1986年のバレーボール<任天堂バレーボールの本当の話>

<任天堂バレーボール・物語風あらすじ>

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これは、販売終了した同人誌

『バレーボールゲームをめぐる本当の物語』

のプロローグを修正加筆したものです。

Retasu's House れたすはうす
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【ゲーム黎明期 王国物語風略記】

偉大な漢帝国ならぬ弱小ゲーム開発会社『パックスソフトニカ国(以下ソフトニカ国)』は、国家存亡の危機に瀕していた。
数少ない国民は真面目に働いていたが、宗主国『パックスエレクトロニカ国(以下エレクトロニカ国)』が自国の赤字補填のため、立場の弱いソフトニカ国の金を取り上げていた。

ソフトニカ国の国庫は空となり、新たな領地を得るための戦いさえできなかった。戦うための『武器』がないのである。が、わずかな希望はあった。
この少し前にファミコンゲームへの移植開発を請け負ったことで、ソフトニカ国には戦うための『知識』はあったのだ。もし彼らにその『知識』を生かせる具体的な『武器』さえあれば、この窮地もなんとか凌げるかもしれなかったのである。
彼らは祈った。
「天帝よ。我らに『武器』を与えたまえ!」

そのころ、フリーランス戦士である私は、そんなことはつゆ知らず、『MSXバレーボール(販売名アタック・フォー)』という『武器』を一人で作っていた。私は少年時代からバレーボール愛に満ちた戦士だったから、その『武器』で世界と戦いたかったのである。

そして、その私の夢は叶うことになる。
ただし、そこに…夢が叶ったはずの場所に、『創作者である私はいない』のである。

なぜか?
そんな、おかしなことが?
本家の『三国志』などは、策略と裏切りの世界だが、これもそれである。
お金と名誉欲は、人をおかしくさせるとはいえ…なぜ、こんなことが?

この『1986年のバレーボールゲーム』には、その「なぜ?」が書かれることになる。

さて、話を戻そう…。


私は、1983年ころ、ソフトニカ国の前身である『イマージュソフト国』に、デビュー作となる『PC-6001ベースボールゲーム』を郵送して採用され、傭兵(フリーランスゲーム開発者)としてのキャリアを始めた。
国名がパックスソフトニカ国となってからも友好関係を保った。
社長であった田村大公が私を戦士として育ててくれた恩人だからである。

私は、ソフトニカ国の厳しい財政窮状を知らなかったが、その長年の友誼により、私が作った『武器』である『MSXバレーボール』をソフトニカ国に持ち込んだのであった。
そして、この『武器』は、すぐさま正式採用され契約が結ばれた。

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「こ、これは、我が国を救う素晴らしい『武器』になるやもしれぬ。というか…もう他にわが国には金も『武器』はないのだし」
と田村大公は考え、その少し前にファミコン開発術を学んだばかりだった重臣の橋下公爵に相談した。
「これをファミコンに移植しようではないか。国の危機を救うには、もはやこの手しかあるまい」
しかし、橋下公爵は渋った。
「いや、それは少々気が進みませぬ」
彼も少し前まで私と同じフリーランス戦士であったから、自分が学んだファミコン開発術を他人のゲームの移植などではなく、自分のゲーム作りに使いたかったのである。田村大公も、もとはフリーランス戦士なのであるから、その気持ちはよく理解できた。

だが、ソフトニカ国は滅亡寸前なのである。なんとかしなければ…。
田村大公は事態を打開するために、私を呼んだ。
「橋下公爵は、バレーボールのことは何も知らぬし、この競技にもあなたが創ったMSXバレーボールゲームにも、まったく興味がない。
が、プログラミング技術は確かで、わが国では唯一のファミコン術会得者である。国がつぶれる前になんとかせねばならぬ。協力してくれまいか」
ところが…。私は私で、この大公の頼みに、「諾!」とは言わなかったのだ。

私の自作バレーボールゲームへの愛は強く、フリーランス戦士としての立場も誇りもある。
「私は自由な戦士!これは私が精魂込めて開発した『武器』(ゲーム)ですので、私自身でファミコン仕様のものを作り(移植し)たいのです」
田村大公は困り果てた。橋下公爵も私も首を縦に振らないのである。
「こいつら、どんだけ自分中心主義なんだよ」
と、大公は頭を抱えた。
「まあフリーランス戦士は、こうでなきゃ生きていけないわけじゃが…」

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しかし、田村大公は気を取り直し、丹田にぐっと力を込めて、気合とともに熱く私を説諭した。
本谷殿、ことは急を要するのじゃ。我らには時間がないのだ。あなたが今からファミコン術を学びながら移植していては国が持たぬ。この国が消滅すれば貴殿にとっても都合が悪かろう」
「うっ!なるほど。そう言われてみれば、確かに…」
気迫に押された私は、私をゲーム開発戦士にしてくれた恩人であり尊敬する田村大公の言葉に深く考え込んだ。
そう。このままでは、このソフトニカ国は潰れるだろう。誰にとってもそれは困ることであり、その破滅がそこまで近づいているのである。

そのとき、私の頭上で天帝の声がした。
『皆が自分のことだけを考えていれば、すべてを失うであろう』
と。

おおっ、そうであった!
私は頓悟(とんご)した。

考えてみれば、私の作ったゲームは、(イマージュ国時代から)ソフトニカ国で販売しており、この国がつぶれれば面倒くさいことになる。著作権は全て私にあるとはいえ、あらためて売ってくれるところを探すとなると、たいへんである。
橋下公爵にしても、フリーランス戦士から、意を決してソフトニカ建国に参加したのであり、彼も国が潰れてしまえば浮浪になりかねないのだ。

そのことに気づいた、私と橋下公爵は、田村大公のもとに団結することにしたのである。そう、それしかないのだ。こんなときに、個々の都合を主張してなんになろう。

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田村大公、橋下公爵、私の三人は、ソフトニカ国を救うため、大杯の酒をすすりながら…ではなくカップコーヒーでも飲みながらだったか…、『桃園の誓い』ならぬ『バレーボールゲーム移植の誓い』を立てたのである。『力を合わせてバレーボールゲームをファミコンに移植し、ソフトニカ国を救おう。そして成功の暁には、富貴は共に!』、と。

我らが目指すは漢帝国の復興に匹敵する難事、ソフトニカ国の滅亡回避であった。そして、滅亡を逃れることができれば、ソフトニカ国は興隆し、原作者の私は自分の王国を持てるかもしれない。
おおおおおっ!
やる気が出てきたぞぉ!

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そして、ソフトニカ国は、私の原作『MSXバレーボール』をファミコンに移植するプロジェクトを始動した。
原作者でバレーボール術会得者の私がゲーム性の指導と全体監修、現場(プログラム)は橋下公爵、田村大公は各国への遊説(営業)担当である。
とはいえ、ファミコン版への移植完了までには、かなりの時間がかかる。国はそれまで潰れないのか?

