ジーザス・クライスト・スーパースター [1]

ジーザス・クライスト・スーパースター(1)

子供の頃から組織勤めをする気のなかった私は、大学では「哲学」か「宗教」を専攻しようと決めていた。
哲学でも宗教でも、人間や文化や歴史と切り離せない。重なる部分が多い。

宗教は【超越者】が前提だが、哲学だって【超越者】を想定する。
異なるのは論理の帰結と関係なく【超越者】を『信じるか信じないか』の違いである。
(大雑把すぎるが、そんな感じ)

哲学はたぶん書籍(論理)だけでもある程度理解できる。
しかし宗教となると実際の人間や実際の生活や実際の儀式というものが切り離せない。
哲学でも実践の重要性を語ることがあるが、極端なことを言うと哲学では実践がなくともよい。論理で終始できないこともないからである。

が、宗教では実践が(宗教というものの定義上からも)必須である。

となると、せっかく大学に行くのなら宗教を学んだほうがいいだろうと、私は考えた。
大学というところには、一般社会には少ない【施設、人間、儀式の場】があるだろうからである。
もっとも宗教を実践をするつもりはまったくなかったが。

とはいえ、宗教を学ぶなら哲学も学ぶことになる。哲学を学ぶなら宗教学も学ぶことになる。

大学での最初の授業は、『宗教的経験の諸相』(W・ジェイムス著)の読解であり、私は今でもその本を持っている。(読まないけど何故か捨てていない)

ウィリアム・ジェイム(1842~1910年)は、米国のプラグマティズムの哲学者、心理学者で、プラグマティズムは実用主義、道具主義、実際主義とされる。

大雑把に言えば、
「現実社会に有効じゃないものに意味はなかろう」
みたいな『米国の哲学』である。(私の勝手な解釈)

と、偉そうに書いてみたが、私にはそれらについて説明する能力も意志も興味も気力もない。

ともかく大学で宗教を学べば哲学も『ついてくる』と思ったので、私はキリスト教を学べる大学に進んだ。
仏教専攻でもよかったのだが、そのころは私はまだ子供だから仏教は『古臭』く感じた。

キリスト教だって十分すぎるほど古臭いのだが、日本では生活に根ざしていないぶんなにやら、私には新しかった。(まあ誤解である。十戒でなく。…オヤジギャグ…)

私は 英語が好きで、勉強のために英語と日本が併記されている聖書を読んでいたからキリスト教に親近感があったのかもしれない。
また小学校の前に教会があり、クリスマスなどに遊びに行って菓子をもらったりしていたことも、キリスト教選択の一因だったかもしれない。

私には個別の宗教に対しての信仰心は一切ない。まったくない。
人間には様々な『体質』があり、たぶん『宗教的体質』というものもある。それが私には、ない。

子供の頃から普通の人より少しだけ余分に宗教に関心があり、書物を読んだり実際の宗教的団体に参加してみたが、ほとんど精神が啓発されることがなかった。そういう不幸な体質なのである。

普通の宇宙的な、あるいは人間存在に根ざしたような感覚での宗教心みたいなものは、私にもある。とはいえ、そういうものなら結局は誰にでもあるだろう。
神社でついお願いしてしまうとか、山頂でつい真剣に太陽を拝んでしまうとか、そういうものだが…。

音楽の話をする前置きではないが、こういう「説明」を少ししておかねば、『ジーザス・クライスト・スーパースター』の話はしにくい。
やはりトラディショナル名解釈と相いれなくとも、宗教映画の側面もあるからである。
そして、この作品のバックボーンは当然『キリスト教世界』だからだ。

言うまでもないのだが、『ジーザス・クライスト・スーパースター』 (Jesus Christ Superstar 以下’JCS’と略す) は、ロックミュージカルで、聖書を題材にイエス・キリストの最後の7日間を描いている。

(つづく)

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2018年12月11日