【道理】という言葉の定義は、
『 物事の正しいすじみち。また、人として行うべき正しい道』
ということになっている。
そういう定義(ルール)の問題は全て、実際的な場面では、個々人の恣意的な解釈と解釈の衝突となる。
「正しいすじみちとはなんなのだ?」
「誰が正しいと決めるのだ?」
「行うべき…って、強制かよ!」
というようなイチャモン(難癖)がいくらでもつけられるんである。
要するに、
「(私の気に入らない、知らない)誰か(頂点は、”神”)が勝手に作ったルールなんぞに、従う義務なんてねぇよ!」
という近代自我の眼覚めである。
こうなると人間は、個々が勝手な【道理】を持ち出すため、
『何が正しいのか、何をすべきなのか』
という基本軸を失う。
こうなると、何が善いか悪いかでの判断ができなくなる。
客観的な視点を持つ、少しはまともな人間は、自信を持てず、
「これが正しいと思うのだが…」
くらいしか言えなくなる。
ところが、主観だけでゴーイング・マイ・ウェイできる硬直脳細胞の人間は、自信(妄想)を持って、
「これが正しい!」
と言い放つ。
よって、現在社会でもっとも気持ち悪いものとは、
「これが正しいのだぁ!」
「同意する!」
「そうだぁ!」
「その通りだぁ!」
という光景である。
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