レトロゲーム関連一覧

<00>【序】開発にかかわったゲームについて


 

 

作ったゲームは忘れていたが…

私は約20年間、コンピューターゲームの開発をした。

 

20くらいのゲームに、直接かかわったと思うが、詳細は忘れた。

だから、この項を構成する前に少し調べてはみた。

 

私は自分でコンピューターゲーム(パソコンやゲーム専用機のもの。以下単にゲームあるいはゲームソフトと略す)を開発し始めてから、ほとんどゲームで遊ばなくなった。

(※最近はコンピューターゲームと呼称するのか?それもわからないのだが・・・)

 

もちろん10代20代のときには、ゲームは好きだった。ゲームセンターに入りびたり、パーソナルゲーム機やPCを入手したら寝ないでプレイしたりもした。

 

が、自分でゲーム開発をするようになると「デバッグ」というものを延々とすることになる。

これは一定時間を経過すると、もはや苦痛や拷問でしかない。

そういう気分でデバッグをしているとゲーム画面を見たくなくなる。

愛着があるはずの自作(あるいは開発にかかわった)ゲームであってもだ。

 

開発の現場から離れて相当な期間が過ぎたが、今でもゲームを見ると、遊んでみようと思う前に、まず、

「どういうデータ形式なのか、どういうプログラム構造なのか、ハードスペックはどういうものか、どのくらいのチームや期間や予算で開発したのか。ターゲットは?」

などをまず考える。

 

こうなってしまうと、ゲームそのものを純粋に楽しめない。

そもそも、毎日毎時ゲームというものに接していると、ゲームというもの自体に飽きる。

 

人間とは、【飽きる】ことと【新奇なものに興奮する】狭間で生存している面があるからだ。

 

ゲーム業界を離れると、ゲームのことは一切考えないようになった。

自分で開発したり開発にかかわったりしたゲームのことも忘れて関心もなくなった。人にそういうことで具体的な話はほとんどしなかった。

 

数年前、縁があって公立高校で1年間働いた。

基本業務は校内IT整備補助と、コンピュータ関連の授業の補佐をすることだった。とても楽しかった。

 

最初の日に職員の前で自己紹介をしたのだが、略歴でつい、

「昔、ファミコンなどのゲーム開発をしていました」

と、ひとことだけ言った。

 

一人の30代後半の理科の先生が、小中学生のころ私の作ったゲームで遊んだことがあるらしく、しきりに私の話を聞きたがった。

私は概略を話しただけなのだが、彼はネットで私の関係したゲームを調べ上げた。

 

私は自分が作ったり開発に関係したゲームをほとんど持っていないし、いくつか記念品として保存してあっても、そのソフトを動作できるハードがないため、それを見ることもない。

そしてゲーム開発の資料も全く残っていない。

 

ところが、その理科の先生が調べてくれたところ、ネット上には私の関係したゲームの情報(主にゲーム画面写真やプレイの一部が動画として投稿されていたりする)がいろいろあるのだった。

 

これには、ほんとうに驚いた。

世の中には色々な熱意で私さえ忘れた私のゲーム情報をネットにアップロードする意欲を持つ人がいるのだ。

 

さて、その理科のその先生はデータベースの授業も担当していて、たまたま私はゲーム開発を辞めた後はデータベースで業務系ソフト開発を長くやっているから、彼の授業の補佐にも出ていた。

 

ある日彼が授業を少し早く切りあげて、

「では、残りの5分、○○先生(私のこと)が昔作ったゲームを見てみましょう」

と言い、生徒たちに私の作ったゲームが見れるサイトを紹介し始めた。

 

私は困惑した。

実のところ迷惑な気もしたし、ぜんぜん嬉しくもなかった。

 

その理由の第1は、そのときにはもうゲーム世界から遠く離れていたので、ゲームそのものに関心が薄くなっていた。今更…という気分である。

 

第2の理由は、ゲーム機のハード面のスペックが加速度的に進化しており、それに伴いゲーム開発規模も大きくなり、私がゲームをいわば【手作り】していた頃とはあまりにゲーム界の様子が違っているからだ。

 

昔の貧相なスペック(ハードや開発環境)の基で作った私の過去のゲームを、現在の生徒たちに見られるのが、どうにもこうにも恥ずかしかった。

だから、私は高校に勤務した1年間は、その後もほとんどゲームの話をしなかった。

 

