【れたすはうす】の朱鷺時日誌

『偽者』と言われた話(笑)

さっき(ほとんど最近見てないけど)YouTubeから通知が来て、誰かが私についてコメントした、と。

んん?と思い見てみると、
『MSX版バレーボールゲーム』(私が昔作って『任天堂バレーボールゲーム』の原作になった)をどなたかが投稿してくださってたので、私が原作者としてコメントしていたのだけど、それに対して、
「こういう作ったふりをする偽物がいるんですよね」
というコメントがきていた。

あららら。(笑)

選手の『腰振り』は、宮本さん(マリオ作った人ですよ〜)のお気に入り。当人から直に褒められたのだし。
懐かしい思い出。

あのころ『パックスソフトニカ』という会社があって…。
誰も昔の『任天堂バレーボールを巡る本当の話』 に興味ないか…。




Retasu's House れたすはうす


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2024年04月22日

チーズ消滅?

先日、夕方、自転車でスーパーに行った。
帰り道は、暗くなった。

帰宅後、冷蔵庫に買った品物を入れてて、
「んんん? チーズがないけど? いやぜったいに買ったよな」
と。

でも…。
ない…。

翌日の、写真がこれです。





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2024年04月23日

タカトウコヒガンザクラ

桜の季節は過ぎたが、私は桜が咲くと、いつも思う。

なぜ、花の色が白いソメイヨシノが、この二百年で主流になったのか、と。

木肌がグレーで花が白だから、まるで水墨画。
私はソメイヨシノの下では、花実はしたくない。

能の世界には、幽玄で合うのか?
いやいや、能が盛んだった頃、ソメイヨシノは、ないはず。

私は、タカトウコヒガンザクラ(高遠城址)が好きなので、あれを日本中に植えてほしかった。






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2024年04月25日

年齢確認商品

ビールを買ったら、スーパーのレジで、『年齢確認商品です』って、自動音声が鳴る。
で、レジの方が私の顔をチラリと見る。

そのとき、たまに視線が合うときがある。

お互い、心の中で、
「まっ、こういう儀式ですから」
「はい。わかってます」
と。

私が高校生に見えるわけないからなぁ。





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2024年04月27日

鳥のおこぼれをいただく…

鳥よけの網を張って、一週間。
なんとか鳥の目をかいくぐったイチゴを、やっと収穫できた!

見ていただくのも恥ずかしい貧相なイチゴたちだけど、早く収穫しないと鳥に食われてしまうのだ。
じつは、もっと大きく、キレイで赤いイチゴをたくさん目視した記憶があるが、そういうのは鳥たちに…。

ともかく、1年前にベランダのプランターに植えて、やっと食べれるのだ。
まあ、『鳥の食べ残し』なわけだけど、ありがたく頂戴しましょう。

妻は、農家の廃棄品のようなイチゴをだいじに抱えている私の顔を気の毒そうに見て、薄ら笑いしているが、
見栄えの良いイチゴたちは、その妻に上納されるんである。

「やっと食べれるわね」
「買った方が安くない」

自分で作るから、面白いんだよ!

あっ、私もバカじゃないので、網を二重にするなどの対策を考慮中です。






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2024年04月27日

広島育ちの熱烈G党

『HITひろしま観光大使』活動。
【漫画はにれた】
《ファンタジーなカープ応援団》

私は大阪生まれの広島育ちの、熱烈ジャイアンツファンでした。
かつての後楽園球場では、カープファンで埋め尽くされたレフトスタンドの最前列で、手作りのデカいGマーク旗を振り回したこともあります。😆

怖い物知らず⋯。

かつて、ナベツネが、
「選手ごときが⋯」
と言った瞬間、私の中で全てが冷め(醒め)ました。

その時から、G党をやめただけでなく、野球そのものを観なくなりました。
自分でも不思議です。

子供の時からの親友は、熱烈カープファンです。
二人とも東京にいるので、私がまだ野球が好きだったころは、何度か広島vs巨人のドーム開幕戦を、一緒に見に行きました。
お互いに、相手チームの悪口を言いながら観戦するのです。

試合後は、近くのカープお好み焼きの店へ。

ドームでは面白い体験をしたのですが、その話は、また。

今は、カープファンです。

好きなスポーツはラグビーで、全試合を録画して、2時間ちゃんと観ます。

好きなチームは、クボタスピアーズでして、なんとチームカラーは「オレンジ」

あの球団と同じですねぇ。
無意識のチョイス?

そうでなく、大型フォワードが好きなんです。 
そもそもが、プロレスファンなので、フォワード戦が好きなのです。
フォワード戦を見るなら、接点がアップで見れるテレビが良いのです。

そのプロレスも、三沢選手が広島の試合で⋯。
それ以降は、観れなくなりました。

とか、色々ありましたが、今はカープの優勝を願っている、今日この頃です。�




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2024年05月09日

結婚記念日旅行

<足湯>

「もし、オレがあのときパックスソフトニカと闘って、任天堂バレーボールの創作者として残ってたら、毎年、結婚記念日は、ハワイとか行けたかなぁ⋯(笑)」
と、私。
「正しく生きてきたんだから、いいのよ。きっと、いつか良いことあるでしょ」
「今さら? (笑)」

