(大昔の)大阪万博の苦い思い出 [4]
(大昔の)大阪万博の苦い思い出 [4] |
脱臼していた弟の左腕の肩と肘の関節は、元の位置にはめこまれはしたが、関節周囲の組織が破壊され炎症を起こし、変色までして腫れ上がっていた。痛々しかった。 病院ならばレントゲン写真(当時はCTやMRIはなかった)を撮るだろうが、接骨院にはそういうものはない。施術者の経験と勘だけである。 こういう治療に経験豊富そうな、その接骨の老先生は手慣れた様子で手際よく、弟の肩と肘に重厚な湿布薬を塗り、包帯でグルグル巻きにし、三角巾で首から腕を吊り下げるスタイルにした。 「肩と肘が同時に脱臼するなんて…なかなかないぞ」 と老先生は、弟の三角巾の位置を整えながら、また言った。 そんなに珍しいのか? 「で…じゃ。脱臼によって関節まわりの組織がどのくらい傷んどるかはいろいろで、今の段階ではようわからんところがある。このあと、どれくらい腫れるか、どれくらい痛みが出るかも、何とも言えん。ともかく症状に応じた初期段階の治療がとても重要で、それをちゃんとしないと、今後、腕の動きがおかしゅうなる可能性もある。だから明日、朝いちばんに、診療に来なさい。日曜日じゃが特別に診察しよう」 その老先生の指示は医学的には正しいものであると、子供の私にもわかったが、私にとっては、 「げっ!」 であった。 「そしたら、明日の早朝に万博の入場ゲートに並んで、入場と同時にアメリカ館に突っ走って行列に並び、なんとしてでも月の石を見る…ちゅう人生最大の体験(予定)は、どうなるんじゃ?」 と、私は心の中で叫んだ。 「このジジイ、おかしなこと(接骨師的には正しいこと)言うとるでぇ!」 弟の怪我より、月の石! そういう自分勝手で愛のない、兄として失格の私の本音ではあったが、弟だって、そう思っているはずだ。 そうだろ?弟よ! 兄弟二人であんなに楽しみにしていた『アメリカ館の月の石』だぞ! 弟よ!この老先生の指示を完璧に拒否するのだ! 「ボクは月の石を見たいので、明日は来ません。万博から帰って、夕方来ます!」 と、言うのだ! 弟よ! そう言え! しかし、弟は、よっぽど左腕が痛かったのだろう。 (あたりまえだ。肩と肘の同時脱臼だからな…) もはや彼の頭には『月の石』の存在は陽炎のように、はかなく影の薄いものになっていた。 (あたりまえだ。そのときもズキズキと痛いのだからな…) 弟は、小さく頷いて、翌朝の受診を受け入れた。 「そんなん、ダメやん! 月の石が見れんじゃろうがぁ」 という言葉を、私はぐっと呑み込んだ。 そういうのは、いかにも非人間的で、兄弟愛のかけらもない自己中の発言だとわかっていたからである。 いや、まだ可能性はある。 弟が、ふと思いなおして、 「やっぱり、人生の一大イベント、夏休みの自由研究課題に最適、月の石の見学記録が書きたい気もするんで…」 とか、言い出せば…、言うわけないけど…。私は往生際が悪いのだ。。 が、そのとき、 「わかりました。今後の生活に支障が出るような後遺症でも残ったら、たいへんですからね。明日朝、連れてきます」 叔父がそう発言し、この重要な選択問題(万博 or 治療)には終止符が打たれた。 私の脳裏には、さまざまなことが浮かんだ。 あのとき、プロレスごっこを始めなければ…。 あのとき、ちょっとキツイ技を弟に仕掛けなければ…(弟は報復のドロップ・キックをしなかった?)。 あのとき、弟のドロップ・キックを逃げずに受けていれば…(弟は落下時に受け身を正しく取り、脱臼は免れた?) そもそも、なんでプロレスごっこなど、はじめたんだろ? 私が、なぜこうも『明日』に、こだわるのか? それは、叔父の休日が『翌日の日曜日だけ』だからであった。予備日はなかったのだ。 当時の会社員の休みは、日曜だけであった。 日本中が高度経済成長期の中にあり、普通の会社員というものは、普通に週6日、残業もしながら働いていた。 ほぼ50年前の日本に、週休2日など、まったく影も形もないどころか、荒唐無稽な夢物語である。 有給休暇で家族サービスという概念も、当時はほぼなかったはずだ。 今や令和。 この話は昭和45年という遠い過去の話なのである。 叔父の家から見知らぬ土地の大混雑の万博会場に、子どもだけ行くことはできない。 叔父が我々子供たちを引率して万博に行ける日は、明日だけなのであった。 もちろん、我々兄弟が叔父の家に、次の日曜日まで連泊することはできないことではないだろう。 しかし、遠方に住んでいるので、親戚とはいえ付き合いは浅く、そんなに長い滞在をするのは気が引けるわけであったし、泊めてもらって万博に連れて行ってもらうということだけでも、畏れ多いという気持ちなのだった。 (このお題、つづく) |
<--前 | Home | 一覧 | 次--> |
<スポンサーリンク>