とはいえ、一部の人々にはゲーム業界は花形みたいに思われているらしい。

私がかつてそういう業界にいたことを知ると、ゲーム業界に興味がある生徒が時々やってきて、

「どうしたら業界に入れる?」

と私に質問したりした。

 

そのときの私は、すでに業界には関心も縁もなく、的確に答えらる現代ゲーム業界に関する知識もなかったので、

「そういうことを教える専門学校に行きなさい」

というのが精いっぱいだった。

 

私のころには、学校どころか、本も資料もほぼ皆無で、そういうことについて情報を聞ける人もいなかった。

私がゲーム開発をしているころ、【ゲーム開発を教える学校】ができ始め、私も講師を打診されたことがある。

 

そういうわけで、私は自分が関係したゲームを自分の気分的には【闇に葬っていた】のだが、そのときに自分の関係したゲーム情報がネット上に多くあることを知ったため、その後は月に1、2度程度、適当に自分が関係したゲームを検索しては懐かしい気分で眺めることもあった。

 

そうしているうちに、最近ちょっと考えが変わった。

私にとって自分の作った過去のゲームは、俳優や芸人が若いころの演技やネタを紹介されるようなもので、とても恥ずかしくもあるが、ゲーム業界全体がそういうスペックでやっていた時代でもあったわけで、今となっては一種の歴史である。

 

私の個人的なゲーム史や経験などに誰にも興味がないだろうが、一般的な【昔のゲーム】【黎明期のゲーム】という視点であれば、面白い部分もあるのではないか。

 

自虐的な表現になるが、まずは【笑える (^o^;)】。

免疫が向上して健康によい。

 

また、

「ほほう、当時のゲームって、こんなんだったんだ」

という【未知の世界発見感】もある(かも)、とか思い始めた。

 

そこで、その気になって熱を入れてネット検索してみると、私の関係したゲームだけでなく、過去の懐かしいゲーム情報が膨大にある。

一定量の人が今も興味を持っているようである。

 

他人のゲームの個々の背景などはわからないが、大きな時代の流れは経験で知っている。

まして自分が実際に関係したものなら「歴史」の一コマとして事実を語れる部分もあるかもしれない。

そういうものは【記録】として書く意味があるかもしれない。

 

「全然無意味かもしれないが、害もないだろう」

という気分で、私の関係したゲームについて記録しておくことにした。

 

言っておくが、笑えるだけではなく、今の視点で(当時の視点でも?)「クソゲー」とか論評が書かれたりしているものもある。

ときに、ちゃんと褒められているものもある。

 

それらを含めて、今やそれも【レトロゲームと呼ばれる歴史】なのだろう。

 

<--前 Home 一覧 次-- >

<スポンサーリンク>

2018年06月01日

<01>オホーツクに消ゆ(ファミコン版)1987年


 

オホーツクに消ゆ(ファミコン版)1987年

【北海道連鎖殺人 オホーツクに消ゆ(ファミコン版)】は、1987年の6月27日に発売。ドラクエの堀井雄二氏の原作。

このゲームについては、別項でいろいろ書いてます。


 

<オホーツクに消ゆ>画面 【ファミコン版】(クリック)

有名な「めぐみのバスタオル落下シーン」

 

 

 

 

<--前 Home 一覧 次-- >

<スポンサーリンク>

2018年06月01日

<02>ベースボール【MSX、PC-6001など 】 1983年


 

ベースボール【MSX、PC-6001など 】1983年

恐ろしいことに…、私が生まれて始めて作ったゲームである。

最初の対象ハードは、NECのPC-6001(MKⅡ)。

 

野球ゲームとしては、当時も今も、斬新すぎる!(^_^;)

バッテリー間を横から見たメイン画面!

打つと画面が切り替わる!

ネット裏から球場全体を見る視点を、なぜ採用しなかった??

(おそらくハードスペックのせい?...言い訳??)