この滅多に話題にしない会話のとき、私と妻は、山梨のとある駅前の足湯に浸かっていた。
恒例の結婚記念日一泊温泉旅行の帰路であった。

この1年後、
『任天堂バレーボールの原作者さんですよね? 探してました』
と、ある人から、DMが来た。

それから、原作ゲーム『MSXアタックフォー』が復刻され、私が任天堂バレーボールの権利と名誉を奪われた顛末を書いた、
『バレーボールゲームをめぐる本当の物語』
を書くことができた。

妻の予言通りである。
ちょっと良いことがあった。

不思議な話でしょ?
何かの運命だと思ってます。




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2024年11月22日

拾ったドングリを植えた

<ドングリの成長記録>

・3月に植えて、6月に双葉の芽が出て…。
・9月になっても、まだこんな大きさ。
・成長が遅いとは書いてあるけど、それにしても遅すぎない?
・今回、もう一つの鉢の芽は、4枚のままなんだよね~。(だから写真なし)
・大きな鉢は用意してあるんだよぉ。
・早く大きくなっとくれ。




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2025年03月15日

任天堂訪問の思い出(昔話)

<山内社長さんとの思い出>

1986年頃、京都の薄暗い任天堂社屋の1階トイレで、私が一人で壁に向かって用を足していると、誰かが入ってきて、一つ空けたところに立った。
「やあ、本谷さん。来てたんだ」
みたいに声をかけられた。
んんんん!?
山内社長さんであった。

びっくりして、出ていたものも止まった。�

その後、何を話したか全部は覚えていない。

私の原作ゲームの任天堂バレーボールへの移植が決まった時期前後に、私は宮本さんと共同ディレクターだったし、アイスホッケーもディレクター補だったので、任天堂本社に何度か行ったのである。

宿は、長岡京駅近くの従姉の嫁ぎ先だった。

姉の旦那さんは九州男児で亭主関白だったが、私は食事の時に、彼がいつも座るべき上座に、どんと座って酒を飲み談笑した。

後で、従姉が、
「あんなことした人は初めてよ。うちの旦那様の困った顔が面白くて」
と大笑いしていた。

この大好きな従姉も既に亡くなった。
任天堂に行った思い出も遠くなった。

私が任天堂バレーボールの創作者だという事実も、長い年月で消えていた。

でも、私が任天堂バレーボールの原作者で創作者だということは、単なる『事実』なので、『バレーボールゲームをめぐる本当の物語』の出版で、これから知れ渡って行くだろうし、既にゲーム界には浸透してきている。

あっそうだ。思い出した。
山内社長さんは、こう言ってくださったような⋯。
『バレーボールは順調?』
それとも、
『今は、アイスホッケーやってるの?』
どっちだっけ?
別の日?

どちらにしても、私にとっては勲章的な思い出である。

任天堂社屋のトイレと、長岡京市の従姉の家の上座。

変なの組み合わせだけど、私の中で、一つの思い出として、息づいている。




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2025年05月07日

ダルマンバスターズ(ゲームボーイ)

<バースデーさんとの作品>

『小切手事件』の精神的ダメージが蓄積し、ついにゲ-ム界を離れるときに、ゲーム関連のものは全部捨てたが⋯、

思えば、ゲーム開発資料、機器機材などいろいろあったから、保管してたら紹介できたのだけど⋯先日投稿した『VIDEO BOY』(バーチャルボーイのビデオ出力機器)のように⋯。

ということで、あの『小切手事件』で心をやられて全て捨てたわけだけど、なぜだか、これ(ダルマンバスターズ)はまだ持ってる。新品で、そのまま。 

ゲームボーイ本体はないから、多分あっても、何十年前から遊んでいない。

貝獣物語、十兵衛クエストなど、3案件やらせていただいた、バースデーさんとの仕事は楽しかった。
皆さんの顔が思い浮かびます。




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2025年05月12日

期待してる!

<天才(白)ハッカーへの憧れ>

ドラマや映画に出てくるような、
『シャカシャカとキーボードを叩き、一瞬にして正確なコードを書き、敵のコンピューターをコントロールしてしまう』
なんて異常な能力を持つ人は現実には(たぶん)いない。

プログラムなんて、慎重に書いても、バグだらけである。

『任天堂アイスホッケー』や『ファミコン版オホーツクに消ゆ』で組んだ超秀逸プログラマーの中島さんが、ある後輩プログラマーのことを、ため息混じりに、こう言っていた。

「彼はすごい勢いで、プログラムを書く。でもほとんど無茶苦茶だけど」

私なりに勝手に、彼の意を訳すと、
「コードを丁寧に書きなさい。立ち止まることも必要。頑張れ!」
である。(笑)

私が開発者になりたての頃は、記憶装置が音楽テープで、デバッガーもエミュレータもなかった。

プログラムが暴走してパソコンがリセットされるたび、アセンブラも開発中の保存したプログラムも、その都度その都度その都度、音楽テープから読み込んだ。

開発者に必要なものは、まず『忍耐』だと知ることになった。

とはいえ…自分が書いたコードがバグで暴走するのだから、怒ったってしかたないのだし。




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2025年05月15日

コッペパンとメロンパン(あるいはサンライズ)

