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これは、販売終了した同人誌『バレーボールゲームをめぐる本当の物語』のプロローグを修正加筆したものです。 | |||||||||||||||
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【ゲーム黎明期 王国物語風略記】 偉大な漢帝国ならぬ弱小ゲーム開発会社『パックスソフトニカ国(以下ソフトニカ国)』は、国家存亡の危機に瀕していた。 数少ない国民は真面目に働いていたが、宗主国『パックスエレクトロニカ国(以下エレクトロニカ国)』が自国の赤字補填のため、立場の弱いソフトニカ国の金を取り上げていた。 ソフトニカ国の国庫は空となり、新たな領地を得るための戦いさえできなかった。戦うための『武器』がないのである。が、わずかな希望はあった。 この少し前にファミコンゲームへの移植開発を請け負ったことで、ソフトニカ国には戦うための『知識』はあったのだ。もし彼らにその『知識』を生かせる具体的な『武器』さえあれば、この窮地もなんとか凌げるかもしれなかったのである。 彼らは祈った。 「天帝よ。我らに『武器』を与えたまえ!」 そのころ、フリーランス戦士である私は、そんなことはつゆ知らず、『MSXバレーボール(販売名アタック・フォー)』という『武器』を一人で作っていた。私は少年時代からバレーボール愛に満ちた戦士だったから、その『武器』で世界と戦いたかったのである。 そして、その私の夢は叶うことになる。 ただし、そこに…夢が叶ったはずの場所に、『創作者である私はいない』のである。 なぜか? そんな、おかしなことが? 本家の『三国志』などは、策略と裏切りの世界だが、これもそれである。 お金と名誉欲は、人をおかしくさせるとはいえ…なぜ、こんなことが? この『1986年のバレーボールゲーム』には、その「なぜ?」が書かれることになる。 さて、話を戻そう…。 私は、1983年ころ、ソフトニカ国の前身である『イマージュソフト国』に、デビュー作となる『PC-6001ベースボールゲーム』を郵送して採用され、傭兵(フリーランスゲーム開発者)としてのキャリアを始めた。 国名がパックスソフトニカ国となってからも友好関係を保った。 社長であった田村大公が私を戦士として育ててくれた恩人だからである。 私は、ソフトニカ国の厳しい財政窮状を知らなかったが、その長年の友誼により、私が作った『武器』である『MSXバレーボール』をソフトニカ国に持ち込んだのであった。 そして、この『武器』は、すぐさま正式採用され契約が結ばれた。 ![]() 「こ、これは、我が国を救う素晴らしい『武器』になるやもしれぬ。というか…もう他にわが国には金も『武器』はないのだし」 と田村大公は考え、その少し前にファミコン開発術を学んだばかりだった重臣の橋下公爵に相談した。 「これをファミコンに移植しようではないか。国の危機を救うには、もはやこの手しかあるまい」 しかし、橋下公爵は渋った。 「いや、それは少々気が進みませぬ」 彼も少し前まで私と同じフリーランス戦士であったから、自分が学んだファミコン開発術を他人のゲームの移植などではなく、自分のゲーム作りに使いたかったのである。田村大公も、もとはフリーランス戦士なのであるから、その気持ちはよく理解できた。 だが、ソフトニカ国は滅亡寸前なのである。なんとかしなければ…。 田村大公は事態を打開するために、私を呼んだ。 「橋下公爵は、バレーボールのことは何も知らぬし、この競技にもあなたが創ったMSXバレーボールゲームにも、まったく興味がない。 が、プログラミング技術は確かで、わが国では唯一のファミコン術会得者である。国がつぶれる前になんとかせねばならぬ。協力してくれまいか」 ところが…。私は私で、この大公の頼みに、「諾!」とは言わなかったのだ。 私の自作バレーボールゲームへの愛は強く、フリーランス戦士としての立場も誇りもある。 「私は自由な戦士!これは私が精魂込めて開発した『武器』(ゲーム)ですので、私自身でファミコン仕様のものを作り(移植し)たいのです」 田村大公は困り果てた。橋下公爵も私も首を縦に振らないのである。 「こいつら、どんだけ自分中心主義なんだよ」 と、大公は頭を抱えた。 「まあフリーランス戦士は、こうでなきゃ生きていけないわけじゃが…」 ![]() しかし、田村大公は気を取り直し、丹田にぐっと力を込めて、気合とともに熱く私を説諭した。 「本谷殿、ことは急を要するのじゃ。我らには時間がないのだ。あなたが今からファミコン術を学びながら移植していては国が持たぬ。この国が消滅すれば貴殿にとっても都合が悪かろう」 「うっ!なるほど。そう言われてみれば、確かに…」 気迫に押された私は、私をゲーム開発戦士にしてくれた恩人であり尊敬する田村大公の言葉に深く考え込んだ。 そう。このままでは、このソフトニカ国は潰れるだろう。誰にとってもそれは困ることであり、その破滅がそこまで近づいているのである。 そのとき、私の頭上で天帝の声がした。 『皆が自分のことだけを考えていれば、すべてを失うであろう』 と。 おおっ、そうであった! 私は頓悟(とんご)した。 考えてみれば、私の作ったゲームは、(イマージュ国時代から)ソフトニカ国で販売しており、この国がつぶれれば面倒くさいことになる。