そして、もっと重大な問題があった。移植版が完成しても、それを自社発売する資力がその時のソフトニカ国にはなかったのだ。お金がないので、ソフトを作ってもハード(カセット)を作れず、商品として売ることができないのだ。

どこかの国と同盟を結んで売ってもらうしかないのであった。そのため、移植作業と並行して同盟国を探さねばならないのだが、貧しいソフトニカ国には人員がおらず各国への遊説さえままならないのであった。

そのため、田村大公は宗主国エレクトロニカ国に、遊説協力を依頼した。ソフトニカ国の金を奪い取っているエレクトロニカ国に頭を下げるのは、なんとも気が進まないがしかたない。

しかし、各国への遊説はことごとく不調に終わった。そもそもファミコン版は移植途中なのである。どんなものができるかわからない。
「できたら見せて」ということだろうが、そんな悠長なことをしていたらその前にソフトニカ国は崩壊するだろう。

もはや、万事休す!

そのとき、宗主国エレクトロニカ国に身を寄せていた遊説家・浦山氏が、その話を聞きつけた。
「なぁに、たやすいこと。あなたがたの方策は元の考えが間違っておるのです。手っ取り早く、私があそこに説いてみましょう」
「あそことは?」
「はははははははははははははははははははははは。超大国・任天堂国ですよ」
「に、にんてんどうこくぅっ!?」
「あそこはファミコン連合の盟主。あそこに行くのが最も話が早いでしょう?」
「し、しかし…」
驚く皆をしり目に、浦山氏は移植途中のファミコン版と私の原作ゲーム『MSXバレ-ボール』を携えて、遠い京に旅立ったのであった。

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はるばる京の任天堂国に乗り込んだこの無名の遊説家は、荷を解き終わるとすぐに、任天堂国に説いた。
「これがMSXのバレーボールです。このようにバレーボールの要素を実現しており、楽しく遊べます。こちちらのファミコン版は移植中で、まだ完全ではありませんが、国を挙げて移植を行っております。ゲーム性はMSX版で確立されておりますゆえ、移植版がMSX版のように動くことはイメージできるでしょう。この世界初のバレーボールゲーム、いかがでございましょうか」
まったく臆することのない遊説(営業トーク)は、超大国任天堂国のハートを射抜いたのであった。

この遊説トークは、私が浦山氏から聞いた話からの想像ではあるが、彼はこんなふうに説いたであろう。
私の手元にある、浦山氏の写った数枚の写真の雰囲気を見ても、彼が超大国任天堂国に単身乗り込んでも臆することはなかったと想像できるのである。

そして先見の明にあふれる任天堂国は、浦山氏の遊説に酔わされたわけではなく、冷静に判断し、私のバレーボールゲームを任天堂ブランドとして発売することを決めたのであった。

天の霹靂!
パックスソフトニカ国は救われた!
天帝よ、感謝いたします!

ソフトニカ国は、『超武器・任天堂バレーボール』により滅亡を逃れ、その後はその縁により任天堂国の傘下に入り、短期間であったが栄華を誇るまでになるのである。
短期間の?
そう、一時的な栄華…。それは後述いたします。

ファミコン版バレーボールゲームが、『ソフトニカ国ブランドで売れたらいいなぁ』くらいの望みだったのに、『超大国任天堂国ブランド』になってしまい、移植版の『任天堂バレーボール』は、世界で400万本くらい売れることになる。

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任天堂国ブランドでのゲーム販売とその傘下に入ることが、ゲーム開発者として、いかに恵まれていたかを私は経験した。同時に、そのソフトニカ国の中で、お金のからんだ様々な人間模様を見た。
私は、その数年間の出来事をこの国の中で実際に見聞した少数の人間の一人である。それも『部長』として、この国の中心点近くに立ってである。

ソフトニカ国の得た多額のお金はその中枢にいた、一部の人間を酔わせ狂わせた
私がもらうべきお金は、パックスエレクトロニカ国(なのかパックスソフトニカ国なのか)に入ったが、勝手に流用されてしまったのである。

私が当時直に聞いて知っているお金の使い道の一つが、『六本木のお店』への投資である。
これは私、立本氏に何度も直に聞いた。
私が最近(2025年)Xで知り合った『元パックスソフトニカの元社員』さんがいたころ(2000年代?)にも、
「その店には自由に行っていいぞ」
と言われていたそうである。

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それらのお金の勝手な、ソフトニカ国と関係ないところへの流用をなぁなぁにするために、パックス(ソフトニカ&エレクトロニカ)国は、私から任天堂バレーボールの権利を奪い、私を追放することにしたのであった。

『桃園の誓い(バレーボールゲーム移植の誓い)』で一致団結したはずの3人の勇士は、宗主国エレクトロニカ国からやってきた立本国王兼宰相により分断され翻弄されてしまい、あの美しい『桃園の誓い』は、足蹴にされ地面で踏みつぶされてしまうのである。

その全ての始まりが、私が作った『MSXバレーボールゲーム』だったのである。

そんなこと、みなさん知らないでしょ?
なぜなら、パックスソフトニカでそのお金を使った人たちは、そのことを決して表だって話せないからである。

なにしろ、私との間に、正式な契約書もない(くれなかった)のである。
契約書がないのに、なぜ、パックスソフトニカは、任天堂バレーボールに関する権利やお金を独占できるわけなのだろう?
任天堂さんに、パックスソフトニカは、私のことについて、どういう説明をしたのか?

そもそも、
なぜ、任天堂バレーボールのゲーム画面に、移植プログラムを担当した人の名前だけがあるのか?

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私の原作ゲームをもとに、私がバレーボールのこと、ゲームの要点や構造を教えたから、移植ができたのにである。
私はこの問題を、今後追求していくつもりである。
『いったい、任天堂さんに私の権利問題を、どう説明しているのか?
ということである。

移植プログラムを担当した橋下氏は、本も出し、ファミ通でロングインタビューもされている。
そこで、私のことに触れているのは数行である。

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なぜ、彼は、私のことをちゃんと話せないのか?
それが世に知られると都合が悪いからであろう。

実は、『バレーボールゲームをめぐる本当の物語』を読んだ橋下氏から、私宛のメールをいただいている。
その中で彼は、
「今後は本谷さんのことを(橋下氏自身が)発信し世の中に話します」
と書いてくれていた。
だから、私は、それを期待している。

ただ不思議なのは、私が質問しているわけでもないのに、
「私(橋下氏)は、権利のこともお金のことも何も知りません」
と書いてきたことである。

それは、あるまい。
それとも、当時パックスソフトニカ(エレクトロニカ)の実権を握っていた立本氏が、全て勝手にやったこと
だということだから、そちら(立本氏)に聞いてくれ、ということだろうか。

38年間、私はパックスソフトニカのことを何も知らなかったが、最近、私が声をあげたことで、直接間接、いろいろな情報をもらっているし、それを公開してよいという許可もいただいている。
それは、私の後にパックスソフトニカに入社したり、パックスソフトニカ、あるいはソフトニカと仕事をした方々から、その後の『こんなことがありました』というものである。

それらを含めて、この物語は、第一当事者である、私しか語ることができないので、私が語らねば闇に葬られてしまであろう。
なぜ、私しか語ることができず、なぜ、私はそれを今まで公に書かなかったのか?