<わしらは、これがコッペパン>

【HITひろしま観光大使】活動

①丸いパンは、『コッペパン』
(一般的な”メロンパン”と同じパン)

②ラグビーボールみたいなのが、『メロンパン』(中にクリームが入ってます)

広島県の三原市や呉市では、これが普通です。
日本各地所々、こういう名称になってるところがあります。

私、東京に出てきて、私らの『コッペパン』を東京では『メロンパン』として売っていたので、大混乱したのです。





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2025年05月20日

小田原で開催された『MSXイベント参加』

<MSXフリマ in DEVCON11 小田原>

【MSXフリマ in DEVCON11 小田原(5/31〜6/1)】のとき、【日本パーソナルコンピューター博物館】を見学しました。
私が使ってたMSXは、どれだったのか⋯わかりませんでした。

私が最初に買って、初めてゲームを作った『PC-6001』は発見。
テープレコーダーまであって、24歳の自分が、四畳半の万年床であり開発机でもあったコタツに座って、背中を丸めてコードを書いてる姿が思い浮かびました。

後の『MSXアタックフォー』も、そんな感じで創ったなぁ。
でも、任天堂バレーボールを開発してるときは、少しはお金があったかねぇ。

ゲーム界を去る前に、最後にゲームを作った『プレステ』とも再会。
初めてポリゴンでゴルフコース(植物も)やプレーヤーを作ったことを思いだしました。

あれはもう、何十年も前なんだなぁ。

半年前まで、ゲームとは無縁の世界にいて、30年間、主に生産管理システムのデータベース設計をしてた。
ゲーム界に一時復帰してる、この半年間の激動?の日々を、静かな博物館内でちょっと振り返りました。






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2025年06月06日

『ファミコン版オホーツクに消ゆ』、炎上!

<めぐみのバスタオル>シーン

詳しいことは、『1986年のバレーボールゲーム』で詳しく語りますけど、私このXの投稿で、少々炎上しました。(~_~;)

このことで、コラボイベントやラジオ出演が、キャンセルされたんです。
びっくりしました。

いろいろ、SNSの怖さ?も実感しました。

でも、これは、私が今後、きちんと説明すれば、理解されることだと思っています。
私が、デジタイズしたことは事実ですし。

とはいえ、イベントやラジオがキャンセルされたことで、ご迷惑をおかけした方々もおられるので、もちろん私は素直に反省しているところはあります。

詳しくは、連載で語りますね。




【38年後の開発地『百合ヶ丘』探索】



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2025年06月27日

『帰れマンデー』吉川さん&奥田さん」

<広島弁番組>

先日、帰れマンデーが、広島に。
吉川晃司と奥田民生が、⋯とくに、吉川晃司が、ばりばりの広島弁。
なんか嬉しかった。
ここまで、”本物の”広島弁を全国放送で喋るのは珍しいのでは?

吉川晃司が原爆ドーム前で話してたとき、私の父が原爆投下後、瓦礫の撤去に行ったと聞いたことを思い出した。

やはり広島県人(私は広島市内から遠い備後だが)には、カープより、それが根っこにある。

私は、SNSでは、インスタグラムでの『HITひろしま観光大使』活動がメインで、2023年には年間賞もいただいた。
黒黄色の特別な名刺をもらった。
そのインスタでは、いなげな漫画や写真とコラボした投稿をしている。

この回の『帰れマンデー』は、広島県出身者の私にとってあまりに面白かったので、インスタグラムやThreadsでも投稿した。
そちらの私の投稿には、いつもの何倍⋯Threadsに至っては何十倍もの反応があった。

Xは、ゲーム界に一時的に復帰したことで、半年くらい前から再開した。
だから、Xではゲームの話が中心となる。

私は30年近く、ゲームと全く関係ない仕事をしているので、ゲームについては昔のことしか知らない。
自分が開発に参加したゲームも、最近ゲーム界に戻るまで見たことがない⋯バレーボールゲームでさえ、数ヶ月前に、38年ぶりに実物が動くのをイベントで見たという、変な人生なんである。

なので、私のゲームの話題は限られたものしかなく、『HITひろしま観光大使』関連投稿を混ぜて、広島PRをしている。
反応は、すごく薄いけど。




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2025年07月01日

広島県観光連盟のエキスパート賞の景品

<三原市の桜南食品の”スマックゴールド”>

【HITひろしま観光大使】活動の思い出。
2023年度の『エキスパート賞(県外部門)』の表彰式(2024年)は、脊椎の手術後でもあり(今は走ってます)、広島には帰省できませんでしたので、ZOOM参加。会場に行けなくて、残念でした。

副賞は、三原市桜南食品さんの『スマックゴールド』30本にしました。

宮浦にあった市民プールで、これを飲むのが大の楽しみでした。

私んちは、お好み焼き屋だったので、飲料も販売してましたが、家では牛乳は飲み放題でしたが、炭酸系は基本、読ませてもらえませんでした。
夏休みに市民プールに行き、そこで、スマックで、グビグビの炭酸を感じる幸せを噛みしめて⋯飲みしめて?ました。(笑)




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2025年07月04日

7月21日『任天堂バレーボール』発売記念日ライブ

<市川さんのYouTubeチャンネルにゲスト出演>
【任天堂バレーボールを原作者&移植ディレクターの私がYouTubeで語る】

当時(38年前)のことを第一当事者の私が、ライブで話しました。
そのアーカイブができました。

そのYouTubeは、ここ

大げさですが、この世にバレーボールゲームがあるのは、存在を消されていたけど、私が創ったからです。

それを知ってほしいし、ほめてほしい。(笑)
市川さん、ありがとうございました!。

連載『1986年のバレーボールゲーム』で、写真や図を用いて、詳しく解説しています。

『MSXアタックフォー』(任天堂バレーボールの原作)の紹介は、こちら




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2025年07月24日

HITひろしま観光大使活動<白い粉>

<広島県には、お好み焼き店が、”おいい”んじゃ>

広島といえば、お好み焼き。
高価な”白い粉”は、貴重品!