著作権は全て私にあるとはいえ、あらためて売ってくれるところを探すとなると、たいへんである。 橋下公爵にしても、フリーランス戦士から、意を決してソフトニカ建国に参加したのであり、彼も国が潰れてしまえば浮浪になりかねないのだ。 そのことに気づいた、私と橋下公爵は、田村大公のもとに団結することにしたのである。そう、それしかないのだ。こんなときに、個々の都合を主張してなんになろう。 ![]() 田村大公、橋下公爵、私の三人は、ソフトニカ国を救うため、大杯の酒をすすりながら…ではなくカップコーヒーでも飲みながらだったか…、『桃園の誓い』ならぬ『バレーボールゲーム移植の誓い』を立てたのである。『力を合わせてバレーボールゲームをファミコンに移植し、ソフトニカ国を救おう。そして成功の暁には、富貴は共に!』、と。 我らが目指すは漢帝国の復興に匹敵する難事、ソフトニカ国の滅亡回避であった。そして、滅亡を逃れることができれば、ソフトニカ国は興隆し、原作者の私は自分の王国を持てるかもしれない。 おおおおおっ! やる気が出てきたぞぉ! ![]() そして、ソフトニカ国は、私の原作『MSXバレーボール』をファミコンに移植するプロジェクトを始動した。 原作者でバレーボール術会得者の私がゲーム性の指導と全体監修、現場(プログラム)は橋下公爵、田村大公は各国への遊説(営業)担当である。 とはいえ、ファミコン版への移植完了までには、かなりの時間がかかる。国はそれまで潰れないのか? そして、もっと重大な問題があった。移植版が完成しても、それを自社発売する資力がその時のソフトニカ国にはなかったのだ。お金がないので、ソフトを作ってもハード(カセット)を作れず、商品として売ることができないのだ。 どこかの国と同盟を結んで売ってもらうしかないのであった。そのため、移植作業と並行して同盟国を探さねばならないのだが、貧しいソフトニカ国には人員がおらず各国への遊説さえままならないのであった。 そのため、田村大公は宗主国エレクトロニカ国に、遊説協力を依頼した。ソフトニカ国の金を奪い取っているエレクトロニカ国に頭を下げるのは、なんとも気が進まないがしかたない。 しかし、各国への遊説はことごとく不調に終わった。そもそもファミコン版は移植途中なのである。どんなものができるかわからない。 「できたら見せて」ということだろうが、そんな悠長なことをしていたらその前にソフトニカ国は崩壊するだろう。 もはや、万事休す! そのとき、宗主国エレクトロニカ国に身を寄せていた遊説家・浦山氏が、その話を聞きつけた。 「なぁに、たやすいこと。あなたがたの方策は元の考えが間違っておるのです。手っ取り早く、私があそこに説いてみましょう」 「あそことは?」 「はははははははははははははははははははははは。超大国・任天堂国ですよ」 「に、にんてんどうこくぅっ!?」 「あそこはファミコン連合の盟主。あそこに行くのが最も話が早いでしょう?」 「し、しかし…」 驚く皆をしり目に、浦山氏は移植途中のファミコン版と私の原作ゲーム『MSXバレ-ボール』を携えて、遠い京に旅立ったのであった。 ![]() ![]() はるばる京の任天堂国に乗り込んだこの無名の遊説家は、荷を解き終わるとすぐに、任天堂国に説いた。 「これがMSXのバレーボールです。このようにバレーボールの要素を実現しており、楽しく遊べます。こちちらのファミコン版は移植中で、まだ完全ではありませんが、国を挙げて移植を行っております。ゲーム性はMSX版で確立されておりますゆえ、移植版がMSX版のように動くことはイメージできるでしょう。この世界初のバレーボールゲーム、いかがでございましょうか」 まったく臆することのない遊説(営業トーク)は、超大国任天堂国のハートを射抜いたのであった。 この遊説トークは、私が浦山氏から聞いた話からの想像ではあるが、彼はこんなふうに説いたであろう。 私の手元にある、浦山氏の写った数枚の写真の雰囲気を見ても、彼が超大国任天堂国に単身乗り込んでも臆することはなかったと想像できるのである。 そして先見の明にあふれる任天堂国は、浦山氏の遊説に酔わされたわけではなく、冷静に判断し、私のバレーボールゲームを任天堂ブランドとして発売することを決めたのであった。 天の霹靂! パックスソフトニカ国は救われた! 天帝よ、感謝いたします! ソフトニカ国は、『超武器・任天堂バレーボール』により滅亡を逃れ、その後はその縁により任天堂国の傘下に入り、短期間であったが栄華を誇るまでになるのである。 短期間の? そう、一時的な栄華…。それは後述いたします。 ファミコン版バレーボールゲームが、『ソフトニカ国ブランドで売れたらいいなぁ』くらいの望みだったのに、『超大国任天堂国ブランド』になってしまい、移植版の『任天堂バレーボール』は、世界で400万本くらい売れることになる。 ![]() 任天堂国ブランドでのゲーム販売とその傘下に入ることが、ゲーム開発者として、いかに恵まれていたかを私は経験した。同時に、そのソフトニカ国の中で、お金のからんだ様々な人間模様を見た。 私は、その数年間の出来事をこの国の中で実際に見聞した少数の人間の一人である。それも『部長』として、この国の中心点近くに立ってである。 ソフトニカ国の得た多額のお金はその中枢にいた、一部の人間を酔わせ狂わせた。 私がもらうべきお金は、パックスエレクトロニカ国(なのかパックスソフトニカ国なのか)に入ったが、勝手に流用されてしまったのである。 