その理由も含めて、ここから、任天堂バレーボールゲームの誕生をめぐる本当の物語『1986年のバレーボールゲーム』を、約40年の時を超えて、唯一語ることができる私が書きましょう。

(2025/8/20 加筆および一部の内容修正)

Retasu's House れたすはうす
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【注1】
このプロローグは、私の同人誌『バレーボールゲームをめぐる本当の物語』(販売終了)に少し加筆修正したプロローグです。
その同人誌を読まれていない方に、このプロローグで、これから書かれる『1986年のバレーボールゲーム』の概要をお知らせした次第です。

【注2】
ここにこれから書かれる『1986年のバレーボール』、そしてすでに販売された『バレーボールゲームをめぐる本当の物語』の内容については、何十年も前のことであり、一部に私の記憶違いがあるかもしれません。そのときは、どなたでも、どうかご指摘ください。
私はそのご指摘を公開しますし、一緒に正解を探しましょう。
YouTubeライブ配信など、公開の場での『お話』も大歓迎します。

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2025年08月20日

<1988年>2つの結婚式

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この項は、

(A)-③ 

『私とパックスソフトニカの親密な協力関係』

の証明

私の結婚式に
【 集合してくれたパックスソフトニカの仲間 】
(1988年11月20日)

私はパックスソフトニカ(以下PS)で知り合った女性と結婚した。

私が、PSによる『小切手事件』で騙されて脅されて、PSを去って半年以上もたっていたが、PSに在籍している仲間たちは、飯田橋の教会での私たちの結婚式(手作り披露宴パーティー)に来てくれたのだ。
私を騙して脅していた、T氏とH氏は、もちろん招待しなかった。

私は社員ではなく、フリーランスだったが名目的には部長にもなり、写真の彼らは一緒に仕事をした『仲間(同僚)』である。
彼らが来てくれたことは、私のPSからの離脱の経緯を考えると、ほんとうに嬉しかった。

そのときの写真の一部が、これである。

(※顔部分にボカシを入れてある)
(※師匠の田村氏は、披露宴から参加)

教会で式を挙げたのは、(私は信仰はなく信徒でもないが)、私がキリスト教に近い人間だったからである。
『近い』というのは、私は中学生の頃に、外国の人と英語をしゃべりたくて、学校前にあったルーテル教会に出入りするようになり、それで賛美歌を歌ったり、聖書を読むようになり、後に大学ではキリスト教学科で学んだからである。

私はずっとフリーランスだったが、PSで委託販売した『MSXバレーボールゲーム』をファミコンに移植する際の監修指導のため、PSに通うことになり、後に妻となる女性と仲良くなったのだ。

妻は、PSの親会社で秋葉原にあったパックスエレクトロニカ(PE)の社員であったが、PSに転籍した。
つまり、PE、PSの両社のことを知っている人物である。
(当時のことを思い出すとき、彼女の記憶がとても役に立った)
私が知らない見聞も覚えていたり、私が家庭内で彼女と何度も話していたことで、当時の記憶がかなり温存されていたのだ。

私はPSの社員ではなく、完全独立フリーランスであったので、PSと対等で自由な立場だった。
ファミコン移植のバレーボールゲームが思わぬことに任天堂ブランドとなり、スポーツとしてのバレーボール経験者として、またバレーボールゲームの構造確立をした技術者として移植の監修をした。
任天堂ブランドになったのちは、宮本氏と市北開発の共同ディレクターとなった。

移植完了~発売された後も、PSを救ったバレーボールの原作権利者として任天堂さんといろいろ調整することもあり、何作かのゲーム開発も手伝うため、PSに居残っていた。
私は社員ではなかったが、そういう時間を過ごすことで、私は社員のみんなと懇意になっていたのである。


1988年の春頃、PSに完全に裏切られて(『小切手事件』)、騙されて脅されることで嫌気がさし、精神的な打撃で体調も悪くなり、PSを去ったという、私にとって人生最悪の時期であったが、結婚式に多くの仲間が来てくれたことが救いだった。

そのため、この『1986年のバレーボールゲーム』の最初に、このことを書きたかったのである。
良い仲間、優れた技術者が、PSにはいたのだ。

だが、お金に目がくらんだT氏と、最初はT氏に反発していたがT氏に優遇されたH氏は、もともと社内で孤立していたためT氏にくっついてしまい、私との関係悪化だけでなく、他のメンバーとの間にも溝ができていた。
私が部長として、T氏やH氏の二人と、他の仲間をつないでいた部分もあった。
社員ではないが、私は古参なのである。

ちなみに、この結婚式。
私はPSからもらえるはずのお金をもらえなかったため、『任天堂バレーボール』の権利者で原作者で移植ディレクターでありながら…お金持ちになっているはずなのに…お金がなく、一部母親に借金して式を挙げた。

そんな異様な状況だったのである。

よって経費節約のため、披露宴は教会近くのレストランを借り、料理以外は全て手作りであった。

私はこの日、教会での予行練習、レストランとの打ち合わせのため、自分の式なのに、駆けずり回って大汗をかいていた。
写真とビデオ撮影は、高校の同窓Mとその会社の社員さんがやってくれた。
高校時代は、『ディープパープル』のリッチー・ブラックモアよろしく、ギターを鳴らしていたM君である。

披露宴の司会は、私の親友、F君。
この男、のちに、オルケスタ・デ・ラ・ルスのマネージャーとして世界を巡る…。
彼とは、中学時代のバレーボール部が一緒。
そのあとはバンドを組み、高校時代に『ポプコン広島県大会』に2年連続出場した。
ちなみに、最初に出た年のヤマハ世界音楽祭優勝者が、中島みゆきさんである。

個人的な結婚式のことを最初に書いた理由は、もう一つある。
『SPにいたため私の妻も、PSのハラスメント被害者』だったからである。
彼女も、PSによって、とんでもない目に遭うのだが、その話はあとで…。


【米塚さんの結婚式に出席した”部長”の私】
私はフリーランスだったが、任天堂バレーボールの原作者で移植ディレクターであったので、PSの倒産の危機を救ったことと、任天堂さんと私の交流もあり、PSの部長となっていた。

そのため、会社を代表して同僚の米塚さんの結婚式に招待されたのだった。
私の結婚式より、数年前である。

あちこちで何度も、「私はPSの部長だった」とわざわざ書いているのは、別に自慢したいからではない。
私は、ゲーム界を去った後は、データベースで業務システムを開発していたが、それもフリーランスが基本で、会社というものに社員として勤務した経験がほぼないので、会社の肩書には何の関心もない。

それなのに、しつこく書くのは、
『私がPSで何年も、人間関係を築きながら仕事をしていた』こと、 そのため当然ながら、
『私とH氏は何年間もPSで一緒であり、私が創作したバレーボールゲームの要点をH氏に詳しく教えて移植ができた』
ことを証明するためである。


