遠い昔…1980年代半ば。 楽しかった青春のゲーム開発の日々。
眠気やバグと闘いながら、 ドット絵を作り、コードを書いた。 考えて悩んで試して、何度も暴走するプログラム。
ふぅ~…そうやってフリーランスとして 独自に創った念願のバレーボールゲームは、、 権利者の私(本谷)による移植許可と、 ゲーム構造開示と、全面的監修で、 その移植版が、任天堂ブランドになった。
「やったぞ!おれ!!」
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 協力会社のパックスソフトニカと 一緒に行った、ラスベガスCES グランドキャニオンで、ぬか喜び大爆発!の本谷くん。
(1987年1月13日 橋下氏撮影)
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  これほど親密あり、バレーボールゲームの創作者であり、 最重要人物である私(本谷)について、 橋下氏は、なぜ言及できないのか? それが、この物語のキーーポイントです。
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このあと…私(本谷)は、裏切られ 天国から地獄へ真っ逆さま |
そう!
私(本谷)は、のちにレジェンドとなる 任天堂の宮本さんと仕事をし、 もっと、もっと一緒に、 もっと面白いゲームを創るぞ! と、希望に満ち満ちていた。
ところが…
何年も協力していた懇意の会社 パックスソフトニカが、 契約書も作らず、勝手にお金を使い込み…。 私を騙して、脅迫までした過去…。
任天堂バレーボールの歴史に汚点が…。
そう…約40年前に、 私、トンデモナイ目に遭ったわけでして。
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私(本谷)がそのことについて沈黙し、 開発者人生を失うかわりに、 任天堂バレーボールは世に出ました。
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時は流れ、2025年 ”あの不正の続き”が、まだあったとは…。
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事の発端は、 1986年に、2つのバレーボールゲームが誕生! したこと。
移植版の『任天堂バレーボール』は 世界で何百万本も売れました。
そのバレーボールゲームの正しい歴史を 創作者であり、移植版ディレクターである 私(本谷浩明)が、
長く隠されてきた闇の深さに負けないよう、 明るく、覚悟を持って、お伝えします。
では、はじめましょう。
健全なゲーム界の未来のため、 そして 私(本谷浩明)の名誉回復のために。
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【正しくない人名の表記】 解説編 |

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あ~、私の許可と指導で移植をした橋下氏は、 なんと、ちゃっかり、 任天堂バレーボールの創作者に成りすましたのか…。
コンプライアンスは、 大丈夫なのだろうか?
パックスソフトニカが、その不正により、 任天堂さんの名誉とコンプライアンスを 汚していたことを、私は知りました。
私があの時、 バレーボールゲームが潰れることを覚悟して、 パックスソフトニカの不正を糾弾していれば…。
そう、私には、パックスソフトニカの不正を 放置してしまった責任があります。
このゲーム画面の人名表示は、明らかに、 『パックスソフトニカによる虚偽報告』 ですから、 当事者の私は、強く深い憂慮を持ちました。
これについては、原作者&ディレクターとして、 正式にしかるべき方法で確認を行います。 それが、私(本谷)の権利であり義務ですので。
その準備として、これを書いています。
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| 私の思い |
ゲーム業界では、 『誰が権利者か?誰が創作者か?』 という紛争は珍しくないそうですが、
この『任天堂バレーボール』の件は、 そういう話ではありません。
これは世界企業となった任天堂さんの ブランドで出されているゲームの話です、
私(本谷)のバレーボールゲームを ブランドにしてくださり、 移植開発時に、たいへんお世話になった 大好きな任天堂さんの名誉のため、 任天堂さんが、パックスソフトニカの不正と 無関係であることを明確にするとともに、
ゲーム史のためにも、社会正義のためにも 、 本当の経緯が広く世に知られ、 過去が正されなければならないと考えます。
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【もう一つの大きな疑問 】
パックスソフトニカが、原作権利者である
私(本谷浩明)を”消した”手段の解明 |
私(本谷)は、フリーランス開発者として、バレーボールをMSXでゲーム化し、任天堂バレーボールの原作者として、宮本さんと共に移植ディレクターをしました。
後に、そのご縁で、『任天堂アイスホッケー』でもディレクター補を務めました。
私(本谷)はフリーランスでしたが、社長の田村氏との友誼もあり、私のバレーボールゲームで、そのとき潰れかかっていたパックスソフトニカを救ったことで、『社外部長』にもなりました。
バレーボールゲーム原作者&移植ディレクター、そして『フリーランス部長』という立場で私(本谷)は名刺も作ってもらい、社員さんの結婚式に出たり、任天堂さんとも交流していました。
その私(本谷)が、『小切手事件』のために、任天堂さんに挨拶もできず(※できなかった理由は連載で書きます)、パックスソフトニカから突然に姿を消すことは、とても不自然なことでした。
「バレーボールの原作者の部長の本谷さんは、どうしました?」 と、任天堂さんは、不審に思って質問されたはずなのです。
私(本谷)は、『任天堂バレーボール』の原作者で、ディレクターであり、『任天堂アイスホッケー(中島氏がメインプログラマー)』でも、パックスソフトニカに窓口として、宮本氏のディレクター補を務め、任天堂さんに対しては『パックスソフトニカの(社外)部長』として仕事をしていたからです。
『私(本谷)の離脱』について、パックスソフトニカから任天堂さんに、どういう説明がされたのか?
