孤立無援の一人応援団 【カープvs巨人】 [1] (広島育ちの熱狂的巨人ファンの私は、上京して後楽園球場で一人応援団・・・。危機迫る!?)

孤立無援の一人応援団(1)

2004年の『プロ野球再編問題』があったときに、あるオーナーの発言を聞いて、私はまるっきりプロ野球に関心がなくなってしまった。
それまでは、贔屓球団の試合を全部最後まで(ラジオ含む)観戦していたのだが…。

これは、それよりもっともっと前の大昔の話である。

不憫なことに、私は大阪で生まれ、広島で育ちながら、なんと2004年までは熱烈な巨人ファンであった。

私の父親は強烈なアンチジャイアンツであったが、それにも増して強烈な長島ファンであった。
父は、テレビの野球観戦のとき、『長嶋が活躍するがジャイアンツが大敗する』という時に一番機嫌がよかった。

そもそも、CS放送さえある現在では考えられないが、大昔のテレビ野球中継といえば全国区人気を誇る巨人戦だけであった。

広島に在住する者でさえ広島カープの試合は(球場に行かないなら)、テレビでカープが巨人と試合をするときに見るしかなかったのである。(ラジオはたぶん別)

巨人戦ばかり見て、その巨人が9連覇などという強い時代もあったので、私は巨人ファンになったのであった。
(今は、カープを応援。でも生まれながらのカープファンの友人たちには、いまだに受け入れてもらえないかも)

熱烈な巨人ファンとなっていた私が大学生となって、肩身の狭い思いをしていた広島から東京に出てきたときに、
「よしジャイアンツの本拠地である後楽園球場(まだ東京ドームはない…)でジャイアンツを応援しよう!」
と思ったのは当然だろう。

私はさっそくチケットを手配した。
そのころはメジャーなプロスポーツは野球とかプロレスとか相撲とかゴルフくらいだし、プロ野球人気は現在では想像もつかないほどで、球場はいつも超満員であった。
(当時は、巨人と阪神限定?)

やっとビジター側の外野席の一番前の券がとれた。
そして相手は、なんと偶然にもカープであった。
ん~因縁を感じるぞ!

カープは当時は(今も?)資金のない弱小球団であり、鯉のぼりの季節まで快調にとばしていても、結局は最下位になってシーズンを終わるのを常としていたが、その頃は劇的に強くなっていた。

1975年、ルーツ監督が赤いヘルメットを採用し【赤ヘル軍団】としてチームを作り変え、ルーツ監督を引き継いだ古葉監督のもとリーグ初優勝もしていた。
ところが、その年の巨人は、長島監督のもと最下位であった。

私が後楽園球場に乗り込んだのは、そういう『巨人氷河期』の時期である。

私は古い布団シーツを切って2枚の布にし(…袋状のシーツなので2分割しても大きさは 2m x 1.2m くらいある)、その白い布の片方に『G』と大きく書き、もう片方には『がんばれ!』あるいは『ファイト!』とか書いた。(記憶があいまい)

そのころ夏山登山をしていたのでテントを組み立てるためのグラスファイバー製の棒(何本もつなげて組み立てる)を旗の竿にした。(これを球場で組み立てるのだ)

その日、私は大きな袋にその自作の旗と棒と固定用のガムテープを入れて、球場に向かった。

球場にはかなり早めに着き、私は余裕を持って旗を組み立てた。
レフトスタンドの最前列なので、前に通路スペースがある。組み立てにも、組み立てた旗を置いておくのにも好都合であった。

ん?レフトスタンド?
そう、広島カープの応援団本隊が陣取る場所である。

そんなところで、広島県民に嫌悪されているジャイアンツの応援旗を組み立てている私は、大丈夫なのか?
ジャイアンツを応援するために組み立てた、大きな2つの旗は、振り回せるのか?

試合開始が近づくにつれ、私の後方のレフトスタンド席はみるみる埋まっていく。
私の周囲の席も広島ファンで満席である。
あたりは聞き慣れた広島弁だらけとなる。

「う~ん、懐かしい方言だ」
と思う余裕はない。
全員が要するに、野球的には私の『敵』である。

私は少しばかり身の危険を感じた。
が、若くてバカでもあった。

「どうせ同県人だ。襲われても(そんなことはないが)、広島弁で弁解すればなんとかなるだろう」
とタカをくくっていた。

(つづく)

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2018年12月01日