さて、米塚さんの結婚式に話を戻そう。

米塚さんは中島氏と同期のプログラマーで、入社数年であった。
普通ならば、こういう結婚式には、PSの役職者のT氏かH氏が行くべきだが、私が米塚さんにより指名された

米塚さんは、『ファミコン版オホーツクに消ゆ』や『任天堂アイスホッケー』を、天才プログラマー(と私は思っている)中島氏とともに開発した仲間だからでもあるし、彼女が、T氏、H氏とは疎遠だったということもあろう。
(直に関係ないことなので詳細は書かないが、T氏は根は良い人なのだが、新入社員の結婚式で失言し、その社員は激怒して辞職した、という逸話もあったため、私が指名された面もある)

私は、学生時代に北海道の牧場で泊まり込みで、一ヶ月間アルバイトをし、知床羅臼岳に登り、オホーツク海を見た体験があり(…その経験で?後に『オホーツクに消ゆ』のデジタイズをすることになる)、そのとき北海道に渡るため青函連絡船に乗ったのだが、それ以来の青森県訪問であった。

私の長所でもあり短所でもあるが、私は、『人見知りがなく、物おじがなく、楽天お調子者タイプ』なのである。
写真のような感じで、米塚さんのご親族に、お酒を注がれ、ステージでは下手な歌まで熱唱した。

PS時代の、良き思い出の一つである。
『小切手事件』さえなければ、PSは本当に楽しい会社だったんだけどなぁ



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2025年09月03日

<1987年1月>ラスベガスのCES視察旅行

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1987年1月 Consumer Electronics Show

この項は、
(A)-③ 『私とパックスソフトニカの親密な協力関係』
の証明
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任天堂バレーボールの成功を祝し、
ラスベガスのCESを視察
1987年1月、アメリカの『Consumer Electronics Show』に行く。
前年1986年7月21日に、任天堂バレーボールが発売され、パックソフトニカには、お金がバンバン入ってたが、飛行機は格安便だった。ゲーム開発とは無関係なことに、お金が使われていたのだ。(~_~;)…この写真は、”それ”がわかるのだが…。
まだ、私とパックスソフトニカが協力できていたころ。楽しそうでしょ
埋もれた歴史…。私がこうして書いたり写真を出したりしなければ、私の存在は『なかったこと』にされたままだった…。 う~ん、ひどい話でしょ?
※何度かの引っ越しで散逸しましたが、かなりの写真が残ってます。スマホがない時代なので写真が残ってただけ幸運でした。

Retasu's House れたすはうす
Retasu's House れたすはうす
グランドキャニオンにて
左から、橋下氏、私(本谷)
W氏(立本氏の知人…仲良くなりました。六本木のお店経営
そして、立本氏

私と橋下氏は隣合って写真におさまっている
私は彼と仲良くしていたのだが、
彼はなぜ、私を裏切ったのかなあ…。

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バレーボールゲームの創作者、移植ディレクターとして
「オレはビッグになれた!」
と、はしゃぐ、私!
このあと、
裏切られとんでもない目に遭うのだが…。
(おそらく、橋下氏撮影)

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左から、私(本谷)、立本氏、W氏(立本氏の知人
(橋下氏撮影

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左から、立本氏、橋下氏、W氏(立本氏の知人
<私(本谷)撮影>

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私と立本氏
彼の味方になれば、本当に面倒見の良い人でした。
実は私、立本氏は個人的には好きでした。
でも、お金が絡み、私が正当な自己主張すると…。

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CES会場の外で、私と立本氏(私の陰)と
現地で会った案内の方
私の右腰につけているのは、
特別な『招待バッジ』のようだ


グレゴリーさん、ありがとう!

帰国の飛行機まで数時間しかないのに、私はロサンゼルスのダウンタウンで、一人、迷子!!!
グレゴリーさんのタクシーで、なんとかギリギリに、ロス空港に着いた!
無事帰国できた!ので、この後『任天堂アイスホッケー』の開発が始まりました。
私は宮本さんの補ディレクターでした。
 (この話は、別項で詳しく)



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2025年09月17日

<1987年9月>パックスソフトニカ社員旅行

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1987年9月 箱根湯本・社員旅行

この項は、
(A)-③ 
『私とパックスソフトニカの親密な協力関係』
の証明
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前列から
中島氏(オホーツクに消ゆ、任天堂アイスホッケーで組んだ天才PG)
星野氏、私(本谷)、高橋氏、坪井氏、
浦山氏(任天堂へ営業に行った殊勲者)

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左から
中島氏、坪井氏、私(本谷)


楽しかったねぇ (^o^)
1987年9月4日~5日、小田急ロマンスカーで、箱根湯本に社員旅行に行く。
私はフリーランスだったが、パックスソフトニカとは長く懇意で、『部長』の肩書きだったので、参加。
立本氏、橋下氏は、社内で別グループだったので不参加。田村氏は、所要で不参加。
(※写真は、特に問題はないと思うのだが、いちおう、私以外は顔をぼかしたものを使用した)

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部屋で宴会
左から、米塚氏、坪井氏
私は米塚氏の結婚式に会社代表で行った間柄。
坪井氏とは、のちに結婚しました。

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左から、高橋氏(グラフィック担当)、米塚氏(PG担当)
そして、坪井氏

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左から、坪井氏、高橋氏、星野氏、中島氏

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私と星野氏
星野氏は、新戦力のPG

私、酔ってますね。楽しそう。

この後、『任天堂アイスホッケー』発売

悪夢の『小切手事件』が待っているとは…。



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2025年09月18日

<1983~1984年>単独開発したゲーム

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1983~84年まで、私が単独で開発して

パックスソフトニカから委託発売したゲーム

この項は、
(A)-③ 
『私とパックスソフトニカの親密な協力関係』
の証明

40年ほども前の初期のゲームで、
恥ずかしい部分もあるけれど、
フリーランスとして単独開発し、
パックスソフトニカで委託販売した作品。

これらの経験が、後の
バレーボールゲーム開発の基礎となりました。
Retasu's House れたすはうす
発売 パックスソフトニカから発売した
単独開発ゲーム作品(1983~86年)
1983
ベースボールゲーム <PC-6001(mkⅡ)>
1984
ベースボールゲーム <MSX>
1984
それいけ くるくる<PC-6001(mkⅡ)
1984
それいけ トンカチくん<PC-6001(mkⅡ)>

ベースボールゲーム <PC-6001mkⅡ>
1983年発売の、私のデビュー作。水平視点という『斬新?』(~_~;) な画面構成!
当時は、販売ゲームが少ないということもあり、そこそこ売れ(月刊誌調べの売上1位も記録)、私はゲーム開発者になれました。
まだ会社がパックスソフトニカになっておらず、前身の『イマージュソフ』時代に、師匠となる田村氏に郵送して採用されました。
『TOKI HOTAKA』という開発者名は、この後のパックスソフトニカ発売の数作品にも使っています。
【外部リンクで紹介された記事】はここから読めます。
ピコピコ少年とAI氏
【Grok】ゲーム史に遺さなければならない案件

Retasu's House れたすはうす
Retasu's House れたすはうす すべて横向き水平視点という”斬新な”スタイル!

