もともと、この言葉は、その昔に大人気だった時代劇『水戸黄門』の主題歌の冒頭の歌詞である。
初期のころのテレビ時代劇『水戸黄門』は、助さん格さんというお供の家来が、天下の副将軍である高貴な黄門様に対して、
「なんだ、このくそじじい!」
とか悪態をついていたんである。
CSの再放送で、昔のものを鑑賞すると、そういうところが、おもしろいぞ。
さて、確かに人生には『楽しみや喜び』がある。
そりゃそうだろう。そういうものがなければ、やってられない。
私が糾弾したいのは、
「この苦労があるからこそ、のちに幸せが来るのだ」
というような嘘である。
そういう考え方は、過去の奴隷を働かせるための便法(一時しのぎ)である。
嘘か本当か、宗教で自殺を禁ずる決まりがあるのは、過酷な労働が辛くて奴隷が自殺してしまうのを防止するためだったという説もあるくらいだ。
奴隷制度が過去のもの…と思ってはいけない。
私などは、家庭内では、妻の奴隷である。
「私の喜ぶことをせよ」
というのが、妻の口癖なのだし。
さて…何かを成し遂げるために、準備段階で頑張らねばならないことは、ある。
その準備段階が、苦しいときもある。
だが、
「苦しみがあるからこその、喜びなのだ」
というトンデモナイ考え方は異常だと認識しなければなるまい。
そういう奇妙な考え方は、世間にマゾ的体質者を増やし、パワハラ・セクハラをする病的性格者を助長させるだけである。
『苦労するほど良いことがあった』
という経験など、実際には、特殊な思考をする人間以外の誰にもないはずなんだが…。
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