 

 

 

当時はパソコンそのものが珍しく、世間で販売しているPC用ゲームソフトも業務用ソフトもほぼなく、秋葉原の店頭に行けばゲームパッケージが置いてあるが、地方の人はパソコン月刊誌の広告通販で買っていた。

 

(そういうソフトを広告販売ではなく、卸売りとしての情報を月刊誌に掲載して大々的にやりはじめ成功したのが【ソフトバンク】であろう)

 

ともかくパソコンを買っても世の中にソフトがなく、どういうゲームでもある程度は売れてしまうという時代背景もあり、私のこの野球ゲームは、思わぬことに機種別月別売り上げNo.1になったりもした。

 

半年か1年間か忘れたが、売り上げベスト10に連続ランクインしていた。

(売上ランキングが、パソコン機種別雑誌などに掲載されていた)

 

印税の振込みは、毎月あった。 アルバイト時給400円時代に、毎月数十万円。

「えぇ?このレベルのもので!?」

「…ははは、そうです。ごめんね」(笑)

 

でも、ゲームの作り方情報はどこにもないし、少数のパイオニア的に作っている人が、どこにいるのかも知らない…、そういう時代だから。

 

勘で手作り。手探りで…。

記録媒体は音楽テープ。(フロッピーもハードディスクもない)

パソコンの電源を切ると、OSもデータも全部消える!

Windowsなんて影も型もない。(Dos/vとか)

 

今、私が書いた数行の意味が、今のゲーム開発者には理解できないだろう…。

「太古の時代?」

って。(笑)

 

 

【追記1】

ほんとのたまたまだが。この記事を書いていたのでネット検索してみたら、2017年11月04日にこの製品(当時のもの)がヤフオクに出品され、8300円の値がついていた。

おおお! 感動した!

 

【追記2】

2005年の記事ゲーム評を見つけた。あらら、ちょっと褒めてある。(^_^;)

 

 

【追記3】

2019/11/7 に、このゲームのことをTwitterに投稿したら、いろいろな感想や画像が返信、リツートされた。

ありがたし!

そのときの画像なども追加掲載しておきます。

 





<--前 Home 一覧 次-- >

<スポンサーリンク>

2018年06月01日

<03-1>バレーボール【PC-6001~MSX(※ファミコン)】1986年


 

<バレーボール>【MSX】1986年(→※ファミコン)

【2024年10月】

『MSXアタックフォー』復刻販売されることになりました。

(時期はまた未定ですが、準備は進んでいます)

 

付録として、『(仮)MSXアタックフォーと、それを原作として作られた任天堂バレーボルについて』というような冊子も作っています。

 

このサイトにすでに書かれている内容の基本は変更ありませんが、冊子のため、開発時の出来事や時間軸を整理しています。

そのため、ここの記載内容を一部修正追記することになると思います。

 

そのポイントは、おおもとは、私が作った『PC-6001バレーボール』だという部分です。

 

PC-6001で、私が最初のバレーボールゲームを作って、パックスソフトニカに持ち込んだ。

 

いつものように、T氏に見せ、販売することとなった。(H氏は無関心であった。ルートが違うし、バレーに興味もなかった)

 

PC-6001版にBGMや細かな演出を加えるより、今後が期待でき、ゲームが作りやすいMSX版に移植することになった。

 

そのころ、PC-6001バレーボールが、社に出入りしていたU氏(外部の人)により、任天堂さんに持ち込まれた(売り込み)。

 

任天堂さんがそれを気に入り、PC-6001版バレーボールを原作にして、任天堂ブランド(ファミコン)でバレーボールゲームを発売することとなった。→ パックスソフトニカと任天堂の出会いは、私のPC-6001バレーボール!

 (選手の腰振りダンスは宮本氏のお気に入りで、それは必ず再現すること!と言われ、後のアイスホッケーでも踏襲された)

 

バレーボールを誰も知らなかったし、すでにゲーム化した私が原作者としてファミコンに移植すべきだったが、ファミコンの経験がなかった。

 

そこで、話し合って、一作作って経験のあるH氏が、ファミコンへの移植を担当することとなった。

 

H氏は、バレーボールのことはわからないので、私がMSXへの移植をしながら、同時に監修することとなった

私が担当したMSX移植版が先にでき、発売された。

 

ファミコン移植版は、任天堂ブランドなので情報開発室からの演出やBGM追加、また途中でカセットではなくディスクシステムに変更になったため、発売はMSX版より後となった。

 

※このあたりは、『MSXアタックフォー復刻版』に資料としてまとまったら、ここで載せれればと思います。

 