Retasu's House れたすはうす
Retasu's House れたすはうす 月刊誌調べで、1位を獲得!
一年くらい、ベスト10に入ってました。


Retasu's House れたすはうす パッケージは、おそらく『中畑清』選手がモデル?


ベースボールゲーム <MSX>
1984年に、PC-6001のベースボールゲームを、MSXに移植して発売。
これで、PC-6001シリーズと、MSXでの開発を経験し、念願のバレーボールゲームの開発を両機で試験開発を始める準備ができた。
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それいけ くるくる <PC-6001mkⅡ>
これも発売は、1984年。ゲームの作り方がわかり、面白くて、どんどん開発してたようです。
実質2作目は、このパズル的アクションゲームです。GIFアニメがありました。
ここでも、『T.HOTAKA』のゲーム開発者名を使ってますね。 夏山登山をしていた頃なので。
『PCマガジン』に記事を載せていただいてます。
Retasu's House れたすはうす
Retasu's House れたすはうす カラフルですねぇ…(^o^)

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それいけ トンカチくん <PC-6001mkⅡ>
これも、1984年? どんどん作ったものだ…と自分でも感心します。
おそらく、ゲームに必要な『汎用ルーチン(プログラム』)が多くストックされて、開発が容易になったんでしょう。
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Retasu's House れたすはうす 中は見れませんが、記事を書いていただいてます。


準備は整った!
そろそろ念願のバレーボールゲーを創るぞ!
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そして、時間をかけて創ったのが 
『任天堂バレーボール』の直接の原作となる
『MSXバレーボールゲーム』
【販売名【アタックフォー】)
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詳しくは、次の項目で




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1986年のVBG<問題提起>
1986年のVBG<創作者と移植者>
1986年のVBG<連載index>
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2025年09月21日

<1985~1986年>単独開発した原作の『MSXバレーボールゲーム』

1986年のVBG<問題提起>
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1986年のVBG<連載index>
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1985~86年に、私が単独で開発して

任天堂バレーボールの原作になったゲーム

この項は、
(A)-② 
『私の『MSXバレーボール(アタックフォー)』が、
任天堂バレーボールの直接の移植元の原作であること。
そして私が、移植指導監修者であること』
の証明

発売 パックスソフトニカから委託販売した
単独開発ゲーム作品(1985~86年)
1986
アタックフォ-(バレーボール<MSX>


フリーランスのゲーム開発者となり、
4作品をパックスソフトニカで委託発売し、
お金の余裕も多少でき、経験も積んだ。
よし、準備は整った!
念願のバレーボールゲーを創るぞ!
Retasu's House れたすはうす
アタックフォー <MSX
自分で言うのもなんだけど、世界初のちゃんと遊べるバレーボールゲーム
そう、『任天堂バレーボール』の原作
そして、それが、パックスソフトニカの倒産危機を救うことになる。
もちろん、フリーランスである 私が1人で、こつこつ開発した。
少年時代から、バレーボールをしてた、バレーボール大好き人間の私が、どうしても創りたかったゲーム!
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Retasu's House れたすはうす
(パッケージ)

【当時時の雑誌広告】
パックスソフトニカは、
たくさん広告を出してくれた。
「これをファミコンに移植して起死回生だ!」
という意気込みが、これでよくわかります。
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【2024年の中古情報の一つ】
中古市場で、高値!?
Retasu's House れたすはうす
そして、このゲームが
任天堂バレーボールに移植される

(私と宮本さんの共同ディレクター)


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けれど、私の存在は、
『小切手事件』消されてしまう…。
ふぅ~、お金が人を狂わせた…。



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2025年09月22日

<1987~1988年>任天堂アイスホッケー

1986年のVBG<問題提起>
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1987年開発、1988年1月発売

『任天堂アイスホッケー』

この項は、
(A)-③ 
『私とパックスソフトニカの親密な協力関係』
の証明

私の『MSXアタックフォー』の”腰振り”が
任天堂・宮本さんのお気に入りでした。
アイスホッケーの選手キャラ動作の原型です!
任天堂アイスホッケー <ディスクシステム>
・1987年に開発を開始して、1988年1月に発売です。
・パックスソフトニカが、任天堂バレーボールの成功で、任天堂さんの開発部隊(扱い)になったことで、パックスソフトニカの『中島~本谷グループ』が開発を任されました。
・プログラムは、『ファミコン版オホーツクに消ゆ』も担当した、私の尊敬する超絶プログラマー、中島氏 (下の写真 ↓)
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私は、バレーボールゲームのご縁で、宮本さんの補ディレクターをさせていただきました。
・パックスソフトニカにとって重要なゲームのはずだけど、なぜか語られていないのが、不思議です。
MYエッセイは、ここ
・ゲーム動画は、ここをクリック ↓ 
【こんなゲーム】
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任天堂アイスホッケーのキャラクター秘話
「本谷さん。アイスホッケーのキャラクターで、”あれ”をやるよ!」と、宮本さん。
『あれ』とは、任天堂バレーボールの原作『MSXアタックフォー』の選手キャラの『腰振り』動作です。
当時はメールもなかった?と思うので、ドット絵が情報開発室から、FAXで送られてきたのか、郵送だったのか…。カラーで方眼紙にドットが書いてあったと記憶しているから、郵送?手渡し?
ともかく、ドット絵をデータ化し、ファミコンで動かしたときは、「おおっ!」と感激しました。「腰振りだ!」(^o^)/
別段、秘話でもないのだけれど、私か中島氏しか語れないことなので、これまで知られずに…。
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【当時描いた『れたす』キャラのアイスホッケー】
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この絵を息抜きに、宮本さんにFAXで送ってました。(^o^)



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2025年09月23日

<1971年~>私の熱いバレーボール愛

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1971年~

バレーボールゲームを創りたい男の歴史

この項は、
(A)-① 
『原作 <MSXバレーボール(アタックフォー)>
の開発の経緯』の解説
中学時代の部活と
ミュンヘンオリンピックの金メダル
中学校でバtレーボールに出会い夢中に
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【地元の実業団チーム『帝人三原』】
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かつて三原市には『実業団バレーボールチーム・帝人三原』があった。

…プロジェクトXみたいな出だし…。

広島県は昔、バレーボール県で、『専売広島』(JT)は日本リーグの強豪で、ミュンヘンオリンピック金メダリストの猫田選手が所属していました。
帝人三原は『実業団リーグ(2部リーグ)」だったのですが、街に本格的なバレーボールチームがあったため、私も試合を観戦して、すごい刺激を受けていました。

私は、中学校(三原三中)でバレーボールに熱中し、学校を風邪で休んでも、放課後の部活には必ず出る!という真面目さだったのです。(^o^)/

授業を休んだ日の夕方に、私が野外のバレーボールコートでボールをひっぱたいていると、先生が、
「あっ、おまえ何しょ~るんじゃ!病気じゃなぁんか!」
と、私を心配するあまり、強めに怒鳴ってくださるのです。(^o^)
「もう治ったんよ!」
と、私は平然と、回復の早さとバレーボール愛を表明しておりました。