私が当時直に聞いて知っているお金の使い道の一つが、『六本木のお店』への投資である。 これは私、立本氏に何度も直に聞いた。 私が最近(2025年)Xで知り合った『元パックスソフトニカの元社員』さんがいたころ(2000年代?)にも、 「その店には自由に行っていいぞ」 と言われていたそうである。 ![]() それらのお金の勝手な、ソフトニカ国と関係ないところへの流用をなぁなぁにするために、パックス(ソフトニカ&エレクトロニカ)国は、私から任天堂バレーボールの権利を奪い、私を追放することにしたのであった。 『桃園の誓い(バレーボールゲーム移植の誓い)』で一致団結したはずの3人の勇士は、宗主国エレクトロニカ国からやってきた立本国王兼宰相により分断され翻弄されてしまい、あの美しい『桃園の誓い』は、足蹴にされ地面で踏みつぶされてしまうのである。 その全ての始まりが、私が作った『MSXバレーボールゲーム』だったのである。 そんなこと、みなさん知らないでしょ? なぜなら、パックスソフトニカでそのお金を使った人たちは、そのことを決して表だって話せないからである。 なにしろ、私との間に、正式な契約書もない(くれなかった)のである。 契約書がないのに、なぜ、パックスソフトニカは、任天堂バレーボールに関する権利やお金を独占できるわけなのだろう? 任天堂さんに、パックスソフトニカは、私のことについて、どういう説明をしたのか? そもそも、 なぜ、任天堂バレーボールのゲーム画面に、移植プログラムを担当した人の名前だけがあるのか? ![]() 私の原作ゲームをもとに、私がバレーボールのこと、ゲームの要点や構造を教えたから、移植ができたのにである。 私はこの問題を、今後追求していくつもりである。 『いったい、任天堂さんに私の権利問題を、どう説明しているのか?』 ということである。 移植プログラムを担当した橋下氏は、本も出し、ファミ通でロングインタビューもされている。 そこで、私のことに触れているのは数行である。 ![]() ![]() なぜ、彼は、私のことをちゃんと話せないのか? それが世に知られると都合が悪いからであろう。 実は、『バレーボールゲームをめぐる本当の物語』を読んだ橋下氏から、私宛のメールをいただいている。 その中で彼は、 「今後は本谷さんのことを(橋下氏自身が)発信し世の中に話します」 と書いてくれていた。 だから、私は、それを期待している。 ただ不思議なのは、私が質問しているわけでもないのに、 「私(橋下氏)は、権利のこともお金のことも何も知りません」 と書いてきたことである。 それは、あるまい。 それとも、当時パックスソフトニカ(エレクトロニカ)の実権を握っていた立本氏が、全て勝手にやったこと、 だということだから、そちら(立本氏)に聞いてくれ、ということだろうか。 38年間、私はパックスソフトニカのことを何も知らなかったが、最近、私が声をあげたことで、直接間接、いろいろな情報をもらっているし、それを公開してよいという許可もいただいている。 それは、私の後にパックスソフトニカに入社したり、パックスソフトニカ、あるいはソフトニカと仕事をした方々から、その後の『こんなことがありました』というものである。 それらを含めて、この物語は、第一当事者である、私しか語ることができないので、私が語らねば闇に葬られてしまであろう。 なぜ、私しか語ることができず、なぜ、私はそれを今まで公に書かなかったのか? その理由も含めて、ここから、任天堂バレーボールゲームの誕生をめぐる本当の物語『1986年のバレーボールゲーム』を、約40年の時を超えて、唯一語ることができる私が書きましょう。 (2025/8/20 加筆および一部の内容修正) | |||||||||||||||
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【注1】 このプロローグは、私の同人誌『バレーボールゲームをめぐる本当の物語』(販売終了)に少し加筆修正したプロローグです。 その同人誌を読まれていない方に、このプロローグで、これから書かれる『1986年のバレーボールゲーム』の概要をお知らせした次第です。 【注2】 ここにこれから書かれる『1986年のバレーボール』、そしてすでに販売された『バレーボールゲームをめぐる本当の物語』の内容については、何十年も前のことであり、一部に私の記憶違いがあるかもしれません。そのときは、どなたでも、どうかご指摘ください。 私はそのご指摘を公開しますし、一緒に正解を探しましょう。 YouTubeライブ配信など、公開の場での『お話』も大歓迎します。
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1986年のバレーボール<任天堂バレーボールの本当の話>
<1988年>2つの結婚式
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この項は、(A)-③『私とパックスソフトニカの親密な協力関係』の証明 |
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<1987年1月>ラスベガスのCES視察旅行
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1987年1月 Consumer Electronics Show | |||||