===========================================

 

別項の『ファミコンのディスクシステム』のところでも、このゲームについて触れているので、記述が重複する場合があることをお許しください)

 

 

私の原作は、MSXで、【アタック・フォー】となっている。

スペック的に、つまりハード機能の制約で、6人ずつのキャラクターが表示できず、

「4人制バレーボールってないだろ?」

って突っ込まれないように、悲しくも「バレーボール」というタイトルでなく、こうなった。 と記憶している。

 

PC-6001というパソコンで、手探りながら ベースボールゲームを作って、なんとなくゲームの作り方が理解できたので、

「じゃあ次のスポーツは?」って考えたときに、自分が学生時代にやっていたバレーボールに決めた。

 

 

ただし「アタック・フォー」は、PC-6001ではなくMSXで開発した。

たぶん、PC-6001で作った記憶があるので、製品化はされなかったが、プロトタイプを開発していたのだと思う。

 

PC-6001でバレーボールを作ろうとしたのは、それまでにゲームを数作作って発売していたので、汎用的に使えるサブルーチン群がいくつもあり、開発工程もある程度確立されており、PC-6001に慣れていたからだが、結局製品化になったMSXでバレーボール(「アタックフォー」)を作ったのは、おそらくMSXのほうがスペック的に作りやすかったか、MSXのほうにゲーム機としての可能性を感じていたからだろう。

 

とはいえPC-6001よりゲーム開発に向いていた(と私は記憶している…)MSXでも、ハードの制約(スプライトとかいう機能だったようなが…)で4人しか選手キャラを表示できなかった。

 

が、当時はまだバレーボール界では、バックアタックが頻繁に普通の攻撃としてが使われる時代ではなかったので、セッター以外に攻撃者が3人いれば、バレーの攻撃はほとんどできるということで、チーム4人で作ってみたのだ。

 

自分がバレーボールをやっていたこともあり、ミュンヘンで日本男子バレーが金メダルを獲得し、それまでのバレーボールの概念を変えた(見ていて断然面白くなった)『クイック攻撃』『時間差攻撃』をどうしても再現したかった。

 

当時、それなりにこのゲームが受けたのは、そのあたりの「バレーボールらしい攻撃ができる」という意図が、まずまず表現できたからだと思っている。

 

【アタック・フォー】の画像や動画を見て苦笑される方は多いだろうが、私のいた会社の営業K氏(正式の社員ではなく別動隊のような人)が、これを任天堂に持ち込み採用されて、ファミコン版のディスクシステムで、世界同時発売になった。

 

かなりのレジェンド・ゲームといえよう。

 

私はMSX版の修正開発を一人で行っていたため、ファミコン版はファミコンのゲームを先行して開発経験のあった同僚のH氏に任せた。

私は同じ部屋で、私のバレーボールがファミコン版になるのを見ていた。

 

もちろん、私は原作者のなのでアドバイスや意見は言えたし、求められた。

私はバレーボールの経験者であったし、ともかくファミコン版でも、それらしく見える「クイック攻撃」「時間差攻撃」を実現したかったので、そのあたりはかなり意見したと思う。

 

私の所属する会社も初のファミコン開発であったので苦労はしたが、マリオの宮本氏を中心とする任天堂の情報開発部の指導で開発しているので、技術的にわからないことは全て任天堂に直に聞くことができ、その都度、懇切丁寧に教えてもらうことができた。

 

ゲーム画面動画を観てもらうとわかるように、あの有名なイヤラシイと言われた【選手の腰振りダンス】は、私の原作である【アタック・フォー】が、オリジナルなのだ。

 

別のところでも書いたが、プログラム担当のH氏はとても優れた開発者であったし、ゲーム性はあのマリオの宮本氏が総合演出なのだから、私の原作を超えたゲームになったことは当然だろう。

 

私もこのゲームからファミコン開発の世界に入ることになり、とにもかくにも私とっては、懐かしくて宝物のようなゲームなのだ。

 

<バレーボールゲーム>画面 【MSX】(クリック)

スペック不足で、4人バレー!