そんな私、帝人三原の練習に参加(見学に行ったら、ちょっとやらせてもらえた)したことがあります。
中学生が大人の高さのネットでプレーするのは、ゲゲゲっ!でしたが、楽しかったです。
球拾いは…。

1972年に、ミュンヘンオリンピックで日本男子が金メダルを獲ったこともあり、私も、
「オリンピックに行くんじゃ!」
と妄想していた頃です。

そういえば、我が三原三中。
私が三年生の時に、真夏の野外の鷺島での予選で2位になり、初めて県大会に行きました。
別に私が活躍したわけではないですけど。

県大会は三次市でありました。
初めて、体育館で試合しました。
だいじな県大会で、初めて体育館で試合…。

…この中学バレー部の話、面白いのですが、長くなるので割愛します。
残念です。

私は、この10年後にゲーム開発者になり、MSXでバレーボールゲームを作り、それが移植された、『任天堂バレーボール』のディレクターを、あの宮本さんと共同でしました。
世界で400万本売れた『任天堂バレーボール』の原作者でディレクターですから、ぶち大金持ちになる!はずが…。(~_~;)

今年(2025)になって、あるきっかけで、『任天堂バレーボール』開発の内実を本に書いたり、情報発信し始めました。
当時の黒い記憶を『バレーボールゲームをめぐる本当の物語』で、ある程度吐き出したことで、バレーボール中継なども、やっと楽しく観れるようになりました。

私の一つの『原点』が、三原市のバレーボール環境だったのです。

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1972年ミュンヘンオリンピック
日本男子バレーボールが、金メダル!
私のバレーボール熱が、バクハツ!
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ミュンヘンオリンピックで、男子チームが金メダルを獲得するまでの感動的な話は、あまりに有名なので、ここでは書きません。

あの日、私は深夜にテレビで応援していました。

私は高校までの6年間、楽器が欲しくて新聞配達をしていたので、朝5時に起き、夕方は部活をし、深夜はテレビという過酷な?スケジュールでしたが、まあ元気な盛りでしたので、睡眠時間が短くとも平気でした。

書かないと書いておきながら、少しだけ書きますと、準決勝のブルガリア戦が『奇跡の大逆転』だったのです。
私は、あの時のブルガリアのエース『ズラタノフ選手』の鬼のような活躍を忘れることができません。

私はバレーボール部だったわけですから、自主練用の自分のボールも持っていました。
金メダル獲得の夜…もう朝方?…私はそのボールに、【僕もオリンピックに行く!】と、黒々とマジックペンで書きました。

オリンピックの金メダルは獲れませんでしたが、世界中で大ヒットした『任天堂バレーボール』の原作者となり、バレーボールをきちんと構造としてプログラムする方法を確立しました。
そして、ファミコンに移植されたバレーボールゲームのディレクターをしました。
レジェンドの宮本さんとも仕事ができたのです。

ありきたりな言い方ですが、それって【金メダル級】では?

その名誉も、私が知らないところで、2025年までの38年間、今もなぜか、移植プログラマーが名乗っています。
ビックリを通り越して、暗澹たる気持ちになりました。

とんでもない嘘ですが、大きな嘘ほど平気でつくと、そんなことができるとは普通の感覚の人は思わないので、信じられてしまうのです

そのお話は、別の項で詳しくお話ししましょう。

Retasu's House れたすはうすTBS系列で放送されてた
【(アニメドキュメント)ミュンヘンへの道】
1972年4月23日から8月20日、および特別編として同年9月24日に(TBS)で放送されたドキュメンタリーとアニメーションを一体化させた番組。

バレーボール日本代表が、ミュンヘンオリンピック(1972年8月開幕)へ向けて取り組む様を、チーム全体、あるいは選手個々のエピソードを交えて取り上げたもので、エピソード部分はアニメーション、また練習の模様などは実写映像を使って放送された。
(以上 Wikipedia より)

私、毎週欠かさず、観てました。
いまでも覚えているのは、エーススパイカー(OH)の王古選手のエピソード。
記憶違いもあるかもしれませんが、こんな話です。

松平監督は、大きな選手たちに、さまざまな運動能力を求め、その一つとして『倒立してコートを一周する』という課題を与えました。
できなければレギュラー降格です。
日本チームのエースとして、素晴らしい運動能力を持っていた王古選手でしたが、この課題がなかなか克服できず苦労する、というものでした。

結局は、努力の末、王古選手は、その課題をやり遂げるのですが、私はそれを見ていて、
「逆立ちなんかできなくてもいいじゃないか。バンバン、スパイクを決めてくれてるんだから」
と、少々不審を抱いていました。

もちろん、ご存じのように、バレーボールには攻撃守備を含めて、いろいろなボディワークが必要なのです。
自分の身体を倒立で支え、コントロールすることも役に立つとは思いました。
でも、倒立してコートを一周回れないならレギュラー陥落って…。

その他、独自に考案された練習方法も面白いものが多く、雲の上の日本代表選手たちの姿を観ることができるのも嬉しくて、毎週の放送を楽しみしていました。

この日本男子チームが、体格で勝る外国チームに勝つために、みなさんご存じのように、それまでのバレーボールの攻撃を格段に進化させました。

速攻(クイック)や時間差攻撃、移動攻撃というものを創出していったのです。

それが日本チームに金メダルをもたらしたと同時に、単調だったバレーボールというスポーツを面白いものにし、世界的なファンの拡大につながったと言えます、

当然ですが、そのころは、のちのち私がゲーム開発者になるとは思っていませんでした。
なにしろ、パソコンもなく、それで動作するゲームという概念もない時代でした。

10数年後、私は、PC-6001を購入して、たまたま観たNHKのドキュメンタリー番組の刺激でゲーム開発を始め、そののち『MSXバレーボール(アタックフォー)』を創ることになります。

そのゲームがなければ、『任天堂バレーボール』は、この世に存在しません。

パックスソフトニカの不正行為によって、創作者の私は、38年間も隠蔽されていましたが、この世に、この2つのバレーボールゲームは、いまも残っています。





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2025年09月24日

<親会社>パックスエレクトロニカの収益流用

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ブラックな親会社

パックスエレクトロニカ

この項は、
(B)-④ 
親会社『パックスエレクトロニカ』の闇
の解説
パックスエレクトロニカ(立本氏) が
子会社・パックスソフトニカ の
収益を奪い続けて、不正に流用しており
橋下氏が困窮していたことが、

『小切手事件』を起こす要因
パックスソフトニカの成り立ち
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坪井氏は、この後すぐくらいに、子会社のパックスソトニカに移籍します。
そして、その数年後、私と結婚することになります。
よって、彼女は、パックスエレクトロニカとパックスソフトニカの両方を知ってます。
そのため遠い昔のことではありますが、私の元に当時の写真があり、二人ぶんの記憶が残っているわけです。