パックスソフトニカの暗い体質から考えて、 『私(本谷)に関する虚偽の説明を任天堂さんにした。それは私の名誉を傷つけるものであった可能性がある』
という、私は強い危惧を持っています。 そういうことでなければ、私が突然姿を消した理由を合理的に説明できません。
その事実確認をふくめて、【私(本谷)の名誉回復をせねばならない】
という思いで、これらを知った2025年から活動しています。
このことも、これから実際に関係者(会社と個人)に取材し調べます。
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『任天堂バレーボール』の原作ゲーム が、こちらです。 |
この当時、この形式でバレーボールゲームを開発したのは、私が世界初でしょう。 この『MSXバレーボールゲーム(アタックフォー)』は、 本谷浩明が、すべて1人で作業して完成させました。
重要なことですので、強調しておきます。 原作ゲーム『MSXバレーボール(アタックフォー)』は、 パックスソフトニカ(橋下氏)とは全く無関係に、 私(本谷 Hontani)により創作されました。
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1985~86年、私はパックスソフトニカで、 ファミコン版への移植のために、宮本氏との打ち合わせ、 移植担当の橋下氏への指導監修をしながら、 この原作ゲームの最終調整(プログラミング)も していましたので、超多忙でした。
『MSXアタックフォー』は、パックスソフトニカから、 任天堂バレーボールに半年早く(1986年春)に、 発売されました。
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 【MSXバレーボール】
開発者 :『本谷浩明』(単独)
販売名 :『アタックフォー』
受託販売会社:『パックスソフトニカ』
開発期間: 『1984~85年』
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YouTubeでの紹介は、こちらで観れます
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(親会社)パックスエレクトロニカ および パックスソフトニカ (その後継会社or個人)の不正 の説明ポイント |
| ④ |
親会社パックスエレクトロニカの不正体質(橋下氏自身の証言) 立本氏が、私(本谷)に無断で任天堂さんと契約をし、入ってきたお金を勝手に流用(パックスエレクトロニカ、パックスソフトニカという会社の話としては、背任や横領に近い行為の可能性??)。
⇒ 私(本谷)も橋下氏も、おかしなお金の動きを知ってはいて、話し合っていたのだが…。 |
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↑ お金のおかしな流れについては、パックスソフトニカ(パックスエレクトロニカ)の社内問題にすぎませんので、フリーランスの私には、当時、どうしようもありませんでした。
強く抗議はしましたが、結局パックスソフトニカと自分を護るため、役員の橋下氏は、立本氏の不正に与しました。 私(本谷)には悪夢であり、残念無念なことでした。
↓ ただし、次のことは対外的(任天堂さんにも関わる事象)なことであり、私が当時、そしてその後も沈黙してきた理由の一つです。
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| ⑤ |
『小切手事件』(原作権利者の本谷を排除) お金を流用したことを私(本谷)に追及され、パックスソフトニカの危機を助けた私(本谷)を裏切り、脅す(家族を含めて、身の危険も…)という行為に至った。
⇒ パックスソフトニカ(パックスエレクトロニカ)は、 ファミコン移植版バレーボールゲームの権利に関して、 『権利はパックスソフトニカあるいはパックスエレクトロニカにあるという虚偽説明』 で、任天堂さんと契約した。 (詐欺的手法の可能性??) ↓ これが当時、私(本谷)がパックスソフトニカ(パックスエレクトロニカ)の不正のことを任天堂さんに言えなかった要因の一つです。 このことで騒ぎになれば、バレーボールゲームは発売中止になるのではという危惧が、私にありました。 それは避けたかったのです。
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↓ 私(本谷)のゲーム開発者人生・キャリアの崩壊 。 当時は絶望感と体調不良…。 長年消えぬトラウマ。
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| ⑥ |
パックスソフトニニカとその後継組織or個人による、不正な権利行使と創作者の隠蔽と成りすましは、2026年現在も継続中。
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 パックスソフトニカについては、ここで説明
