38年ぶりの再会!
ん~、いろんなことを思い出しました…。
今の思いを、書き記しておきます。
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橋下氏のトークイベント後の交流会で、私の名刺の私の名前【本谷浩明(れたすはうす)】を見て、
「えっ!」 と、フリーズされた方が複数人おられました。 その方がたは、すでに、私の本やWEBサイトやXをある程度読まれている方でした。
何しろ、 私は、【そこにいるはすがない人】で、まして【橋下氏と歓談握手するはずがない人】なのですから、過去に、そして現在もなお、橋下氏に裏切られている私の名刺を見て、一瞬フリーズされたことは理解できます。
私(本谷)は、橋下氏やパックスソフトニカの金銭的危機を助けるため、私のMSXバレーボールをファミコン移植することに同意しました。 そして、バレーボールゲームには、興味関心もなかった橋下氏に対し、私は積極的にゲーム構造を教授指導し、成功を夢見て、橋下氏と手を取り合って頑張りました。
当時の私(Hontani)と橋下氏は 、 『ゲーム開発が好きで、それで一旗揚げたい仲間であり同志であり、私はフリーランスでしたが、社外協力者』でした。
ですから、私と橋下氏には、個人的なの思い出や懐かしさはあるのです。
昨年(2025)、私の本『バレーボールゲームをめぐる本当の物語』を読んだ橋下氏は、私にメールをくれまして、謝罪のような文とともに、その中で、
『(これまでは、創作者の本谷さんのことを言えずに黙っていましたが)今後は、私(橋下氏)から世間に積極的に、本谷さんのことを話します。いつか、ぜひ会いたいです』
と書いてくれてました。
ですから、私は橋下氏のトークイベントに行きました。そして、握手も抱擁も歓談もしました。
過去に橋下氏に手ひどく裏切られ(現在も裏切るい続けられていますが)、一時は苦楽を共にした仲間だったのですから、私のそのような行為は不思議ではないのです。
とはいえ、実は自分でも、私が橋下氏と抱擁矢握手ができるとは、ビックリしました。
懐かしさが、いろんな苦い思いを超える瞬間もこともあるのだということでしょう。
振り返れば、当時(1986~1988)のパックスソフトニカや橋下氏の金銭的苦労を、私はすぐそばの現場で見ていたので、橋下氏が金銭的な問題から私を裏切った理由を、私はとてもよく知っているのです。
アメリカの展示会視察(1987年1月 Consumer Electronics Show)のとき、グランドキャニオンで並んで撮った写真を観ると、私は今でも懐かしい気持になります。
この日のトークイベントで橋下氏自身が話してましたし、橋下氏の本やインタビューにもあることなので、皆さんご存知ですが、親会社のパックスエレクトロニカがブラック企業だったため、橋下氏は生活に困窮していました。
私は、何度も橋下氏の愚痴を聞いていました。
ですから、 私は、金銭的に困っていた橋下氏やパックスソフトニカを助けたのです。 そのため、パックスソフトニカの社長であった田村氏とも話し合い、私の捜索したバレーボールゲームをファミコンに移植することにしたのです。 成功したいという思いで、私と橋下氏は、後に任天堂ブランドになるという幸運も知らないときでも、必死で二人で、ファミコン移植を頑張ったのです。
そういう思い出があれば、その後、立本氏というフィクサーが登場して橋下氏を抱き込み、橋下氏の私に対する手痛い裏切りがあったものの、38年ぶりに会ってしまえば、懐かしい気持ちは湧いてきたのです。
パックスエレクトロニカとパックスソフトニカの両社で正社員であった私の妻もそうですが、当時の立本氏と橋下氏による私への裏切り行為を知っている人は、私と橋下氏の歓談の様子を見れば、
『嘘でしょ?!』
と、驚くわけです。
妻よ!
君の不可解な気持ちは、わかってるよ!
まあ、私と橋下氏の二人しか知らないこと、二人にしかわからない感情があるのです!