 

 

 

 

記事 (クリック)

 

 

 

記事2 (クリック)

 

 

<--前 Home 次-- > 一覧

<スポンサーリンク>


2018年06月02日

<03-2>バレーボール【PC-6001~MSX(※ファミコン)】1986年 追加記述部


 

<バレーボール>【MSX】1986年(→※ファミコン) 追加記述部

【2018年7月22日追記】

Twitterで、Tomoya ONDA氏から、「PC6001版は発売されていないのでは?」とのご指摘を受けました。PC-6001で開発した記憶があるので、発売されず試作品だけであって、MSX版で発売された、ということなのかな…。

となると、U氏が任天堂に持ち込んで売り込んだのは、私のPC-6001版だったということになる。

 

【関連※2019年6月3日追記】

昨日、『アタック・フォー』が任天堂バレーボールの原作だとツイートしたら、すごい反響だった。

みんな事実を知らないのだなぁ。

知られてなかったのは悲しいが、今回半日ですでに千件の反応があったから、知られて嬉しい。

 

ところで、それで記憶がよみがえったのだが、私はPC-6001での開発が得意だったので、『アタック・フォ-』のPC-6001版の開発はしていた。だって、会社も私も、そのほうが儲かるでしょ。

それが、ファミコン版の開発が決まり、任天堂から発売ということになったし(…私の原作者としての権利は無視だけど)、そのあとも任天堂さんからファミコンの仕事が来るので、それなら私がPC-6001版を作るより、ファミコン開発に移行したほうがいいという判断をしたんだな、きっと。

だから、やっぱりそれまでは、内部的(私は独立開発者だから、私的的)には、『アタック・フォー』のPC-6001版は開発していたと思うし、そういう記憶があるんだけどなぁ。

 

【2019年5月追記】

ウィキペディア(Wikipedia)の『バレーボールゲーム(任天堂)』の項に、原作者である私や私の『アタック・フォー』記述がないので、ゲーム歴史の事実として載せたほうがよいのでは?

 

【2019年6月2日追記】

ウィキペディア(Wikipedia)の『バレーボール(任天堂)』と『パックスソフトニカ』の項に、原作者である私や原作となった『アタック・フォー』の記述が載りました。

ゲーム史にとって重要なことだと思うのだが、なぜこれまで記載がなかったのかなぁ?

当事者が忘れていると、一般には誰も知らないままということか…。ちょっと悲しい。

 

 

<--前 Home 次-- > 一覧


<スポンサーリンク>

 

2018年06月02日

<04>アイスホッケー【ファミコン】 1988年


 

アイスホッケー【ファミコン】1988年

これはディスクシステムのスポーツシリーズとして、任天堂ブランドとして最初から企画され、私のいたパックスソフトニカで開発されたものだ。

 

企画、演出などは宮本氏が中心となっている任天堂の情報開発室で指揮され、私はキャラクタとサウンド関連を担当した。

 

もっとも、使用するグラフィックやキャクターは情報開発室で図面として私に渡され、私が実際のドッド絵を作成するというもので、私がデザインするわけではなかった。

 

アイスホッケーという日本ではマイナーなスポーツをゲームにしたのは、世界市場としてアメリカがあり、そこで盛んなスポーツだったからに違いない。

 

これが遊ばれている動画を最近見つけたが、今見ても面白い

。開発に関係したからという【贔屓眼】【手前みそ】ではなく、これはスポーツゲームとして、本当にすごく良くできていると思う。

 

年月を超えて、ここまで面白いのは、プログラムーの力や、当然だが総合プロヂューサーの宮本氏など任天堂さんの演出アイデアの素晴らしいさを象徴している。

 

プログラマーは、中島氏と記憶していたのだが、同時期に中島氏がプログラマーだった『VAPバトミントン』が発売されており、となると、(バレーボール移植の)橋下氏か、大御所の田村氏なのだが、私は同時期に『バトミントンゲーム』の開発にも関わってたので、記憶が混じっている。

また、Wikipediaにも不思議なことに、プログラマーの記載がない。

 

誰か、憶えていませんか?

