八神純子さんとポプコン [1] (今はダンスでしょ? でも昔はバンドなんだぞ!))
八神純子さんとポプコン(1) |
昨年ライブで聴いた塩谷哲さんの気持ちよいピアノで唄う八神純子の『思い出は美しすぎて』が、すごく心に残っている。 閉演後、私は楽屋のほうで八神さんと握手させてもらったのだが、私はそのとき昔のいろいろなことを思い出してしまい、しどろもどろのことを言っていたらしい。(隣にいた妻の目撃談) 八神さんは私と同じ年の生まれである。 そして彼女は高校在学中の16歳(1974年)のとき作詞作曲した「雨の日のひとりごと」で、第8回POPCON優秀曲賞に入賞した。 翌年の第9回大会でも「幸せの国へ」で優秀曲賞に入賞し、第6回世界歌謡祭で歌唱賞を受賞している。 若くして、すばらしい才能! というふうに、八神純子さんを礼賛した後で、以下に自分の凡才を書き記す勇気は、我ながらスゴイと思うが、書こう。 私はその第9回(翌10回も)POPCONの広島県大会に、私の作詞作曲で『APPLE』というバンドで出場した。(2年連続県大会落ち) そう、八神純子さんと私は『同期』なのである。(『同期』をあえて間違って使用してますが、許して…) 彼女は『思い出は美しすぎて』でプロデビューし、『みずいろの雨』でトップアーティストとなった。 その八神さんと直接の縁もゆかりもない私が、あのポプコンの40年後にライブを観た後の楽屋前で握手しているのだから、私の(勝手な)感慨はなんとなくはわかるでしょう? さてと、ポプコンのことである…。 恥を忍んで書かねばなるまい。。おもしろい(かもしれない)から。 ポプコンは正確には『ポピュラーソングコンテスト』といい、ヤマハ音楽振興会の主催で1969年から1986年まで行われたフォーク、ポップス、ロックの音楽コンテストで、第5回まではプロ対象のコンテストだったが、6回目からアマチュア向けのプロへの登龍門として開催された。 ここからプロになった人たちをちょっとだけ書くと、渡辺真知子さん、中島みゆきさん(1975年)。そのあとに、佐野元春さん、長渕剛さん、円広志さん(1978年)、チャゲ&飛鳥さん(1978年)など豪華な人たちだらけだ。 ちょっと…いやかなり古い(でも偉大な)アーティストだらけだが。 私は中学生の頃にギターを買って練習し、バンドを作った。当時の流行である。 いまならダンスか。 私は市内の楽器店でピアノ運搬のバイトなどをし、その楽器店のピアノ教室の部屋を借りて独学でピアノを練習したりもした。 とても大事なポイントなので先に書いておくが、私には音楽的才能は乏しく、特に歌唱や演奏などの実演部分の才能は皆無であった。【皆無】である。 残念であるけど、しかたない。そういうふうに生まれたのだ。 神様の気まぐれだが、私の悲惨な音楽才能とは違い、私の弟は普通以上に楽器が弾けた。 弟は一回耳で聞くと、だいたいそのままギターやピアノで弾いてしまう。 私が千日練習しても弾けないフレーズをである。 また従姉妹は音大を出てソプラノ歌手になった。 なのに私には、そういう才が『かけら』もなかった。 私は気の毒すぎる。 しかし、私が残念で気の毒なのじは、私に音楽の才能がないことではない。 音楽の才能がないのにバンドを結成して活動をしてしまった、ということが気の毒なんである。 そういう不憫な私であったが、理屈(音楽理論)は理解できたので、曲みたいなものは作ることができた。才能や芸術というより、コツコツと音符で行うプラモ作りのような感じであった。 高校2年のときに、地元でポプコンの県大会が開かれることになったので、恥知らずの10代であった私は曲を作り、バンドで演奏したテープを作り、広島のヤマハに送った。ポプコンへの応募である。 予選はテープ審査のみで行われ、その審査を通過すると広島県大会に出場できるのだ。 予選通過・県大会出場の電話が来たとき私はぶっとんで喜んだが、事態はそう簡単ではなかった。 いや普通なら『事態は簡単→出場してパフォーマンスする』なのだが、我々のバンドには大きな問題があった。 【おそろしく演奏が下手】なのであった。 ただし これは致命的ではない。 なぜなら、ポプコンは楽曲のコンテストであり、テクニックの大会ではなかった。 (テキニックの大会は、ライトミュージックコンテストじゃなっかたかな?) だから、とり合えず演奏の技術と関係なく、テープ審査で受かったのである。 電話の向こうでヤマハの担当者は、私にこう言った。 「大会まで時間がありません。おそらく練習してもそれまでに演奏レベルが必要なところまで達しないでしょう。この曲は面白いと思うのでヤマハの歌手が歌います。演奏もヤマハのほうでします。バンドでなく楽曲だけで出場してください。というのは、そうすれば全国までいける可能性があるという話になっているんです」 ほほう…。私はそのとき、そのことを深く考えもしなかった。 そもそも他人が歌うなど問題外。我々のバンドでやってこそ意味があるのだ、とだけ考えていたのだ。 「いやです、自分たちで演奏したいです」 私の答えに、電話の向こうは、 「え?」と、さも意外そうであった。 さきほども書いたように『ポプコン』は演奏技術ではなく、楽曲のコンテストなので、こういう場合、そういう申し入れを断る人間はいなかったらしい。 「広島のヤマハとしてもこの曲を推して行きますので、そういうことを言わず、あなた自身のために…」 と私を説得するのであった。私は一切取り合わず、断固として拒否した。 母に後でその話をしたら、 「言うこときけばいいのに…。あんたは一概(イチガイ)じゃけねぇ」 と残念そうだった。 その後も何度かヤマハの担当者に説得されたが、私がそうしてもイヤだというので、 「わかりました。では演奏の特訓しましょう」 ということになった。 出場取り消しの可能性もあったのだが、すでにエントリーも決定しており、ヤマハ側が折れた。 それから週末に広島市から私の町まで担当者が来て、直接指導するのである。期間は大会までの約一ケ月。 我々は土日以外の日にも、当然のこと毎日学校が終わったら集まって練習をした。 ちなみに私はサイドギターで、自分の作った歌だが歌ってない。私が歌ってたらテープ審査で落ちていただろう。(楽曲重視なのに?) 猛特訓!猛特訓!猛特訓! しかし、さほどの技術向上は見られず…。ついに広島県予選の大会本番の日になった。 (つづく) |
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