私とパックスソフトニカ(橋下氏)との 実際の関係 |
・私は、完全なフリーランスであり、持ち込んだゲーム作品の権利は、全て私が保有する契約であった。 |
・私と橋下氏は、遅くとも、1984年頃、新百合ヶ丘時代のパックスソフトニカで知り合った。 |
・それから、1988年の『小切手事件』で裏切られるまで、5年間ほどパックスソフトニカで共に仕事をした仲である。 |
・私は、1983年の『PC-6001ベースボール』から、数作品をパックスソフトニカで委託販売した。 |
・私が単独開発した『MSXアタックフォー』を、田村氏(パックスソフトニカ社長or筆頭役員)ルートでパックスソフトニカに持ち込んだ。 |
・橋下氏は、パックスソフトニカ内では別ルート(チーム)であり、いつものように、私の持ち込んだゲーム(バレーボール)に関心はなかったし、そもそもバレーボールというスポーツにも、まったく興味がなかった。 |
・橋下氏もあちこちで述べているように、パックスソフトニカの収益は親会社のパックスエレクトロニカに奪われて、パックスソフトニカは経営危機であった。 |
・そのパックスソフトニカの経営危機を救うため、私の『MSXバレーボール』をファンミコンに移植して生き残りに賭けることになり、私も全面協力をした。 |
・そのため、原作者の私が移植を許可し、ファミコン開発経験者の橋下氏に移植開発をしてもらうことになった。 |
・橋下氏は、自分のゲームを作りたいため、私のゲームの移植を嫌がったが、田村氏と私が説得した。 |
・橋下氏は、バレーボールにも、私がゲーム化した作品にも無関心で無知だったため、私が全面指導することになった。 |
・浦山氏の活躍で任天堂ブランドに決まった後は、私が任天堂の宮本氏とともに、ディレクターとなった。私のほかにバレーボールがわかる者がおらず、バレーボールのゲーム構造開発は、私がしていたからである。 |
・任天堂ブランドになって、橋下氏は、本当のやる気が出てきて、私も懸命に彼と協力した。 |
・任天堂さん(宮本氏)は、バレーボールには知識がなかったので、主に演出面などで多大なエンタメ指導とアイデアをいただいた。 |
・任天堂バレーボール開発後は、『ファミコン版オホーツクに消ゆ』の開発に、私と橋下氏は加わった。(1986~87 開発時の写真あり) |
・親会社のパックスエレクトロニカから、立本氏がやってきて、社長のように振舞い始めた。(お金の勝手な流用など) |
・1987年1月、任天堂さんの勧めで、アメリカの『Consumer Electronics Show』に、私、橋下氏、立本氏、立本氏の友人の4人で行く。(写真あり) |
・フリーランスだが部長だった私は、女性社員の結婚式に出席する。(写真あり) |
・1987年。私は「任天堂アイスホッケー」の開発に、ディレクター補として参加。『MSXアタックフォー』のキャラクターイメージで、アイスホッケーのキャラクターがデザインされる。 |
・フリーランスだが部長だった私は、女性社員の結婚式に出席する。(写真あり) |
・箱根湯本への社員旅行へ、みんなと参加。(立本氏、橋下氏、田村氏は不参加。浦山氏は参加) |
・1988年。『小切手事件』で、パックスソフトニカに裏切られる。(連載で詳しく書きます) |
・その後、権利も名誉も失い、脅されて人間不信になり、自分の創ったバレーボールゲームの権利も失い、大きな希望が深い絶望となり、パックスソフトニカから離脱する。長く、トラウマに悩まされることになる。(連載で詳しく書きます) |
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↑ 上記については、連載で写真や図なども使い、 詳しく『事実であること』を説明します。
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この、私とパックスソフトニカ(橋下氏)との関係が、 橋下氏の本やインタビューで、 どう語られているか(語られていないか)を 以下で、確認していきす。 ↓
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