 

この時期は、今思えば、稀有な才能の方々と一緒に仕事ができた。

よい思い出だ。

 

<アイスホッケー>画面 【ファミコン】(クリック)

スマホがないころの移動時の時間つぶしに最適だった。

 

 

 

 

 

 

<--前 Home 一覧 次-- >

<スポンサーリンク>

2018年06月02日

<05>ダブル役満シリーズ(麻雀)【ゲームボーイ】 1993年


 

麻雀【ゲームボーイ】

私は私の最初の作品「ベースボールゲーム」を世に出してくださったT氏と組んで、十数年ほどゲーム開発をした。

 

このT氏はアーケードゲームでも麻雀をいくつか手掛けている人で、麻雀ゲームは得意であった。

要するに、麻雀ゲームを作るためのプログラムやデータ構成をある程度確立されていたのだろう。

 

そういうわけで、T氏のもとでいくつかの麻雀ゲーム開発の手伝いをした。

N氏がサウンド以外のプログラムをすべて担当し、私がそれ以外の全部(ストーリーやキャラクターデザイン、ドッド絵作成、作曲、サウンド効果、サウンド関連プログラム開発、マニュアル作成など)を担当する、というコンビである。

 

このゲームボーイでの麻雀には、3つくらいのバージョンがある。

どれもゲームボーイの麻雀ソフトとしては、任天堂のものを除けば、最も売れたのではないだろうか。

 

<ダブル役満>画面 【ゲームボーイ】(クリック)

スマホがないころの移動時の時間つぶしに最適だった。

 

 

<--前 Home 一覧 次-- >

<スポンサーリンク>

2018年06月02日

<06>それいけトンカチくん 【PC-6001など】 1984年頃


 

それいけトンカチくん【PC-6001など】 1984年頃

この作品はまったく記憶になかった。

どうやら『それいけくるくる』の前のようだ。

 

ん~、変な作品タイトルだなぁ。(^o^;)

 

これまた秋川氏の(マシン語打ち込み】により私は自分の作品をこうして静止画であっても見れるわけで、感謝感謝感謝である。

 

このころは、パソコンゲームのコンテスト(入賞すると賞金が出て、発売される)が増えてきたころで、私もいくつかに応募して、いくつかに入選して、発売してもらった。

 

そのうちの一つに違いないが、忘れ去っていた。

 

もちろん、こうして復活していただいた画面やツィートの文章で書かれたゲーム内容を読めば、「あ~そうだった!」と思い出す。

 

私の貴重な青春グラフティでもある。

 

秋川氏に、もう一度感謝。

 

 

<それいけトンカチくん>画面 【PC-6001など】(クリック)

上記紹介WEBの画像を使わせていただきました。

 

 

<それいけトンカチくん>画面 【PC-6001など】(クリック)

上記紹介WEBの画像を使わせていただきました。

 

 

<--前 Home 一覧 次-- >

<スポンサーリンク>

2018年06月03日

<07>TAMATAMA 【PC-6001など】 1985年頃


 

TAMATAMA 【PC-6001など】 1985年頃

次の『それいけくるくる』と同時期に、作った作品。

 

私のところには、資料は何もない。記憶もおぼろ…。

そんなときにネット検索で見つけたのか、下記のリンク。

2016年のツィートである。

 

私も昔、他人のゲームのマシン語をひたすら打ち込んでどうさせてた思い出がある。

(たしか、初めてマシン語打ちしたのは、ゴルフゲームだった)

 

このツィートの中で、

「TOKI H.氏とT.HOTAKA氏は同一人物なんだろうか?」

とあるが、その通りです。

 

私。

 

秋川さん、ありがとうござます。

 

連絡と取って、画面画像使用やリンクしたことの了解をとりたいとも思うのだが、恥ずかしい…。

 

でも、彼のフォロワーになった。(笑)

 

 

<TAMATAMA>画面 【PC-6001など】(クリック)

上記紹介WEBの画像を使わせていただきました。

 

<TAMATAMA>画面 【PC-6001など】(クリック)

上記紹介WEBの画像を使わせていただきました。

 

<--前 Home 一覧 次-- >

<スポンサーリンク>

2018年06月03日

<08>それゆけくるくる【PC-6001】 1984年頃


 

それゆけくるくる【PC-6001】 1984年頃

なぜか、こちらは記憶がある。

『TAMATAMA』より、一つ前に作ったんじゃないか…。

 

カラフルな円筒やキューブの台に飛び移って着地して、台の色を変える。

キャラが飛び移るときに、2回転くらい前方回転をしてから着地する。それが作品名の由来。

 

