが、50年も前の当時に、【AI】という言葉の萌芽もない。
そういう時代の、コンピューターが怒るわけないじゃないか。

いやまぁ…映画では、それ以前に公開されたスタンリー・キューブリックの傑作『2001年宇宙の旅』で、コンピューターのHALが怒って反乱してはいたけど…。
残念なが、あれは映画だ。

私は会場を取り囲む観客に笑われ、プレーヤーの立つ台の上で晒し物のようであった。
恥ずかしくて、いや悔しくて!、顔が真っ赤になった。

どよめきと哄笑は、しばらく続いた。

これまでの子供は、(コンパニオンさんの指示通りにして)全員が成功させていたゲームなのに、私は失敗でもなく、意味不明の途中棄権なのである。
それも、コンピューターの怒りをかって…。

「コンピュータの怒り?なに言うとんじゃぁ~!!」
「あんたの怒りじゃろうがぁ!」
「コンパニオンのねえちゃん! あんた、なんか秘密のボタンを押したじゃろうがぁ!」
「ワシは見たでぇ!」
私はネイティブ言語の広島弁で、ただし心の中で、そう叫んでいた。
どうにもこうにも、悔しかったのだ。

「これ、ホンマに音声認識のコンピューター制御なんかぁ? 全部インチキで手動じゃなぁのか!」
(この最後のセリフだけは、そのときは考えつかず、大人になってから、時々思い出しては心中で叫ぶようになった)

が、もはや、すべては終わったのだった。

私は、観衆の失笑と同情の渦の中で、静かに寂しく、プレーヤーの台から降りた。
ほとんどの子供がもらっていたプレー成功の賞品をもらえなかった。

こんな理不尽があっていいのか!
と、いう気持であった。

コンパニオンのお姉さんは、長いゲーム待ちの子供たちの列をさばくため、私の失意や自分のあくどい行為(秘密のボタンで私のゲームを中止)など忘れて、もう次の子供の相手をしていた。

チラリと見ると、その次の子供もお姉さんに逆らう意気地などなさそうだし、コンパニオンさんの指示に従わない場合にどうなるかを見てしまったので、
「うん、うん」
と、説明や指示に素直にうなずいていた。

ふん!

私は、そのイベント会場を涙ぐんで、去った。
弟は、脱臼して吊った左手が動かせないので、右手で私の手を握った。
私の悔しさを理解してくれたのだ。

ありがとう、弟よ!
お前のおかげで、アメリカ館の月の石を観れなかったが、許すぞ!

でも…。

そのあと、目的の日立館に並び、飛行機の操縦シュミレーターを体験するアトランクションをやった。
6人乗りのシュミレーターで、座席の前に飛行機の窓から見える映像が流れ、それを見ながら一人が操縦をするのである。

私を元気づけようと、叔父は私を機長(操縦者)にしてくれた。
「よし、ここでさっきの悪夢を振り払うぞ!」
私は張り切って、操縦桿を握った。

なんとか離陸には成功したが、私は着陸時に操縦を誤り、我々の機体は爆発し大破大炎上した。
シュミレーターの中は真っ赤な色に包まれ、座席は大きく振動し、警告音が鳴り響いた。
そして、目の前のモニターには、こう表示された。

全員死亡。

私の1日だけの大阪万博は、このようにして終わった。

そして、コンピューターに怒られた私は、10数年後にゲーム開発者となり、今ではゲーム界からは去ったが、この30数年の間、毎日パソコンを操作して、なんらかのプログラムを作っているのであった。

(このお題、おわり)

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2019年06月25日

イスラエル軍の秘密兵器【キティ・コーナー・ショット】 [1]

イスラエル軍の秘密兵器【キティ・コーナー・ショット】[]
ある日観た 【ディスカバリー・チャンネル】の番組のことを書く。

その番組では、軍事緊張が常態のごとく続いているイスラエルで、民間会社が開発している『アイデア小型軽兵器』の紹介をしていた。

たとえば、ゲームのジョイスティックみたいなので遠隔操作する小型偵察車(カメラ、マイク付きで、キャタピラで動く家庭用プリンタくらいの大きさ。人が乗る偵察用車両よりはもちろん大幅に小さいのだが、犬ぐらいの大きさはあるから、実際にあんなのが偵察にうろついていたら、すぐ発見されそう)、とか。

あるいは、物干し竿みたいな棒の先にカメラとピストルをつけて、塀などの向こうを覗いてそのまま撃てる道具(高枝切ばさみ…みたいな感じ)とか。

こいつは、3mくらいの棒の先にピストルなどを取り付けて、塀の上や高窓から向こうを潜望鏡のように観察しながら敵を射殺する道具…というけれど、両手はふさがるし、棒の先っぽがゆらゆら揺れていて照準できるのか?と。
そもそも、そんな物干し竿のようなものを、すぐそこに武装した敵がいるような緊迫した場所で使っていられるのか?

