小切手帳【任天堂バレーボール原作者の悲喜劇】 [5]

小切手帳【任天堂バレーボール原作者の悲喜劇】(5)

さて、その後数年、いろいろ経験させてもらって、私は独立した。
社員ではないから、その会社を離れたというべきか。

私がその会社と縁を切ったのは、その『乗っ取り社長』個人が(…人は良いのだろうが、金金金!というやり口でゲーム愛などないから…)好かなかっただけで、組織やメンバーとは関係がない。

居心地が悪くなったからとか、追い出されたということでも全然ない。
会社のメンバーたちは、みんな気の良い人たちだった。
楽しい思い出が多い。

とにもかくにも、そう!
天下の任天堂の情報開発室と直に仕事ができるのである。
(もっとも当時はまだ、現在ような確固とした『世界の任天堂』というところまでではなかったけど)

あんな良い環境なんてないだろう。
そのときの会社と任天堂の関係がどういうものだったかということは、ゲーム史的にも、いろいろ興味深く面白いものがある。

私はバレーボールゲームで、任天堂との縁を作ったのだし、部長という肩書も名乗っていたから、仲の悪かった社長にも片腕として、いろいろな裏話を聞いている。
社長は私が彼に従っている限り、とても機嫌がよかったので、いろんな交渉事にも参加した。
ラスベガスのゲーム展の視察旅行も連れて行ってもらったし…。

私の個人史としては、上手いこと騙されてしまい(…まあ騙されたほうも悪いということか…)大金は得られなかったけれど、私はバレーボールゲームの原作者であり、任天堂のバレーボールは私のオリジナルゲームのリメイクである、という誇りを持っている。
身近な人しか知らないけど。

月日が経つと、その事実だけで楽しいものだ。

ただ言っておきたいことは、私が原作者だと知っていた会社の人や任天堂の人は、私が会社を去る前に『大金をもらったはず』と思っていただろうが、1円も貰っていなかったんである。

ん~、信じられまい…。
すごいぞ、オレ!

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『選手キャラの卑猥な腰の動き(と世間で言われた)』は、とくに宮本氏が気にいっており、
「〇〇さん(私のこと)、この動きいいですねぇ」
と、直に言われていたのだし…。
(宮本氏とは、会社を去る前に数本のゲーム開発をした。もちろん外部下請けの彼の配下として…)

私が縁を切った会社は任天堂の子会社化していて、ゲーム開発機もどんどん送られてくるし、作るゲームは任天堂ブランドで発売される。
開発費以外に、販売数に応じたお金もちゃんともらえる契約だった。

この素晴らしい契約については、その社長から何十回も聞かされた。
私のMSX版バレーボール(正確には「アタック:フォー」)で任天堂との縁ができた(…もちろんプログラマーH氏が素晴らしいファミコン版バレーボールを作ってくれ、その縁を確実にしたことは大きい…)わけで、その功労?で私の対外的な肩書は部長だった。名刺も作って、配っていた(笑)

そして、
「だから、おまえも、おとなしくして、この会社にいろ。(社員じゃないから、正社員になれ…という意味)」
と、いつも最後にそう付け加えるのだ。
この社長は、商売を抜きにした部分では、根は良い人だった思う。気前も良かった。

ゲーム開発者としては、こんな良い環境から去る理由がないだろう。バカじゃない限り。
…つまり、私はバカだったということだけど。

(このお題、つづく)

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2019年01月03日