台の色を全部同じ色にしたら、ステージ・クリア。敵に捕まったら、アウト。

台の色変化は、あるパターンがある(んだったと思うが、記憶は曖昧)から、それを理解していないと、台の色がなかなか揃わない。

…というようなゲーム内容だったと思うんだが…。

 

これもマシン語入力してくださった、秋川さんに感謝。

 

大昔に作った自分のゲームを復活してくださり、私がその画面を見れる…。不思議なことだ。

もう一度、ありがとうございます。

 

------------------------------------------------------------

※1988年発売と思っていて、そう書いていたのだが、Youtubeで紹介動画を見つけたら、『1984年パックスソフトニカより発売』と記されていた。【それいけトンカチくん】とか【TAMATAMA】と同じ頃だから、やはり1984年が正しいのだろう。訂正しておきます。(2020/11/124)

 

<それいけクルクル>画面 【PC-6001MK2】(クリック)

カラフルやな。アーケードゲームっぽい。

 

 

<それいけクルクル>画面 【PC-6001MK2】(クリック)

カラフルやな。アーケードゲームっぽい。

 

 

 

 

<--前 Home 一覧 次-- >

<スポンサーリンク>

2018年06月03日

<09>バトミントン【ファミコン】  1988年頃


 

バトミントン【ファミコン】  1988年頃

これは、日テレ系の【VAP】さんから発売されたスポーツゲーム。

 

バトミントンはゲームにするのが難しそうだけど(…実際に難しかった)、プログラマー中島氏の腕前で、面白く遊べるものになったと、私は思っていた。(…手前みそ?)

 

私は、グラフィックと、音楽・効果音プログラムとそのデータ作成。

 

私はこのゲーム開発にかかわったので、バトミントンのルールや当時の強豪国などを知った。

 

とても良いゲームなのだが、残念ながらバトミントンがマイナースポーツだったこともあり、大きな話題にはならなかった。

 

今、プレイ動画を見ても、よくできていると思うなぁ。

もちろん、開発者視点という部分も大きいですけど。

 

<バトミントン>画面 【ファミコン】(クリック)

アイスホッケーと同じ優秀なプログラマーN氏。

 

 

<--前 Home 一覧 次-- >

<スポンサーリンク>

2018年06月04日

<10>貝獣物語【ファミコン】 1988年


 

貝獣物語【ファミコン】1988年

ロールプレイングです。

 

1988年11月18日にナムコ(後のバンダイナムコエンターテインメント)に発売。

シリーズ化され、続編は主にハドソンから発売された。

 

私は1作目にかかわった。

(音楽・効果音プログラム、グラフィックスの画面作り)

 

原案、ストーリー、キャラ・デザインなどを【バースデー】という会社が創案し、T氏と私が開発を担当した。

 

バースデーさんは、とても良い感じの組織と人で、仕事しやすかった記憶がある。

 

ゲーム・プログラムはほとんどT氏で、私はマップデータなどの圧縮・展開のプログラムなどと音楽関係プログラム担当だった。

(ゲーム音楽は、安全地帯の六土開正氏)

 

【バースデー】には、『しゅうべぇくえすと』というゲームもあり、それも開発を手伝ったような、そうでないような…記憶が定かではない。

 

<貝獣物語>画面 【ファミコン】(クリック)

アイスホッケーと同じ優秀なプログラマーN氏。

 

 

 

<--前 Home 一覧 次-- >

<スポンサーリンク>

2018年06月05日

<11>ダルマンバスターズ【ゲームボーイ】 1991年


 

ダルマンバスターズ【ゲームボーイ】

落ちものパズルの亜種というもの。

バンプレストから発売(1991年.08月03日 \.3300)

原作は、『貝獣物語』のバースデーさん。

 

Aボタンで右、Bビタンで左のブロックをだるま落としの要領で飛ばして、同色のブロックを縦か横に2個以上くっつければ消せる。

 

これをうまくやって中央にいるだるまを一番下のラインまで落とせばクリアになる。

 

ゲームボーイの麻雀ゲームと同じで、移動時に電車の中などでやっていると、結構遊べる。

当時は、スマホなんてないからねぇ。

 

<ペケとポコのダルマンバスターズ>画面 【ゲームボーイ】(クリック)

アイスホッケーと同じ優秀なプログラマーN氏。

 

 

<--前 Home 一覧 次-- >

<スポンサーリンク>

2018年06月07日