知床羅臼岳山頂付近で始末書 [1] (初めての本格登山の思い出)
知床羅臼岳山頂付近で始末書(1) |
大学1年のとき、私は夏休みに北海道の牧場で1カ月間アルバイトをした。 そのときのことは別のところで書いてみようと思うが、そのバイト終了後、私は生まれて初めて登山らしい登山を経験した。 登ったのは、知床の羅臼岳である。 大学の学生課の掲示板で北海道でのアルバイトのことを知った私は迷わず応募し、色々と細かな手続きを経た上で、7月中旬に夜の上野駅にいた。 80人くらいの学生が、上野駅に集まっていた。 集団で夜行寝台列車に乗り北海道に向かうのである。 列車で隣の席になった某大学の4年生の人が私に言った。私がたまたま軽登山靴っぽいものを履いていたからだろう。 「登山したことあるの?」 「え、登山ですか?ないです」 「ふ~ん。じゃ登山しようよ」 「登山?…」 私葉瀬戸内沿岸で育ったので、高山に上る登山というものの見当がつかなかった。 だから、すぐには返事もできずにいた。 「俺たちが行く農協は厚岸だろ。知床にも近いんだ。せっかくの機会だから羅臼岳に登ろうと思ってるんだけど、一人じゃ面白くないしさ」 「はぁ…」 (私の文で再現できているかわからないが)、彼がしゃべるのは見事な東京弁であった。 数か月前まで、広島弁(備後弁)の世界にいた私にとって、それはかっこいい言葉だった。 話を 聞いてみると、彼の父上が登山好きで昔から山に連れて行かれて、自分も大学の登山部に入るほどになっている人だった。 今回のバイトで知床近くに行くと知った父上が、 「俺も昔登った。いいところだから登って来い」 と勧めたということだった。 登山? 魅力的な提案だった。 私は数ヶ月前に広島から上京し、今北海道に向かっている。全てが未知の世界である。 目の前にる人は数十分前に会ったばかりの知らない人である。 とはいえ私は若区、好奇心も満々だったから、 「登ります!」と答えていた。 厚岸駅につくと、私は酪農家に配属され、朝5時前から夜7時過ぎまで働いた。 きつかったが、人生の中であれほど楽しかったことはなかった。 山登りに誘ってくれた先輩は、子牛の生育農家に配属された。 そこは私とは別世界で、朝夕の牛乳絞りがないので早起きの必要もなく、入植して何代か重ねていたので経営に余裕もあり機械化も進んでおり、他にも何人かのバイトがいることもあり、要するに農作業の量が私の場合に比べ半分以下だった。 一度登山の打ち合わせで、その先輩の農家を訪ねたときに聞いたのだが、 「ここは楽だぞ。みんな優しいし、思ったより仕事が少ない。麻雀したりしてる。若旦那が麻雀を覚えたてで教えてくれと言って実戦をするんだ。麻雀ばかりしてるんだ」 と言うのだ。 「へぇぇ…」 そして1ヶ月のバイトが終わった。 私は登山用具を持っていなかったので、先輩が実家から一通りの用具を駅まで送ってもらっていた。 宅配便などない頃で、荷物は駅舎に届き、そこで保管されるシステムを使っていた。 私は先輩の家から送られてきたカーキ色の登山リュックに、借りた登山用品と自分の荷物を入れて、それを背負って山に登るのである。 ひと月のバイト生活のために持ち込んでいた登山と関係ない余分な私物まで背負った荷に含まれているので、リュックは信じられないほど重かった。 それを背負ってみた先輩が、 「ははは、こりゃ35キロくらいありそうだ」と笑っていたが、私は、 「こんなものを背負って登山などできるわけがない」 と、真っ青になった。 私たちは、まず根室市内に行き、食料などを仕入れ、バスで羅臼街に向かった。 お盆の時期だったので、羅臼の町では夏祭りが行われているようで、盆踊りの音楽が遠くで聞こえた。 私は登山というものをしたことがなかったので、すべて先輩の指示に従うだけだった。 先輩は、海岸近くの川の近くの空き地を宿泊地に選定した。 二人で、そこにテントを張り、寝床を整えた。 町の子供たちが浴衣姿で歩いていた。近くに盆踊り会場でもあるようだった。 「俺たちは、スナックにでも行こう」 と先輩は言った。 「こういうところのスナックはおもしろいんだ」 「へぇ」 夕日は山の向こうに沈み、辺りには紺色の闇が広がってきた時刻だった。 山影の町は薄暗いが、空はまだ明るい。 その空に、明日登る羅臼岳がそびえていた。 1600m程度の標高だが、海抜0メートルから登るので、かなりの道のりなのである。 それに、私のリュックは35キロもあるし…。 (つづく) |
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