私んちは、お好み焼き屋をやってましたから、子供の頃、私は、いくらでも自分で焼いて食べてました。
私の身体は、お好み焼きでできてます。

米価が高くても、大丈夫?
お好み焼き、食べますから

とはいえ、備蓄米、カリフォルニア米…、まだ買ってます。




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2025年07月26日

女子ラグビー・ワールドカップのこと

<レズリー・マッケンジーHC>

いつ見ても、レスリー・マッケンジーHC、かっこいい!

もちろん、サクラフィフティーンも、かっこいい!
最近は、スポーツは、ラグビーしか観てない。
J-Sportsで観れるラグビーゲームは、ほとんど観てる。

WOWOWも契約して、そこのラグビー放送も観たいけど、ん~我慢しよう。

リーグワンでは、マルコム・マークス選手が、かっこいいので、私はオレンジアーミーになった。

この歳になっても、『かっこいい!』が、推し基準。




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2025年07月28日

宮本茂さんの本

<『ゲームクリエーター』宮本茂さんの著作>

私、フリーランスでしたが、パックスソフトニカで、『任天堂バレーボール』『任天堂アイスホッケー』の開発で、宮本さんと仕事させていただきました。
ほんとうに、私の開発者人生の中の、宝物の時間でした。




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2025年07月31日

開発に参加した作品『貝獣物語』

<パックスソフトニカを去った後の最初の作品>

1988年の『貝獣物語』(ナムコ、バースデー)
今年3月のイベントでお会いした日本在住20年のマイクさんからのメールが来て、
『スタッフの【スタジオ51】ってなんですか?調べてもわかりません』
と質問されました。
ご存知のように、私、わけあって、自分が開発に参加したゲームを持ってないし、見ることもなく30数年経ってます。
(そのあたりのことも含め、任天堂バレーボール開発時代のことを、近々HPに連載します)

ということなので、私はマイクさんのこの質問の意味がわからなかったのですが、調べると確かに、
『プログラム︰スタジオD51』となっている。
はて?
私の名前は、サウンドプログラム、サウンドエフェクトのところに記されている。(データ圧縮解凍プログラムも担当)
その他のすべての全体メインプログラムは、私の師匠の田村幸雄氏(イマージュソフト、パックスソフトニカ社長)が担当した。
だから、ここは、
『プログラム︰田村幸雄』
でいいはず。
これは、その後の『じゅえべえくえすと』も同じスタッフなのだし。

さて、この『スタジオD51』とは何なのか?
37年後に出てきた謎なのです。
どなたかわかれば、ご教授ください。




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2025年08月05日

地元のバレーボール

<三原三中と帝人三原>

【バレーボールの話】
私がバレーボールゲームを創り、それが任天堂バレーボールとして結実するのだけれど、私とバレーボールのつながりは、故郷の三原市に原点があるのです。
..............
かつて広島県三原市には、実業団バレーボールチーム『帝人三原』があリました。

…プロジェクトXみたいな出だし…。

広島県は昔、バレーボール県で、『専売広島』は日本リーグの強豪で、ミュンヘンオリンピック金メダリストの猫田選手が所属していました。

私は、中学校(三原三中)でバレーボールに熱中し、学校を風邪で休んでも、放課後の部活には必ず出る!という真面目さでした🤭。

授業を休んだ日の夕方に、私が校庭のバレーボールコートでボールをひっぱたいていると、それを見た先生が、
「あっ、おまえ何しょ~るんじゃ!病気じゃなぁんか!」
と、私を心配するあまり、強めに怒鳴ってくださってたくらいでして⋯。(^o^)
「もう治ったんよ!」
と、私は平然と、回復の速さとバレーボール愛を表明し、先生を安心させてあげました。

そんな私、帝人三原の練習に参加(見学に行ったら、ちょっとやらせてもらえた)したことがあります。

中学生が大人の高さのネットでプレーするのは、ゲゲゲっ!でしたが、楽しかったです。
球拾いは。

ミュンヘンオリンピックで日本男子が金メダルを獲ったこともあり、私も、
「オリンピックに行くんじゃ!」
と妄想していた頃です。

そういえば、我が三原三中。
私が三年生の時に、真夏の野外の鷺島での予選で2位になり、初めて県大会に行きました。
別に私が活躍したわけではないですけど。

県大会は三次市でありました。
初めて、体育館で試合しました。
だいじな県大会で、初めて体育館で試合…。
…この中学バレー部の話、すごく面白いのですが、長くなるので割愛します。
残念です。