この項は、 (A)-③ 『私とパックスソフトニカの親密な協力関係』 の証明 | |||||
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グレゴリーさん、ありがとう! |
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帰国の飛行機まで数時間しかないのに、私はロサンゼルスのダウンタウンで、一人、迷子!!! |
グレゴリーさんのタクシーで、なんとかギリギリに、ロス空港に着いた! |
無事帰国できた!ので、この後『任天堂アイスホッケー』の開発が始まりました。 私は宮本さんの補ディレクターでした。 (この話は、別項で詳しく) |
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<1987年9月>パックスソフトニカ社員旅行
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1987年9月 箱根湯本・社員旅行 | |||||
この項は、 (A)-③ 『私とパックスソフトニカの親密な協力関係』 の証明 | |||||
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前列から 中島氏(オホーツクに消ゆ、任天堂アイスホッケーで組んだ天才PG) 星野氏、私(本谷)、高橋氏、坪井氏、 浦山氏(任天堂へ営業に行った殊勲者) | |||||
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左から 中島氏、坪井氏、私(本谷) |
楽しかったねぇ (^o^) |
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1987年9月4日~5日、小田急ロマンスカーで、箱根湯本に社員旅行に行く。 |
私はフリーランスだったが、パックスソフトニカとは長く懇意で、『部長』の肩書きだったので、参加。 |
立本氏、橋下氏は、社内で別グループだったので不参加。田村氏は、所要で不参加。 |
(※写真は、特に問題はないと思うのだが、いちおう、私以外は顔をぼかしたものを使用した) |
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部屋で宴会 左から、米塚氏、坪井氏 私は米塚氏の結婚式に会社代表で行った間柄。 坪井氏とは、のちに結婚しました。 |
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左から、高橋氏(グラフィック担当)、米塚氏(PG担当) そして、坪井氏 |
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左から、坪井氏、高橋氏、星野氏、中島氏 |
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私と星野氏 星野氏は、新戦力のPG 私、酔ってますね。楽しそう。 この後、『任天堂アイスホッケー』発売 ↓ 悪夢の『小切手事件』が待っているとは…。 |
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<1983~1984年>単独開発したゲーム
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1983~84年まで、私が単独で開発してパックスソフトニカから委託発売したゲーム | ||||||||||
この項は、 (A)-③ 『私とパックスソフトニカの親密な協力関係』 の証明 | ||||||||||
40年ほども前の初期のゲームで、 恥ずかしい部分もあるけれど、 フリーランスとして単独開発し、 パックスソフトニカで委託販売した作品。 これらの経験が、後の バレーボールゲーム開発の基礎となりました。 | ||||||||||
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準備は整った! そろそろ念願のバレーボールゲームを創るぞ! | ||||||||||
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そして、時間をかけて創ったのが 『任天堂バレーボール』の直接の原作となる 『MSXバレーボールゲーム』 【販売名【アタックフォー】) ↓ | ||||||||||
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詳しくは、次の項目で |
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<1985~1986年>単独開発した原作の『MSXバレーボールゲーム』
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1985~86年に、私が単独で開発して任天堂バレーボールの原作になったゲーム | |||||||