なんか世界有数の軍事国家イスラエルの会社の開発した兵器にしては、なんか、ちゃっちいような…。
いやいや、イスラエル軍とか(軍事組織ではないが)モサドが使うとか、あるいは紛争当事国に売り込むとかのはずだから、素人の私が感じるより素晴らしいものなのかもしれない。

とが不審に思いつつ見ていたら、もっとすごいのが出て来たぞ!

これだ。 ↓


これは、『Kitty Corner Shot』というのだそうだ。
んん…猫?
ぬいぐるみ?
新型兵器!?

(このテーマ、つづく)

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2020年09月01日

イスラエル軍の秘密兵器【キティ・コーナー・ショット】 [2]

イスラエル軍の秘密兵器【キティ・コーナー・ショット】(2)

イスラエル軍のために開発された(採用されるかどうかは微妙)、斬新な新兵器『キティ・コーナー・ショット』…。

そう猫のぬいぐるみで擬装し、物陰から敵を覗き込み攻撃する兵器用アクセサリー(アイデア商品?)だ。
両前足の付け根(胸の白い毛の下)に、カメラがあり、この猫の視線と同じ感覚で、物陰から敵を観ることができる。

これは説明より、次の2枚の写真をどうぞ。


開発者が、こう説明していた。(だいたいの意味を私なりの言葉で書く)

「敵が襲われないかと緊張しながら警戒して見回っているとき、建物の角にこんな猫を見つけたら、一瞬『なんだ、あれ?』って思うでしょ? その一瞬の隙がポイントです。こちらにはそれが(判断や攻撃のための)時間の余裕になりますから、余裕を持って敵を始末できます」

たしかに、それはそうかも…。

ちなみに、引き金を引くと、弾丸が発射される場所が猫の縫いぐるみの【おでこ部分】なので、そこが内側から裂けて中から綿が飛び出していた。

なんか、普通とは違う意味で『ホラーな映像』であった。

写真を見てもらえばわかるように、真面目に開発された【新兵器】なんだそうだ。
イスラエル軍が採用するとも思えないけど…。いや、採用するかも。

我が家には、妻が通販で購入したのち、家族として存在している猫の縫いぐるみの【タマ吉】がいるが、その【タマ吉】といっしょに、私はこの番組を観ていた。
(一般的記述をすれば、私の横に猫のぬいぐるみが置かれている…という室内風景)

おそらく…【タマ吉】からすれば、これは恐ろしいアイテムである。自分自身の額が破壊される思いであったろう。
たぶん…。

私は【タマ吉】に訊いた。
「あの兵器あくせさりーって、どうよ?」

彼にとっては衝撃的内容だったのか…そうなんだろうな。
【タマ吉】は、無言のままだった。

(このテーマ、おわり)

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2020年09月02日

私のゲーム初作品 『PC-6001版ベースボール』 と、Twitter

私のゲーム初作品 『MSX』版ベースボール』 と、Twitter

このサイトを作る初めのときに、
「最初からでも、ある程度記事がなければ誰も寄り付いてくれないよなぁ…」
と思い、とりあえず発信できるものとして、大昔にゲーム開発者だったことと、そのころ作って販売されたゲーム(今では『レトロゲーム』というジャンル)の情報を載せた。

載せたとはいえ、当時の資料が皆無で記憶も不確かなので、ネットでググってみた。
そしたら、いろいろあった。

実は、その数年前に高校の臨時講師をしていたことがあり、その時に知り合った理系の先生が、
「私、あなたが作ったゲームをネットで調べました。私も子供のころ遊びました!」
と、印刷したものを見せてくれたことがあり、私の関係したゲーム情報がネット上にあることを、その時初めて知った。

そのあたりのことや、ゲーム紹介や、その当時の話は、その項にちょっと書いてある

サイトを始めて2年くらいで、フォロワー的には数千人しかいない。
ゲームに興味がある人は、ほとんどいないようで、だいたい私の描いている変な漫画や文章を読んでくださっている。

私はTwitterに投稿するネタもないので、時々フォローさせていただいている方々の投稿を読むのが主であるが、少し前に、『任天堂バレーボール』の原作である『MSXバレーボール』をTwitterに紹介したら、プチバズりし、レトロゲームファンの存在を知った。

いろいろな感想や情報が寄せられ、面白かった。
まあ『任天堂バレーボール』が有名だから、原作の話も面白いのだろう、と思うし、実際そうだろう。

昨日、私の最初の作品『PC-6001版ベースボールゲーム』をTwitterに投稿してみたら、プチプチバズり(…バズったとは言わないかな…)した。

「ほほう、まったく無名のゲームでも知っている人が…」
と、びっくりした。
無名とはいえ、機種別売り上げ一位にもなったから、大昔のことなのだが、知っている人もいるわけらしい。

そのため、そのゲームに関する画像も感想を返信やリツートで見ることができた。
楽しかった。ありがたいことだなぁ。

私の青春時代の、一コマだから。


(この話、おわり)

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2020年09月05日