右端で、ひょうきんにポーズをとっている浦山氏は、のちに私のMSXバレーボールゲームや移植途中のファミコン版を任天堂さんに持ち込む『功労者』です。
彼はフリーランスで社員ではないのに、この写真のパックスエレクトロニカの社員旅行だけでなく、パックスソフトニカの社員旅行にも行っていることなどでおわかりのように、私とも妻(坪井氏)とも、かなりの知り合いでした。

そもそも、浦山氏が蛮勇?で、任天堂さんに営業に行かなければ、『任天堂バレーボール』は、おそらくこの世にないか、かなり違った形で世に出ていたと思います。

その浦山氏が、権利者の私がないがしろにされていることを心配してくれて、そのアドバイスが私の決起となり、『小切手事件』に発展します

『小切手事件』は、同人誌『バレーボールゲームをめぐる本当の物語』(販売終了)のクライマックスとなる場面です。この連載の中でも解説するつもりです。

立本氏は、パックスエレクトロニカの関係者(会計担当?、債権者?)であり、この後の『ファミ通インタビュー』で橋下氏が、
「親会社にお金を取られて困った」
というブラック体質の張本人と、私は考えています。
立本氏自身に、そういう流用の事実を聞かされていましたし。

私は社員ではなく、外部のフリーランスですので、このあたりは橋下氏の書いていることと、私が実際にパックスソフトニカで部長として立本氏と数年間かかわった経験からの判断です。

この写真の『原社長』さんとは私は面識があったと思いますが、よくは知らない方で、坪井氏(妻)に人柄は聞いていました。
パックスエレクトロニカのブラック体質に、彼もなんらかの関係あるのかどうかは、私にはよくわかりません。

ただ、原社長をよく知っていた浦山氏から聞いた限りでは、やはり立本氏が経営不振のパックスエレクトロニカ(後には子会社のパックスソフトニカも)を仕切っていたと思われます。
そして、それが私の『大不幸のもと』になるわけです。

立本氏という人は、彼に従って、彼の味方になれば『良い人』。
筋を通そうとして彼の敵になれば、『容赦ないところがある恐くて悪い人』でした。

そのあたりは、また『パックスソフトニカという会社』の項で書きましょう。


橋下氏の酷い裏切りの原因
パックスエレクトロニカのブラック体質
ということを、彼自身の
『ファミ通インタビュー』で確認しましょう
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この発言と同じ構造で、
『任天堂バレーボールの契約』を
私に何も知らせず、パックスエレクトロニカが
勝手に行うのですが、
橋下氏は自分の利益のことしか頭になく、
彼も、私の権利をあやふやにしてゆくわけです。

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こうして、橋下氏は私を裏切ることで、
お金を得ることになります
⇒ 『小切手事件』

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橋下氏は、コミュニケーションが苦手な人でしたので、私は立本氏と橋下氏、他の社員と橋下氏をつなぐ役割もしてました。

また、橋下氏と私は数年来の付き合いのあり、私がパックスソフトニカの危機を救うために、私の『MSXバレーボール(アタックフォー)』の移植を許諾し、一緒にファミコンへの(任天堂バレーボールとなる)移植もし、そのの成功後にはアメリカ視察旅行も楽しく共に行きました。

私は、なぜ、その橋下氏が、そういうふうに仲良くしていた私を『小切手事件』酷く自分勝手に裏切ることができたのか、長年、不思議でした。
38年後の2025年に、2020年9月の『ファミ通のインタビュー記事』を読んで、欠けていたピースがやっとはまりました。

橋下氏は、あのとき、そんなにもお金にお困っていたので、お金のために私を裏切ったのだ、と

私は当時、橋下氏に、
「お金を勝手に使っている(…当時はわからなかったが、今思うに背任や横領の可能性もあった立本氏を追い出して、我々現場の開発者のための会社にしようよ」
と何度か橋下氏に言ったのですが、ダメでした。

パックスソフトニカが、親会社のパックスエレクトロニカにお金を絞り取られていたことは、
「任天堂バレーボールのお金がパックスソフトニカに入ってこない」
橋下氏からも聞いていましたし、立本氏からも、
「本谷が原作者でディレクターをしてくれたのは知ってるけど、本谷に渡す金が無いんだ。いろいろ他のことに使ってるから、ちょっと待ってくれ」
などと直に聞いていましたが、肩書きは”部長”であって、実際は社員でも役員でもないので詳細はわかりませんでした。

橋下氏が当時そこまでお金に困っていたことは、このインタビュー記事や彼の本を読むまで知りませんでした。

「そうだったのか…。それで立本氏にお金やマンションを提供(私は拒否)されて、私を裏切ったのか…」
とわかりはしましたが、 橋下氏の本やインタビュー記事を38年後に読んだ私は、本当に暗澹たる気持ちになりました。

お金欲しさ…。
名誉欲しさ…。
倒産危機のパックスソフトニカ(橋下氏)をバレーボールゲームで救った私を嵌めるとは‥。

ふぅ~…。

余談ですが、私に契約者を渡さず追い出した後に、パックスソフトニカが得たお金をどういうふうに豪勢に使っていたかの一端(不動産、車、六本木のお店)は、私自身も見ましたし、後にパックスソフトニカの社員になった方から一部を聞いています。

Retasu's House れたすはうす
この後、橋下氏は、任天堂バレーボールの
創作者を詐称することになります。
今も詐称を続けています
もちろん、私は今後、対処するつもりです。

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なぜ、こんな事実でない『虚偽』を?

この誇大表示をしてもらうために
血眼になったらしいことを
元の社員さんが橋下氏から聞いていたそうです。
そのあたりの解明もせねばと思っています。
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2025年10月09日

<1988年>『小切手事件』(現在は一部抜粋のみ)

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嘘と裏切り

パックススフトニカの『小切手事件』

任天堂さんのコンプライアンスを揺るがす行為?

この項は、
(B)-④ 
親会社『パックスエレクトロニカ』の闇
の解説
任天堂バレーボールの収益を
勝手に流用して私に払えなくなった
パックスソフニカは、それを)…。
小切手事件
同人誌
『バレーボールゲームをめぐる本当の物語』
からの一部抜粋紹介

1600円という価格で私の本を購入された方が
多数おられるので、無料公開では、
「私は買ったのに…」
と思われるでしょう。

とはいえ、
すでにこの同人誌は販売されていません。
(販売終了の経緯は、連載の中で書きます)
もちろん、この本の内容は、
まだまだ広くお伝えしたいのです。

この同人誌の販売の半数以上は、
私がイベントで、直に手売りしました。
ですので、買われた方のお気持ちも考慮し、
HPや note での公開は、少し後にします。

ここでは、内容の一部だけ公開します
”不穏な雰囲気”は伝わるかと思います。

Retasu's House れたすはうす

【第5章】小切手事件

<一部先行公開>

(…略)

立本氏は、その私の予期せぬ反撃にやや窮した。
おそらく浦山氏にお金を渡すときに、
「本谷には言うな!」
と口止めし、あのお金には口止め料も入っていたのだろう。

けれど、浦山氏は私との友誼か、私への同情かで、その後のために私に貸しを作る目的か、で私に話してくれたに違いなかった。

立本氏は、私がそれ以上色々言って抵抗を続けるとマズいと感じ、この場の話を早く終わらせようと思ったのか、鞄の中から小冊子を取り出して、私の前にポイっと投げた。

それはテーブルの上で音をたて、少し滑って私の前で止まった。

なんだ、これ?