そのあたりも含めて、『任天堂バレーボール』の検証をする【1986年のバレーボールゲーム】を、私のサイトで連載しています。

https://lettuce-h.co.jp/1986vbg.html

帝人三原は『実業団リーグ(2部リーグ)」だったのですが、街に本格的なバレーボールチームがあったんだから、すごいでしょ?
そういう環境で育って、バレーボールに触れ、熱中し、バレーボールゲームを世に出したのです。

私は、この10年後にゲーム開発者になり、MSXでバレーボールゲームを作り、それが私の許諾で移植された、『任天堂バレーボール』のディレクターを、あのレジェンド宮本さんと共同でしました。

世界で400万本売れた『任天堂バレーボール』の原作者でディレクターですから、ぶち大金持ちになる!はずが…。(~_~;)

今年になって、あるきっかけで、そのあたりの内実の本を書いたり、情報発信しています。

私の一つの『原点』が、三原市のバレーボールなのです。
地元の『FMみはら」さんか『MCAT』さん、話題が枯渇したら、私の取材、どうですか?😉。




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2025年09月24日

塩谷哲&八神純子さん

<音楽のレシビ>

『1975年第10回ポプコン広島県大会』は、三原市(当時の文化会館)で開催されました。
記録がなく記憶だから、1974とか1976年かも⋯。
私のいたバンドは、下手だったので、週末に広島ヤマハから担当者が来て、三原のヤマハで特訓を受けました。
ポプコンは、楽曲勝負なので、技術が下手なバンドでしたが出れたのです。(県大会敗退)
その時の、全国大会のゲストの一人が、八神純子さんでした。
もう、雲の上の存在でした。

1枚目の写真は、塩谷哲さんとのコラボライブ『音楽のレシピ チョコっと Live(2016年)』のときのもので、私は八王子で観ました。

ポプコンに出た時のバンドのメンバーの親友が、オルケスタ・デ・ラ・ルス時代からの縁で、塩谷さんのマネージャーだったので、終演後、楽屋にご挨拶に行きました。
その時、そこに八神純子さんもいらして、私は大興奮しました。
ポプコン人からすると、大スターで憧れの人ですから。

私と妻は、緊張しながら握手していただいきました。
これを投稿するため、さっき妻に、その話をしたら、
「八神さんの手は、ほんと、すごく柔らかかった」
と思い出に浸っていました。

私が八神さんと握手してるとき、私の親友のマネージャー(バレーボール部も一緒、バンドも一緒、東京で一時期同じアパートにもいた)が、やってきて、
「あっ。ちょっと目を離した隙に、おまえ、なにしょ〜るんじゃ!」
と、私がなれなれしく八神さんの手を握ってるのを見て、言ったのが可笑しくて、今でも、覚えています。

今日(2025/8/16)は、下関で、『音楽のレシピ チョコっと Live 2025』、いま、この時刻に開催されてます。
(2枚目の画像)





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2025年08月16日

中島みゆきさん

<NHKの番組>

録画していた『NHK MUSIC SPECIAL 中島みゆき』を、やっと観た。
落ち着いて、じっくり観たかったので、今日になった。

スポーツ⋯たとえば、少年サッカー選手は、たいがい地方大会で負ける。
どこかのチームが全国大会で優勝し、そこには、その後、大活躍するスーパースター選手がいたりする。

私はバレーボールの話ばかりしてるのだけど、実は高校のときは、バンドもしてました。

年齢は違うのだけど、中島みゆきさんは、私の『同期』のスーパースターなんです。
1975年のポプコン、私、広島県大会に出ました。
スポーツでいうと、地方予選。
私は、しっかり予選落ち。
で、
その年の、グランプリが、中島みゆきさんの『時代』なんです!

私にとっては、彼女は、特別な存在で、特別な同期です!
同期と言うのも、おこがましい⋯。
泥の中の『スッポン』が、テレビで頭上の『月』を見あげているわけです。

中島みゆきさん、彼女…ホントにスゴイなぁ。
しびれます。




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2025年08月15日

広島県三原市の『やっさ祭り』

<三原市のキャラクター・やっさだるマン>

広島県三原市の、50th『やっさ祭り』。
『やっさ踊り』を踊り狂って?、盛り上がって終わりました。

この機会に、三原市の公式キャラクター『やっさだるマン』をご紹介。

三原城(浮城)築城を祝って踊られた『やっさ踊り』と、三原名産のダルマの合体キャラです。
推定460歳。
花の慶次と同じ頃の生まれ。

私の【漫画はにれた】の勝手な設定では、こんな感じです。
・小早川家の侍大将
・智将:小早川隆景公の股肱の臣
・現代の価値観を気にしない戦国武将
・食い逃げ、食べ物窃盗のクセあり
・福山城主『くわいちゃん』や、尾道の顔役『オノレモラ』、尾張の『信長くん』らと、ゆる〜い抗争中
・三原駅前の『ゑびす家』さんの、たこせんが大好物
・ちょっと見は、なんかキモいけど、馴れてくると、キュートにしか見えなくなる!

よろしくお願いします!




