バレーボール県大会、敗退の夜の怪 [2]
バレーボール県大会、敗退の夜の怪 (2) |
夏休みなので毎日午後から、我々は中学バレーボール県大会に備えて、炎天下の野外のコートで猛練習を重ねた。 真夏なので気温は30度を軽く超え、ほぼチーム全員が軽い日射病状態で(当時は熱中症という言葉はない)あったが、その時代には、そんなことお構いなしであった。軽い日射病(熱中症)などは気力体力で抑え込まねばならないのだ。 要するに、暑い中での苦痛に耐え、激しいスポーツで青少年の心身を鍛えるという(誤った)考え方が、一般常識みたいなものだった時代である。 なんか、書いてて怖いぞ。 そういうわけで、今では完全な室内スポーツとして認識されているバレーボールではあるが、そのとき中学生であった我々生徒は、生命体に強力な害を与える紫外線を全身に浴び、チョコのごとく褐色に日焼けして、土の上を転げまわっていた。 今では考えられないことだが、 「水を飲むな!(正しくは飲みすぎるな)」 という愚劣な精神論が、信じられていたんである。 よく、誰も死ななかったものだ。 (※日本全体規模では、そういう炎天下のスポーツで、そのころ相当数の死者が出ていたのではないか? 全国的なニュースにならないだけで…とか思ったり) さて、県大会当日の朝。 遠征となるため、移動用のバスが用意されていた。 なんかスゴイぞ! ところが、バレーボールにおいてチームの要であるセッターのO君が、いつまでたっても集合場所に来ないのであった。全くの『無断欠席』で、なんの連絡もなくである。 心配した先生が彼の家に電話をかけても、誰もでないということだった。当時は家電話しかないので、それ以上のコンタクトは不可能である。 そして、我がチームのセッターが来ないまま、バスは出発してした。 初めて訪れる他都市での初の県大会出場というだけでも、かなりのプレッシャーであるのに、肝心要のセッター不在なのである。 そしてセッターのO君は、キャプテンでもあったのだ。 バスの中は、重苦しい雰囲気に包まれてしまった。 「あいつ、急病かのう」 「病気なら病気で、学校か先生に連絡が入るはずじゃろ」 「それにしても、最後の大会なのに、3年間練習してきたフォーメーションの中心のセッターがおらんかったら、どうなるん?」 「…」(全員重い沈黙) そうなのだ。 部員が少ないのと、地味なセッターを誰もしたがらないということで、(名目上のサブのセッターがいるにはいたが)、不在のO君がチームにおける唯一のセッターであり、すべての攻撃の練習は彼とのコンビネーション、彼の上げるトスで行っていたのであった。 あとでわかったことだが、O君は、その日なんと、私立高校の受験(あるいは面接)に行っていた。 高校の受験日は年間スケジュールであり、数か月前から申し込むので、当たり前のことだが、その当日、急に試験日に決まるわけではない。 そう、彼は県大会の日と、高校受験日が同日であることを前々から知っていたはずだ。 彼は前日までキャプテン、セッターとして練習に参加していながら、当日になってチームを見捨てたのである。 後日それを知ったとき、私を含め、部員全員が怒り狂った。 それはそうだろう。こんなヒドイ話はなかなかなかろう。 (今は、「おもしろい逸話を作ってくれて、ありがとう!」と思っているけど) ただ、O君にも事情があった。 彼はもともと、その私立高校の受験をするつもりはなく、受験申し込みの準備などは親が勝手に進めていただけだった。 彼は県大会に出場すべく、我々部員とともに前日まで猛練習し、 「明日は頑張ろうぜ!」 と、キャプテンとして部員を鼓舞していたのである。 しかし、前日の夜か、当日になって、彼は親に説得…いや、強制され、我々との3年間を捨てて、親の望む私立高校の受験に(自分の意志でなく)行かされたわけであった。 (今は、そう考えて、「彼も苦悩したのだろう」とか同情できたりする) とはいえ、中学生にそういう世間や大人の事情を理解しようという気分はなく、次回書くような恥辱に満ちた?試合内容と悲惨な試合結果になったということもあり、当時の我々部員はO君を許せない気分だけが強く、卒業までギクシャクした関係のままであった。 バスで移動しているときの我々は、そういうO君の事情はなにもわかっていない。 ただただ、『セッター不在で、どうやって試合を組み立てるか』を考えていたわけだが解決策などあるわけもなく、 「どうしようもなぁ。こうなったら、やけくそじゃ!」 という気分であった。 「一切、音を立てるな。敵の 駆逐艦に発見されるぞ!」 と、艦長が隊員に指示している海中の潜水艦内部のように静まり返ったバスは、数時間後、試合会場(体育館のある県立高校)に着いた。 |
(このお題、つづく) |
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