(大昔の)大阪万博の苦い思い出 [2]
(大昔の)大阪万博の苦い思い出 [2] |
大阪駅で叔父に迎えられ、私たち兄弟は車で叔父の家に向かった。 途中で伊丹空港だったと思うのだが、大型旅客機が密集した民家の屋根を擦りそうなくらいの超低空飛行で着陸しているのを車内から見て、すごく驚いた。 騒音とか事故の危険とか、その当時の日本は、経済は高度成長期だったろうが、民政は劣悪だったのだ。 公害問題もそうだが、数十年しか生きていない人は、昔のニッポンの『低度』を知らないから先進国と呼ばれない国のある状況を、 「ひどいなぁ」 などと思うだろうが、日本だって、つい最近までそうだったのである。 さて、叔父の家に着き、従姉妹たちに初めて会い、夕食を食べ、風呂に入った。 いよいよ寝て、明日早朝に起きて万博会場に向かい、月の石の展示で大人気のアメリカ館の長蛇の列に並ぶだけであった。 最近はマニア以外には、まったく下火になってしまったが、当時はプロレス全盛時代であった。 私と弟は、ワクワク感が抑えきれず?、寝る前のひと時を『プロレスごっこ』で過ごした。 もちろん、チェップの真似事や、必殺技の『4の字固め』や『コブラツイスト』などの技を軽く掛けたりするだけのものである。 しかし子供だから、はしゃぎすぎたりもする。 私のなにかの技が痛かったのか、弟が興奮し、私に『ドロップ・キック』を仕掛けてきた。 『ドロップ・キック』とはプロレス独特の技である。(新日本プロレスのオカダカヅチカ選手のドロップ・キックは凄いぞ) 両足で踏みきって飛び上がり、体を地面に水平にした状態で空中に浮き、やや縮めていた体と足を一気に伸ばして、両方の足先ないし足裏で相手の顔面(ジャンプが低いと胸あたりになる)を突き刺す技である。 この技がきれいにできるプロレスラーは、運動能力に優れていて華のある選手が多いのだ。 さて、私の技に怒った弟が私に、そのドロップ・キックを炸裂させたのであった。 私は今でもハッキリ覚えている。 そのとき、見事に空中に浮きあがった弟の体と怒りの眼光を! だが私は、その弟の攻撃を見切り、さっと身をかわした。 弟の技は空振りとなり、彼は空中で体を水平にして浮き上がった体勢のまま、やや体の左側面を下側にして、ドスン!と鈍い音を立てて畳の上に落ちた。 「ふふふ、弟よ。甘いぜ!」 というセリフが私の口から出る前に、弟が体の下になっていた左腕を押さえて、 「ぎゃぁ~!」 と、叫んだ。大げさではなく、叫んだ。 ガメラと戦うギャオスの雄たけびのようであった。 (※何のことかわからない人。ごめんなさい。日本の有名な怪獣ですよ) そして、弟は文字通り、叫びながら、転げまわった。 私は突然のことに固まってしまい、その異様な声を聴いた叔父が駆け付けてきた。 「なんじゃ?」 「弟が自爆した…」 叔父が泣いている弟を何とか椅子に座らせて、弟の左腕を触っていた、 「こりゃ、肘の骨が外れとる」 「えっ、肘が!」 「医者は時刻も遅いけぇ、もうやっとらんが接骨ならやってるかも。すぐ連れて行かんと」 確かに、弟の左腕はダラリとしたままで動かせないようだった。 弟は動く右腕で涙を拭きながら、 「お前が、よけるからじゃ!」 と、私を非難した。 そういう問題じゃなかろうが…。 でもまあ、プロレスは受け身の美学…。技は受けてやらねばいけなかった。 とはいえ、技をスカすのも、これまたプロレスの妙味。しかたあるまい。 そうは思ったが、弟の姿が痛々しく、私は、 「ごめん」 と謝った。 夕方だが夏なので、外はまだかなり明るかった。 私たち兄弟は叔父の車に乗り、叔父の知っている接骨院に向かった。 う~ん、明日の万博は、どうなるんだろ? 月の石、見たいしな…。 弟のかなりひどそうな怪我よりも、翌日の万博での『アメリカ館の月の石』の見学予定を心配する、いけない兄であった。 (このお題、つづく) |
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