とはいえ、思い出や友情や懐かしさは、それはそれ。
任天堂バレーボールの正しい開発の経緯は、社会正義とゲーム史のため、関係者、関係会社のコンプライアンスのため、後世に正確に伝わることが必要です。
橋下氏が、この問題に対し、今後私と連絡を取り合ってくれることが、トークイベント参加の方々の前で確認できました。 これは、友好的にこの問題を解決する道筋が出てきたかもしれない、大きな前進だと思っています。
私はこの問題を、あやふやにする気はありません。
そのための準備も慎重に行っています。
これからも、この『任天堂バレーボール』をめぐる問題に関心持ち続けていただきたいです。
(注)
2026年7月21日の任天堂バレーボール発売40周年記念日に向け、YouTube配信や、ネットメディアでの記事化の企画が動いています。
ご期待ください。
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【橋下氏は、私と宮本氏の監修下の 移植プログラマーで、創作者ではない】 から、肝心なことを語れない
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私(本谷)は、2025年になって初めて、橋下氏の同人誌を読み、橋下氏のインタビューも読みました。 そして、この日、約1時間のトークを目の前で聴きました。
橋下氏は、任天堂バレーボールの移植担当者でしかないので、『肝心な話』がなにもありません。
橋下氏は、創作者ではないので、そんな話はできないのです。
たとえば、
【どうしてバレーボールゲームが作りたかったのか?】 橋下氏は、バレーボールをやったこともなく興味もない人で、私が原作ゲームを持ち込んだ時も、まったく関心を示しませんでした。 私(本谷)と田村氏に説得されて、不本意ながら移植を担当したのです。
橋下氏が本当にやる気を出したのは、任天堂ブランドになってからです。
橋下氏にバレーボールゲームへの愛はなく、単に『食べるための手段』なのです。
【バレーボールの面白味は何か?を語れない】 橋下氏の本にもインタビューにも、トークにも、バレーボールというスポーツへ言及はありません。
私のように、バレーボールというスポーツに熱中したこともない人です。
べつに熱中しないとゲームが作れないわけではありませんが、私(本谷)がいなければ、橋下氏がバレーボールゲームを移植することなどなかったのです。
【ゲーム化の時に、どこが難しかったのか?どこを工夫したのか?】
これも橋下氏が全く語らないことです。 これは当然で、橋下氏は移植したバレーボールゲームが成功したから、その後の生活のために周辺的なことを語っているだけで、橋下氏のバレーボールゲーム開発史に聴くべき内容はありません。
橋下氏がいうことは、ただ一つ。
「原作のMSXバレーボールが4人だったので、6人にした」
これだけです。
これが別のところで、私が説明していますが、マシンのスペックの問題にすぎません。
素人の人は騙せますが、こういうゲームのプログラムを開発したプロならすぐわかることでして、4人も6人もプログラムの処理としては、ほとんど同じです。
【宮本氏とどういうやりとりがあったのか?を語れない】
ゲームファンであれば、レジェンドの宮本さんとどのようなやりとりがあったのか、などはもっとも聞きたいことの一つでしょう。
けれど、橋下氏の本にもインタビューにも、トークにも、移植開発中の宮本氏とのエピソードが出てきません。 実際に、橋下氏は任天堂バレーボール移植時には、宮本氏と直のやり取りは、さほどありません。 なぜなら、橋下氏は、私(本谷)の原作ゲームを見ながら、私の説明と指導でプログラミングしていたので、橋下氏自身が宮本氏と話せるような積極的な考えは持っていませんでしたし、その必要もなかったのです。 橋下氏は、技術的な問題を任天堂の方と話していました。。
宮本氏とのゲーム全体の調整は、原作者である私(本谷)の担当だったのです。
私(本谷)が、その後の『任天堂アイスホッケー』のパックス側ディレクターを務めたのも、バレーボール移植時に宮本さんと培った関係からでした。
余談ですが、『任天堂アイスホッケー』は、パックスソフトニカの誇る超絶プログラマー『中島成己』氏の技術と、宮本氏の超絶エンタテメ発想が融合した面白くて素晴らしいゲームなのですが、アイスホッケー選手のキャラクーの原型は、私の『MSXアタックフォー』です。
『なぜ、任天堂アイスホッケーのプログラム担当が橋下氏ではなかったのか?』
これが意味するところを考えていただければ、いろいろなことがわかるのです。 移植で手腕を見せ、大成功した『任天堂バレーボ―ル』のプログラマーが、なぜ同じスポーツゲームで、同じディスクシステムの『任天堂アイスホッケー』を担当できなかったのか?
私(本谷)は、『任天堂アイスホッケー』のパックスソフトニカ側のディレクターでしたので、そこの『機微』をよく知っています。
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私のスマホで撮影してもらった写真
主催者:RED SANTASAN の投稿写真
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【またも目の前で裏切られるとは…】
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橋下氏は昨年、私の本『バレーボールゲームをめぐる本当の物語』を読んで私にメールをくれました。
そのメ―ルは一応私信ですので、今は公開しませんが(・・・必要な時はいつでも公開)、そのメールの中で橋下氏は、 「…これからは私自身が、本谷さんのことを積極的に世間に伝えていきます」 と書いてくれました。
私(本谷)は、38年前のことがあったけど、今回は橋下氏を信じました。 自らの意志で進んで、そのようにしてくれれば、これまでのことが『良い方向に』進むのでは、と私は感じました。
『パックスソフトニカの不正により隠されてしまった私(本谷】の存在が、きちんと当事者から明かされる』 と、私は期待していましたが、橋下氏の1時間以上のトークの中に『私の名前<本谷浩明>』は一切出ませんでした。
「会社に出入りしていた人がバレーボールを持ってきた」
という「何でもない人」みたいな言い方でした。
その【原作ゲームを持ってきた人(本谷)】こそが、原作者であり、移植許諾者であり、移植ディレクターなのにです。 また、その人(本谷)は、フリーランスとして、何年もパックスソフトニカの現場で橋下氏と働き、CESにも共に行った仲なのに、です。
もちろん、長年、私のことや小切手事件のことを隠してきた橋下氏が、その事実を言いにくいのはわかります。 けれど、もう隠し通せないのですから、 「仲間・・・いや同志だった本谷さんのゲームを私(橋下氏)が移植した。その時期の私(橋下氏)は親会社のため困窮していて、つい本谷さんを裏切ってしまい…」 と、私が聴衆として聞いている場所で言ってほしかった。
そうであれば、いろいろな「もつれ」が解けていっただろうに、と残念で悲しかったですね。
このトークイベントを契機に、新しい動きも出てきました。 40周年の、7月21日に向けて、具体的に動いていきます。
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本谷浩明(HONTANI hiroaki)
【注】他言語に翻訳されたとき、"MOTOYA" は間違いです。 |