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2025年08月14日

広島県三原市の変なジャンケン言葉

<『じっしんけ』と『月曜から夜ふかし』>

三原市のじゃんけん言葉『じっしんけ』
8月7日放送「秘密のケンミンSHOW極」の「敏腕ケンミン刑事」で、
『「勝負でしょ!」というジャンケン言葉は、三重県の一部地域で使う』
と紹介されてました。

んんん⋯じゃんけん言葉⋯といえば、
ご記憶の方もおられるでしょうが、
数年前、同じ日テレの『月曜から夜更かし』で、
三原市の『じっしんけ』
が紹介されたことを思い出しました。

私その時、三原市取材の後、私に連絡が来て、東京で締めのインタビュー受け、それも放送されました。

だから、もう一度。

『じっしんけ!』ってなんじゃ?

ちなみに、私のエリア(皆実町・南小学校)では、それに続いて、

『よ~ろっぱ!』
『しつこいね!』

と言ってました。
今はどうなんだろ?






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2025年08月14日

【1986年のバレーボーゲーム】のYouTube

<一ケ月で、1000回視聴超え>

Micky Albert(市川幹人)さんのYouTubeにゲスト出演した動画が、1000回視聴されました。
この回数が多いとは思っていませんが、何しろ38年も前の古い話ですので、関心を持っていただいた皆さまには、感謝です。�
創作者の私にしか語れない内容です。

この動画、2時間以上あって、バレーボールゲーム以外の話も面白いのですが、バレーボールゲームを語ってる部分をテロップ付きの切り抜き動画にする予定です。
また、この動画で話していること、話していないことを含めて、新たに、『1986年のバレーボールゲーム』という文章を、そろそろWEBサイト(あるいは noteなど)に載せていきます。

よろしくお願いします。




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2025年08月17日

留萌駅の思い出

<廃線~廃駅>

留萌駅舎も取り壊されるんですね。
2019年1月に、仕事で留萌に行った時に食べた『にしんそば』と、お店の写真を再投稿します。

私は、このころ『国交省の建設関係の研究事業』の末端のお手伝いをしていました。
具体的には、工事状況を撮影した映像をタイプラプスにし、それをデータベース化して、様々な条件で検索して再生するシステムを担当していました。

春、夏、冬と留萌を訪れました。
色々思い出はあるのですが、庶民的な知元の方が行かれるお寿司屋さんで接待を受けたのですが、知らない食材なども出てきて、ともかく新鮮で美味しくて、
「地元の人が食べてるものは、こういうものか!」
と、びっくりしました。

留萌へは、飛行機と鉄道で行きました。
留萌本線は、徐々に廃線になる計画でしたので、様々な季節に車窓の風景を見れたことは、良い思い出になりました。

『ファミコン版オホーツクに消ゆ』の情報交換で知り合った、北海道在住の『Teshima』さんとは、この留萌駅の話などもしました。






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2025年08月22日

うちの玄関

<バレーボールが風水?>

このバレーボール、いつ買ったのかなぁ。かなり古いデザイン。
近所の子に、
「学校でバレーボール部に入ったから教えて」
と言われて、家の前でトスの基本を教えた時に使ったこともあるります。

さて、私が原作で移植ディレクターである『任天堂バレーボール』の”いけない”話。
もう解禁でいいでしょう。
『1986年のバレーボールゲーム』
私のサイトで公開中。
レアなゲーム史の話。どうぞ。




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2025年10月14日

ミュンヘン・オリンピック新聞記事

<男子バレーボール金メダル(1972年)>

うーむむ。
すごいの見つけた。
1972年、ミュンヘンオリンピック。
私のバレーボールゲームの原点。
MSXアタックフォーの原点。
任天堂バレーボールの原点。
バレーボール部だった私は、念願の県大会出場を目指して、野外コートで擦り傷だらけで練習にはげんでいた。
テレビ中継を観て、泣きました。

私の熱いバレーボール愛については、こちらを。




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2025年10月26日

曹操じゃ!

<三国志の英雄は孔明?いや、曹操殿でしょ!>

20年くらい前のもの。
外箱は開けた。
でも、ビニール包装はそのまま。
三国志演義で、曹操は、いわゆる『ヒール』なんだけど、本物の英雄だし、彼あっての劉備や孔明や関羽。
とはいえ、私の趣味漫画【はにれた】では、”孔明ちゃん”は出てくるけど、”曹操くん”は出てこない。
いや、出そうかな⋯🤭。




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2025年10月27日

私のゲーム開発青春の地『百合ヶ丘』探索

<38年ぶりの百合ヶ丘へ>

11月1日に、『ファミコン版オホーツクに消ゆ』の開発地『小田急線百合ヶ丘駅近辺(神奈川県川崎市)』を、38年ぶりに訪問しました。

SNSで以前から知り合っていました『Teshima』さん( @teshimatakashi1 …北海道在住で、”オホーツクに消ゆ”の大ファン&研究者)が、百合ヶ丘を初探索されるということで、私が案内役として同行させていただき、やっとお会いすることができました。

また、『Teshima』さんのお友達の『なるお』さん( @syntaxerrors72… 百合ヶ丘の地理に詳しい方)が助っ人として来てくださいました。
私にとっては、ほぼ40年ぶりの百合ヶ丘でしたので、案内役のはずの私より街に詳しい『なるお』さんの存在は本当に助かりました。