立本氏が、
「小切手帳だ」
と言った。

私はその小切手帳をじっと見た。

小切手帳というものを人生で初めて見たし、その後も見たことはない。
立本氏は、薄ら笑いを浮かべながら、
「まあ、お前がかわいそうだから…」
と言った

(…略)




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2025年10月11日

<1988年>『小切手事件』のあと

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『小切手事件』のあと

続くブラックな出来事と

ゲーム界への不信と心の不調

この項は、
(B)-④ 
親会社『パックスエレクトロニカ』の闇
の解説
「契約書はあるのか?ないだろ」
パックス側が契約書を作らないでおいて、
ふ~む…むちゃくちゃな理屈である。
さて、そのあと、私はどうなる?

もちろん、私は悔しくて情けなくて、
体調不良で吐きながらも、対抗策を考えた。
権利も名誉も報酬も奪われたのだから。

坪井氏の受難(とばっちり)
「今日で辞めてもらう!」
テレビで任天堂ゲームやゲーム機関連の宣伝や、バレーボール中継があると、我が家は、どんよりした空気になります。
最初に、サブストーリ的な、そのお話をしておきましょう。
坪井氏は、パックスエレクトロニカ(親会社)からパックスソフトニカ(子会社)に移籍した正社員で、私の妻です。
1988年の11月に結婚しました。
『小切手事件』で、私の権利も報酬も無視されたので、私はフリーランスで社員でもありませんし、部長ではありましたが、もうパックスソフトニカに居る理由がなくなりました。
「反撃をせねば」と考えながら、私は去りました。
さて、坪井氏ですが、私がパックスソフトニカを去っても、彼女は働き続けるつもりでした。
社員のみんなとは仲良くやっていましたし、4年も勤務していたので、彼女が辞める理由はありません。
任天堂バレーボールで儲かっていたパックスソフトニカは新入社員も募集し、海外社員旅行を計画していました。
坪井氏は、ともかく、その海外旅行を楽しみにしていました。
ある日、新しく入って仲良くなった女子社員に、
「海外旅行、楽しみだね」
と言うと、その女性社員の顔が曇り、
「坪井さんは、行けないみたいだけど…」
と。
「!!!!????」
その後、坪井氏は立本氏に呼ばれました。
「あんたは本谷と付き合ってるらしいな。本谷はオレの言うことを聞かなくて出て行ったんで、あんたはスパイになるかもしれない。任天堂さんの仕事のことなど、本谷にしゃべられては困るから、今日で辞めてもらう
と。
「今日?急にそんなこと言われても困ります。それに、私と本谷は関係ないでしょ」
「関係ある」
「私は今までこの会社で何年も頑張ってきました。海外旅行をみんなと行くのを楽しみにしてるんです。どうしてもというなら、せめて旅行の後にしてください」
立本氏は、自分についてこないものには、とても冷酷になります。
「だめだ。今日でクビだ!」
今日でクビ?
40年前とはいえ、こんなことしていいの?
坪井氏は、唇をかんで反撃をこころみました。
「…もちろん会社都合になりますよね」
「どうだろ」
「…」
その後も、嫌がらせは続き、失業保険のための書類をなかなかもらえず、何度も電話で立本氏に、
「書類をください」
と頼んで、何週間後かに、やっと送付されたそうです。(~へ~;)
Retasu's House れたすはうす
私はもうパックスソフトニカにいないので、あとで坪井氏が悔し涙を流しながら教えてくれました。
私は、あまりのばかばかしさに腹が立ち、
「俺が話をつけに行く」
と言いましたが、彼女は、
「あそこは立本さんが来てから雰囲気がおかしいし、もう辞めていい」
と諦めていました。
「そういうわけにはいかない。君は関係ないだろ」
「この後、あの人たちに何されるか、わからないから、もういいよ」
そもそも潰れかけていたパックスソフトニカが任天堂バレーボールで潤っているのは、自分で言うのもなんですし、100%とは言わないまでも、バレーボールゲームを独創して作り、パックスソフトニカに持ち込んだ私のお陰ですから、う~ん、と。
私が宮本さんとディレクターもしたのだけど、その私を裏切り、関係ない坪井氏を即日解雇…。
もはや、無茶苦茶でした
坪井氏(妻)は穏やかな性格ですが、40年近く経った今でも、この話を思い出すと、
「あんなことしていいの」
と憤っています。
このことは、私より記憶力の良い彼女は、細かなことまで…その時の立本氏の薄ら笑いとか…覚えていて、私が本を書くと決まった時に、
「このことは絶対書いて!」
と、昨日のことにように気持ちが悪くなるようです
そういうことで、我が家では、2024年末に私が、同人誌『バレーボールゲームをめぐる本当の物語』を執筆し、レトロゲームイベントに参加したり、YouTube出演などして、私の心が多少とも解放されるまで、『任天堂バレーボール』『任天堂』『バレーボール』『テレビゲーム』『パックスソフトニカ関連』は、全てタブーでした。
そのことを思い出すと、家庭が暗くなるからです。
本を書いて、トークイベントやYouTubeで、当時のことを語り、Xなどにも投稿して、世間に当時の闇を伝えることができて、私の心も少しばかりほぐれ、バレーボールの試合を積極的に観たり、ゲームの話も家でするようになりました。

ふぅ~やれやれ。
人生の中での、失われた40年ですよ~。(ー_ー)

 
私の絶望と憂鬱と体調不良
※準備中
 
 
 



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2025年10月14日

<ファミコン移植>ファミコン移植版で素晴らしくなった部分

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橋下氏の技術で

ゲーム性が増したところ

この項は、
(A)-③ 
『私とパックスソフトニカの親密な協力関係』
の証明
私は、橋下氏と仲良く開発をしたので、
ファミコンのスペックによるものだけでなく
彼の技術により、ファミコン移植版が
より面白くなったことも知っています。
ファミコン移植版での
おもしろさアップポイント
私と橋下氏は、立本氏の策略で分断される前は、普通に仲良くしていたのです。
1987年のラスベカスCES旅行などでも、そのことがわかります。
私は彼に裏切られた後も、彼の技術と功績を褒めています
ファミコン移植版の面白さは、任天堂の宮本さんの演出アイデアで、より一層グレードアップしたわけですが、移植工程のほとんどを原作監修者として共に開発した私は、バレーボールやそのゲーム構造を理解してくれたあとの、橋下氏の『腕の見せ所』には感心しました。
それをご紹介しておきましょう。
※記載準備中。しばらくお待ちください。以下を解説予定です。
①ボールの大きさと、速度
②ネットとボールの絡み合い
③画面構成や演出の進化(任天堂)




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2025年10月19日