私はパックスソフトニカ(以下PS)で知り合った女性と結婚した。
私が、PSによる『小切手事件』で騙されて脅されて、PSを去って半年以上もたっていたが、PSに在籍している仲間たちは、飯田橋の教会での私たちの結婚式(手作り披露宴パーティー)に来てくれたのだ。 私を騙して脅していた、T氏とH氏は、もちろん招待しなかった。
私は社員ではなく、フリーランスだったが名目的には部長にもなり、写真の彼らは一緒に仕事をした『仲間(同僚)』である。 彼らが来てくれたことは、私のPSからの離脱の経緯を考えると、ほんとうに嬉しかった。
そのときの写真の一部が、これである。
(※顔部分にボカシを入れてある) (※師匠の田村氏は、披露宴から参加)
教会で式を挙げたのは、(私は信仰はなく信徒でもないが)、私がキリスト教に近い人間だったからである。 『近い』というのは、私は中学生の頃に、外国の人と英語をしゃべりたくて、学校前にあったルーテル教会に出入りするようになり、それで賛美歌を歌ったり、聖書を読むようになり、後に大学ではキリスト教学科で学んだからである。
私はずっとフリーランスだったが、PSで委託販売した『MSXバレーボールゲーム』をファミコンに移植する際の監修指導のため、PSに通うことになり、後に妻となる女性と仲良くなったのだ。
妻は、PSの親会社で秋葉原にあったパックスエレクトロニカ(PE)の社員であったが、PSに転籍した。 つまり、PE、PSの両社のことを知っている人物である。
(当時のことを思い出すとき、彼女の記憶がとても役に立った)
私が知らない見聞も覚えていたり、私が家庭内で彼女と何度も話していたことで、当時の記憶がかなり温存されていたのだ。
私はPSの社員ではなく、完全独立フリーランスであったので、PSと対等で自由な立場だった。 ファミコン移植のバレーボールゲームが思わぬことに任天堂ブランドとなり、スポーツとしてのバレーボール経験者として、またバレーボールゲームの構造確立をした技術者として移植の監修をした。 任天堂ブランドになったのちは、宮本氏と市北開発の共同ディレクターとなった。
移植完了~発売された後も、PSを救ったバレーボールの原作権利者として任天堂さんといろいろ調整することもあり、何作かのゲーム開発も手伝うため、PSに居残っていた。 私は社員ではなかったが、そういう時間を過ごすことで、私は社員のみんなと懇意になっていたのである。
 1988年の春頃、PSに完全に裏切られて(『小切手事件』)、騙されて脅されることで嫌気がさし、精神的な打撃で体調も悪くなり、PSを去ったという、私にとって人生最悪の時期であったが、結婚式に多くの仲間が来てくれたことが救いだった。
そのため、この『1986年のバレーボールゲーム』の最初に、このことを書きたかったのである。 良い仲間、優れた技術者が、PSにはいたのだ。
だが、お金に目がくらんだT氏と、最初はT氏に反発していたがT氏に優遇されたH氏は、もともと社内で孤立していたためT氏にくっついてしまい、私との関係悪化だけでなく、他のメンバーとの間にも溝ができていた。
私が部長として、T氏やH氏の二人と、他の仲間をつないでいた部分もあった。 社員ではないが、私は古参なのである。
ちなみに、この結婚式。 私はPSからもらえるはずのお金をもらえなかったため、『任天堂バレーボール』の権利者で原作者で移植ディレクターでありながら…お金持ちになっているはずなのに…お金がなく、一部母親に借金して式を挙げた。
そんな異様な状況だったのである。
よって経費節約のため、披露宴は教会近くのレストランを借り、料理以外は全て手作りであった。
私はこの日、教会での予行練習、レストランとの打ち合わせのため、自分の式なのに、駆けずり回って大汗をかいていた。 写真とビデオ撮影は、高校の同窓Mとその会社の社員さんがやってくれた。 高校時代は、『ディープパープル』のリッチー・ブラックモアよろしく、ギターを鳴らしていたM君である。
披露宴の司会は、私の親友、F君。 この男、のちに、オルケスタ・デ・ラ・ルスのマネージャーとして世界を巡る…。 彼とは、中学時代のバレーボール部が一緒。 そのあとはバンドを組み、高校時代に『ポプコン広島県大会』に2年連続出場した。 ちなみに、最初に出た年のヤマハ世界音楽祭優勝者が、中島みゆきさんである。
個人的な結婚式のことを最初に書いた理由は、もう一つある。 『SPにいたため私の妻も、PSのハラスメント被害者』だったからである。
彼女も、PSによって、とんでもない目に遭うのだが、その話はあとで…。
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