小一時間、3人で、懐かしい場所をゆるゆると歩きながら見て廻りました。

『ファミコン版オホーツクに消ゆ』の開発時、私は徹夜続きで、床に寝転がって寝ていたのですが、パックスソフトニカの社員だった現在の妻が、床で寝ていた私を見て、「あ〜邪魔!」と半分キレながら掃除していたのを思い出しました。😅

そういう思い出のある開発室のあったビルも、なんと健在でした!!
(その建物は現役で使われているので、ご迷惑にならないよう写真は載せません)

百合ヶ丘は、『ファミコン版オホーツクに消ゆ』の開発地であり、私にとっては、パックスソフトニカでPC-6001やMSXのゲームをいくつも委託販売し、私の原作ゲーム『MSXアタックフォー』から『任天堂バレーボール』への移植ディレクターをした特別な場所でもあります。

青春時代のゲーム開発者としての様々なことを思い出しました。
『Teshima』さん、『なるお』さん、楽しい時間をありがとうございました。

『オホーツクに消ゆ』百合ヶ丘探索は、『Teshima』さんや、『なるお』さんの、Xの投稿などもご参照ください。




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2025年11月01日

うちの猫、私の秘書

<我が家の黒猫>

うちの猫。
わたしの秘書。
なぜなら、筆記用具とUSBが入ってるから、必要な時に出してくれる。
(見た目は、私が自分でファスナーを開いて出しているように見えるが、それは気のせい⋯)。




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2025年11月02日

忘れていた自作ゲーム『ME RUN ME』

<MERUN ME>発見!
秋川さん(秋川藤志@akikawa134)は、私が40年くらい前に作った、PC-6001(mkⅡ)のゲームを、雑誌のだ脳リストからの打ちこみで、何作かを復元してくださっている大恩人。
秋川氏のお陰で、私が開発者なのに持っていない自分のゲームが、いくつも動くところが動画で観れた。
また、そのため、『パックスソフトニカ小切手事件』で、精神に壊滅的打撃を受けた、私自身のゲーム開発者としてのアイデンティティも復活できた部分がある。

本当に、感謝しかない。
秋川さん、本当にありがとうございます。

その秋山さんが、2021年8月9日に、商品化されていない…すっかり忘れていたが、何かの縁で私自身が雑誌に投稿していた『ME RUN ME』というPC-6001のゲームも、売り込みで復活させてくださっていたのを、先日、たまたま発見!した。

「う~む…。こんなことがあるんだなぁ」
というのが、私の驚きの感想。
この『ME RUN ME』というゲームをすっかり忘れていたので、検索もしなかった、ということなのだ。

ふむむ…。
このキャラクター。
『穂高朱鷺』という開発者名。
雑誌に寄稿した、癖のある文章。

わ、た、し、だ!

40年も前(1983年?)に作ったけど、製品化されず、なぜか雑誌の投稿が残っていて、それが打ち込みで再現されるとはねぇ。
この歳になって、自分のゲームと文章に出会えるなんて…。
あの頃、寝ないでゲームを作っていたからなぁ。

よく作っておいてくれた!
ありがと~!
あのときの、オレ!

なんかの番組の、『自分自身へのビデオレター』みたい。

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以下は、私のXの文章。

こ、これは?
穂高朱鷺!
私!?😳😳
秋川さんは『それいけくるくる』などを打ち込みで復活していただいてる大恩人。Xでも感謝投稿したこともある。
ただ、この『ME RUN ME』は覚えていない。
今年、一時的にゲーム界に復帰し昔を振り返り色々書いたけど⋯。
確かに、私の作りそうなキャラクター⋯。






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2025年11月05日

みかんの食品サンプル

リアルすぎるよ!>
広島県呉市の『ハンドワークス・リナイン renine』さんの、食品サンプル(food replica)【ミカン】のストラップが届きました!
SNSで見て、一目惚れ。
すぐ注文しました。
私の大好きな、『瀬戸内の早生みかん』を、いつも手元に!
さて、どのリュックに付けようか⋯。
キーホルダー?
考え中。

リュックにつける前に、食べちゃうかも。







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2025年11月09日

学生時代の北海道牧場ハイト

厚岸・小野牧場>
【ファミコン版オホーツクに消ゆ】の開発に関わる約10年前の北海道にて、ひと月過ごす。
このとき、知床羅臼岳に登り、オホーツク海も見ました。

私が、19歳の時に、北海道厚岸の酪農牧場で、ひと月アルバイトしたときの写真。
仕事は、
朝、4時半起床。
5時〜7時半、乳搾り、餌やり
朝食。
8時〜12時、冬用の保管牧草採取(梱包、サイロ)
・たまに、牧場の冊用の木材打ち込み
・1日、200本打ち込んだ日は、手にまったく力が入らなくなり、夕飯のとき茶碗や箸が持てませんでした。
昼ご飯
1時から3時、牧場作業
3時、おやつ
3時半〜5時、牧場作業
5時〜7時、乳搾り、餌やり
夕飯
お風呂
農家さん家族(とくに子どもたち)と交流
10時、就寝