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1986年発売の ■ 2つのバレーボールゲーム情報 ■ |
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2つのバレーボールゲーム 発売日と関連会社 |
私(本谷)はフリ―ランスでしたので、自宅作業もしましたが、 この2つのバレーボールゲームは私のゲームですので、 一時期は同時進行でしたが、 原作の『MSXアタックフォー』が 先に発売(開発完了)されたのち、 私は移植版のディレクターに専念できました。 |
| MSXアタックフォー |
任天堂バレーボールの直接の原作ゲーム |
| 発売日 |
1986年春 |
| 開発者 |
本谷浩明 (単独開発、フリーランス) |
| 受託発売会社 |
パックスソフトニカ |
| 権利者 |
本谷浩明 |
| 任天堂バレーボール |
本谷浩明の許諾とゲーム構造指導監修で移植された。 |
| 発売日 |
1986年7月21日 |
| 移植請負開発者 |
パックスソフトニカ (← 本谷浩明のゲーム構造指導による) |
| 移植協力会社 |
任天堂 (仕様技術指導、ゲーム演出指導) |
| 発売会社 |
任天堂
(契約形態は不明。本谷にはパックスソフトニカから、全く説明がないまま) |
ゲーム構造考案者 原作権利者 移植ディレクター |
本谷浩明
作業を行った移植プログラムについては、パックスソフトニカにも権利があるが、それ以外には、本谷が何らかの権利をパックスソフトニカ(パックスエレクトロニカ)に委譲した契約書や、それに関連した契約書も一切存在しないまま、任天堂さんと契約が行われ、その収益は、パックスエレクトロニカとパックスソフトニカで無断で流用された。 |
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【私とパックスソフトニカ】
(注) 『TAMATAMA』(ボーステックのコンテスト作品)は 私の開発者としての歩みとして入っています。
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バレーボールゲーム以前に私が パックスソフトニカで委託販売した 作品については、こちらを参照 |
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結婚記念日旅行で、できるだけ近郊の温泉宿に一泊するのだが、そういう時に、ふと話したりすることがある。 「あのときオレが、パックスソフトニカの不正を追及して権利をちゃんと持ってたら、毎年、海外旅行してたかもねぇ」 「そんなことしたら、任天堂バレーボールは、つぶれて世に出なかったんでしょ?」 「うん。あんな酷い不正を糾弾してたら、大騒ぎになってただろうなぁ。脅されてて、身の危険も感じたし」 「いいのよ。私たちは正しく生きてるから、モヤモヤはあっても、私たちに、人として、心に闇はないでしょ」 「闇か…」
妻は、パックスエレクトロニカ(移籍⇒)パックスソフトニカの社員だった。 その後私たちは結婚したが、その式にパックスソフトニカの仲間は参列してくれた。
それが、私たちには、何より嬉しかった。
私は今も、時に思う。
『闇の中に居続け、その感覚で行動している”彼ら”は、自分たちが”闇の中”にいることがわからない。その闇の中こそが彼らの居場所であり、価値判断の基だからだ。彼らには闇が普通すぎて、意識せず”平然と”して、生きていける』
けれど、 かつて闇に酷い目に遭った側の者は、その”闇”のことを考え続けることになる。 とんでもなく理不尽だからである。
「なぜ、あんなことができるのか?」 「あれは、いったいなんだったのか?」 と、理不尽さをクリアしたいのだ。
【”闇”は、被害者の心のほうこそを蝕む】。
だから、
【”闇堕ち”しないこと】を夫婦で、時に確認しながら生きているのである。
そう。 一番いい方法は、忘れてしまうこと すべて、”なかったこと”に?
が、”闇”のほうは、なお”闇らしく”活動を続けていたのである。
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| 【ご協力・ご支援のお願い】 |
ご意見、ご質問、取材、YouTube出演などは、オープンに受け付けています。 もちろん、私は、本名、顔出しで語ります。
どしどし、メール、DMをください。
できる限り、お答えします。 私の知らない事実などで、私にお答えができないときは、一緒に考えましょう。 また、各方面に問い合わせて調べて、その疑問を解きたいと思います。
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(注)
登場する社名の株式会社や有限会社の表記は略しています。
また、パックスソフトニカとパックスエレクトロニカが経営体として一体化している部分が多く、区別して語る意味がない場合もあります。
大雑把には、パックスエレクトロニカが親会社として契約や資金を握り、パックスソフトニカは『開発部隊』ということになるでしょう。 |