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ドキュメンタリー記録は、『バレーボールゲームをめぐる本当の物語』を参照ください。
この『1986年のバレーボールゲーム』は、このドキュメンタリーの解説、内容証明、追記です。
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<問題提起とその解明(証明)> |
A |
【権利問題】 よくある『誰に権利があるか?』という問題とはまったく異なり、『任天堂バレーボール』の場合は、私が明らかに創作者であり権利者です。 論争の余地はありません。
PSが、私の権利をすべて無視してきたことは、不正行為だということです。 そのことは、ここできちんと証明していきます。
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B |
【創作権利者・移植ディレクターである私の隠蔽】 『任天堂バレーボール』については、この40年間、私の作品であることが知られていませんでした 。
なぜ、そのような不可解なことになっていたのか? なぜ、このことについて、2025年になって、やっと私自身が口を開いたのか?
それを説明解説していく目的で、この『1986年のバレーボールゲーム』を書いていきます。 そしてこれは、『今後の活動ための基本的な記録資料』にもなります。
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<時間軸での項目> 以下を個別に連載予定 |
1 |
・私は、少年時代に、バレーボールに熱中。ミュンヘンオリンピックで大興奮。 |
2 |
・私は、PC-6001を買い、独学でフリーランスのゲーム開発者になる。 ・私は、作ったゲームをPSに持ち込み、販売委託をお願いする。 ・バレーボールゲーム開発を目標にするようになる。 |
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1983年~88年まで、約5年間、完全フリーランスとして、 PS とともに活動。 私は社員になったことは、まったくない。ずっと独立事業者。 |
3 |
・1985年、MSXで世界初の本格的バレーボールゲームを一人で創作。 ・それまで通り、これも、PSで商品化し、販売委託。 |
※ |
※全てのゲームの権利は、私にある契約である。 |
4 |
・倒産寸前のPSを救うため、バレーボールゲームのファミコン移植を、私が許可する。 (もし、PSが私に無断で移植したとしたら、それはパックスソフトニカの不正行為)
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5 |
・バレーボールのゲーム化(構造化)は、私によるものであり、それを私がPSに教授した(総合ディレクター) ・ PSの移植担当者は、バレーボールというスポーツに興味がなく、バレーボールゲーム構造にも知識がなかったので、私が教えた。 |
6 |
・移植開発中のファミコン移植版バレーボールゲームが、U氏の営業で、任天堂ブランド開発となった。 ・そのため、私は宮本氏と共同ディレクターをし、PSへの指導監修を継続した。 |
7 |
・ファミコン版オホーツクに消ゆ(デジタイズ)を担当する。<当時の写真あり> |
8 |
・親会社PEの関係者のT氏が、PSを支配するようになる。 ・T氏がPSのお金を管理し初め、ここから物事が歪み始める。 |
9 |
・『任天堂バレーボ―ル』開発で、PS の倒産の危機を救った功績と任天堂さんと私の関係を考慮し、PSは私を社外フリーランスのまま、部長とした。 ・部長として、同僚の結婚式にも会社を代表して参加。<写真あり>
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10 |
・T氏は、PSあるいはPEに入ってきたお金を勝手に使った。直に私は聞いた。
「ちょっと待ってくれ。そのお金がないと会社が回らないんだ」と。 ・「あなたが使っているお金と権利は、もともと私のものですよ」と言っても、「まあ悪いようにしないから」と、無視された。 |
11 |
・ラスベガスのゲーム展示会視察旅行。<写真あり>
※『1987 Consumer Electronics Show 』
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12 |
・『任天堂アイスホッケー』(サブディレクター)に参加。 |
13 |
・PS(PE)、つまりT氏が、『任天堂バレーボール』の契約を私に無断で任天堂さんと結んだらしいことに、私も遅ればせながら気づく。 ・そして、その売上金を勝手に流用していたらしいことは、H氏も愚痴っていた。 (T氏…PEが勝手にお金を使っていた件は、その後H 氏も本かインタビューに書いている) |
14 |
・ PS は、原作者でディレクターである私にお金が払えず、フリーランスの私を社内に取り込み、うやむやにしようとするが、私の拒否にあい、私に権利関係の契約書を渡さず、騙すことにした。。 |
15 |
【小切手事件(概要)】 T氏は、 「おまえとの契約書などない!」 と開き直り、 H氏は、 「任天堂バレーボールゲームは、私が一人で作った」 と言いだす。