きつかったけど、人生で一番の思い出の日々。
脂肪がなくなり、5キロ体重が増えました!
全部筋肉に!❢

酪農は、乳搾りがあるため休みはないのです。
1日だけ、農協主催のバス旅行がありました。

バイト終了後、知り合ったバイト仲間の先輩に誘われ、知床羅臼岳に上りました。
35kgの荷を背負って、熊よけの笛を、ずっと吹きながら。

捕獲されていた?檻の中の巨大ヒグマを斜里で見ました。
今の熊騒ぎ、多少とも実感できます。

ともかく、若かった。










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2025年11月10日

熊と羅臼岳

昨今の熊問題と初登山>

私が初めて登った山は、知床羅臼岳でした。
羅臼の町では、盆踊りの笛太鼓が鳴っていました。半世紀近く前のことです。

私は大学一年生で、北海道厚岸の酪農牧場で、ひと月住み込みアルバイトした後、バイト仲間であった別の大学の先輩に誘われて、登山をすることになったのでした。

山に詳しい先輩の指示で熊鈴をつけ、熊よけの笛を羅臼平付近まで、時折大きく吹きながら登リました。

その夜は、羅臼平にテントを張り、先輩から、
『福岡大学ワンダーフォーゲル部ヒグマ事件』
を詳しく聞きました。
臨場感があり過ぎて、夜の知床のテントの中で聞く話ではありませんでした。

翌朝、山頂から御来光を拝み、オホーツク海を眺めながら少し縦走しました。
下山路で、私の吹く笛は、より頻繁に、より大きな音になりました。

東京に帰宅してから、吉村昭氏の『熊嵐』『熊撃ち』を読みました。
その本が、今も私の書庫にあります。

報道で、そういうこと、いろんなことを思い出しました。
羅臼岳の登山路。
羅臼平でのテントの夜。

今回のこと、ほんとうに残念でなりません。心が痛みます。

(写真は、その時の羅臼平からの羅臼岳、羅臼岳山頂からのオホーツク海です)






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2025年11月15日

ひょっこりひょうたん島のフィギア

なぜか、ずっと保管し続けているもの>

『ひょっこりひょうたん島』のフィギュア。

ずっと、押し入れの何かの箱の中で眠っていたのを、何年か前に発見。

景品みたいだけど、よく覚えていない。
京王電鉄⋯のプレゼントキャンペーン⋯。
京王電鉄?
となると、幡ヶ谷に住んでたころかなぁ。

としたら、新宿まで出て、小田急で、百合ヶ丘か、その後移転した向ケ丘遊園のパックスソフトニカに通ってた頃。
つまり、『MSXバレーボール(アタックフォー)』それの移植の『任天堂バレーボール』、『ファミコン版オホーツクに消ゆ』、『任天堂アイスホッケー』などを開発してたころ⋯。

だから、当時の思い出として保存してたのか?
なにせ、ゲーム開発者としての関連物は、ほとんど捨てたから、これくらいは残しておこうと、と?

それとも、その時期じゃないのか?

じゃ、なぜ、これをきれいに保管してきたのか?
謎だ。
もちろん、ひょっこりひょうたん島を幼少の頃、観てた記憶がなんとなくある懐かしさから保管していたわけだけど。

とはいえ、故郷広島県三原市には、ひょっこりひょうたん島(有竜島)が実際にある?のだし。







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2025年11月18日

孔明クイズ~どっちが大きい?

< 漫画はにれた・孔明ちゃんクイズ>
【第1問】


【第2問】


今日の問題は、世知辛い地球上のことではなく、太陽系まで飛び出してみましょう。

とはいえ、東大生が考えたような、なんたら謎解きクイズみたいな、妙にひねくれた謎解きとかでもなく、
単純明快、一刀両断…これは違う…、
二者択一、石川啄木…これも違う…、

「どっちなん?」 という、単純で脳細胞は刺激されない、時間も無駄にならない。
知ったからといって、何の足しにもならない。

そういえば、私。 子供の頃、2本のバナナの大きさを瞬時に判定し、弟に大きな方をあげようと?、
まっさきに、
「わし、こっち!」
と、小さい方のバナナを取ると、
疑心暗鬼の弟(…私を信じていない)が、
「いんや!わしも、そっちがええ!」
と、私の手にある微妙に小さいほうのバナナを欲しがるのでして…。

しかたなく、私はその小さいほうのバナナを弟に譲るという、兄弟愛。

今でも弟に、 「兄貴には騙された!」 と、時々、半ば本気で恨み言を…。

おいおい、昭和の生存競争じゃろうが。

あっ、余談が過ぎました。

では、必死こいて、このクイズを考えてください!

(答えは、↓)



























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2025年11月20日

今日は、フレディ・マーキュリーの命日

< フレディ・マーキュリーの命日>
中学生の時、夜の渋谷陽一氏のラジオ。
Queen。
その時、初めて聴いたのは、なんだっけ?

ともかく、衝撃!

私、ギターは弾いてたけど、まだバンドは組んでなかった。
けど、何年か後に、ポプコン県大会出たり⋯。

その頃、三原市民会館で、なんと!
『オーガバトル』
を演りました。

私、ボーカル。

なんと、恐ろしい!!😱
とにもかくにも、若気の至り⋯。

私にとって、フレディのイメージは、長髪。
1976年に、姫路ライブの前列で観たフレディは、こうだったし。




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2025年11月24日