この項は、 (A)-② 『私の『MSXバレーボール(アタックフォー)』が、 任天堂バレーボールの直接の移植元の原作であること。 そして私が、移植指導監修者であること』 の証明 | |||||||
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フリーランスのゲーム開発者となり、 4作品をパックスソフトニカで委託発売し、 お金の余裕も多少でき、経験も積んだ。 よし、準備は整った! 念願のバレーボールゲームを創るぞ! | |||||||
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任天堂バレーボールに移植される (私と宮本さんの共同ディレクター) ↓ | |||||||
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けれど、私の存在は、 『小切手事件』で消されてしまう…。 ふぅ~、お金が人を狂わせた…。 |
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<1987~1988年>任天堂アイスホッケー
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1987年開発、1988年1月発売『任天堂アイスホッケー』 | |||||||||||||
この項は、 (A)-③ 『私とパックスソフトニカの親密な協力関係』 の証明 | |||||||||||||
私の『MSXアタックフォー』の”腰振り”が 任天堂・宮本さんのお気に入りでした。 アイスホッケーの選手キャラ動作の原型です! | |||||||||||||
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<1971年~>私の熱いバレーボール愛
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1971年~バレーボールゲームを創りたい男の歴史 | |||||||||
この項は、 (A)-① 『原作 <MSXバレーボール(アタックフォー)> の開発の経緯』の解説 | |||||||||
中学時代の部活と ミュンヘンオリンピックの金メダル | |||||||||
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<親会社>パックスエレクトロニカの収益流用
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ブラックな親会社パックスエレクトロニカ | |||||||||||||
この項は、 (B)-④ 親会社『パックスエレクトロニカ』の闇 の解説 | |||||||||||||
パックスエレクトロニカ(立本氏) が 子会社・パックスソフトニカ の 収益を奪い続けて、不正に流用しており 橋下氏が困窮していたことが、 『小切手事件』を起こす要因 | |||||||||||||
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<1988年>『小切手事件』(現在は一部抜粋のみ)
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嘘と裏切りパックススフトニカの『小切手事件』任天堂さんのコンプライアンスを揺るがす行為? | |||||
この項は、 (B)-④ 親会社『パックスエレクトロニカ』の闇 の解説 | |||||
任天堂バレーボールの収益を 勝手に流用して私に払えなくなった パックスソフニカは、それを)…。 | |||||
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<1988年>『小切手事件』のあと
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『小切手事件』のあと続くブラックな出来事とゲーム界への不信と心の不調 | ||||||||||||||
この項は、 (B)-④ 親会社『パックスエレクトロニカ』の闇 の解説 | ||||||||||||||
「契約書はあるのか?ないだろ」 パックス側が契約書を作らないでおいて、 ふ~む…むちゃくちゃな理屈である。 さて、そのあと、私はどうなる? もちろん、私は悔しくて情けなくて、 体調不良で吐きながらも、対抗策を考えた。 権利も名誉も報酬も奪われたのだから。 | ||||||||||||||
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<ファミコン移植>ファミコン移植版で素晴らしくなった部分
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橋下氏の技術でゲーム性が増したところ | |||||
この項は、 (A)-③ 『私とパックスソフトニカの親密な協力関係』 の証明 | |||||
私は、橋下氏と仲良く開発をしたので、 ファミコンのスペックによるものだけでなく 彼の技術により、ファミコン移植版が より面白くなったことも知っています。 | |||||
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