そして、私の目の前に、T氏によって、小切手帳が投げ捨てられた…。 (※詳細は、連載で) |
16 |
・T氏は、創作者・ディレクターとしての私の権利と名誉を奪い、この件での口外をせぬよう、私を脅した。 |
17 |
・私は任天堂さんに訴えたかったが、脅されていたことと、私が騒ぐと、『ファミコン版バレーボール』そのものがつぶれることを恐れ、沈黙する。 |
18 |
・PSを離れ、再出発する。 ・PSの仲間達が集った結婚式が、最後の良い思い出。 <写真あり> |
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※ |
【開発者人生の黒いトラウマ】 『小切手事件』による裏切りで、私は人生に絶望し、悔しく、一時は毎日吐いてました。 ゲーム界にも失望した。 そのため、PS時代のゲーム資料もゲーム製品も、それが目に入ると気持ちが悪くなるので、全て捨てました。
それらをやっとじっくり見ることができたのは、38年後の今年(2025年)なのです。
『ファミコン版オホーツクに消ゆ』も、38年前にデジタイズしてから何の情報も得ることがなく、今年(2025)初めて製品版の絵を見ました。 『オホーツクに消ゆ』が有名なゲームになっていることも、やっと知りました。 それで、ちょっと浮かれて、Xに勘違い投稿をして、炎上も経験しましたが、その遠因もPSによる裏切りのトラウマだとも言えます。
私は、この40年近くの間、自分が作った『MSXアタックフォー』も『任天堂バレーボール』も、製品を持っていないし、遊んだこともないのです。
それは、『小切手事件』を思い出して、気持ちが悪くなるから でした。
ネットまどで、ゲーム情報を見ることも、最近までほとんどありませんでした。
妻もPS社員で不当解雇されましたから、我が家では、バレーボールとゲームの話題は禁句でした。 私が『バレーボールゲームをめぐる本当の物語』を書き、イベントで本当の話することができるようになった2025年に、やっとその呪縛が解けてきました。
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19 |
・その後、約40年間、PSは不都合な私の存在を隠し続ける。 ・後ろめたいのだろうと思うし、つじつまが合わなくなるので触れられない。。
・Wikipadiaなどにも記載なし。 (※2025年、私自身が記載追加) |
21 |
・移植担当のH 氏の『ファミ通インタビュー』、同人誌『任天堂バレーボ―ルを作った男』では、【原作権利者、移植許可指導者、ディレクターの私】が、ほとんど無視されていることを知り、あまりのことに呆れる。
・また、私のことだけでなく、私とPSが協力関係にあった時期のPSことを、H氏が、インタビューでも本でも、ほとんど語っていないことを知るのは、 PSであった不正を語れないからである。
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22 |
・私がもっとも衝撃を受けたのは、 『任天堂バレーボ―ル』のTOP画面に、移植担当のH氏の名前だけがある』 であった。
・まったく異様である。 「なんだ、これ!!」
・PSは任天堂さんに、どういう説明をしているのか?
・この事実で私は闘うことを決めた。 私にとって、これの解明が生涯の活動目的となる。
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・移植担当者のH氏が、私の本『バレーボールゲームをめぐる本当の物語』を読み、私にメールを送ってきて、 「すみませんでした。今後は本谷さんのことを、ちゃんと話します」
と書いていた。
・そして、唐突に、 「権利のことや、お金のことは、私は何も知りません」 とも、わざわざ書いてあった。
それを自ら書くということは、『その部分の不正を彼らも認識(意識)している』のだろう。
・パックスソフトニカの役員であり、その後、『ソフトニカ』年て後継していながら『知らない』など信じがたいが、そうだとすれば「不正行為は、すべてT氏によるもの」ということなのだろうか?
・このあたり、私、真実を知りたい。
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私が去った後のPSについて、元社員の人たち、PS解散後の仕事のことを直に知っている人たちからの、情報提供などがきている。 私はそれらも参考しているが、自分が直に見聞したこと以外は、ここでは触れない。 |
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今後、上記の内容を、<一覧Index>のページで、図、写真などをまじえて、個別に説明していきますので、よろしくお願いします。
また、このサイトでの記載内容については、よりわかりやすい内容にするため、予告なくその都度修正や文章表現の推敲をします。 これは『記録』だからです。
この記録をもとに、今後【名誉回復の活動】をします。
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note |
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販売終了となりました『バレーボールゲームをめぐる本当の物語』の note への無料公開(一部内容を追加削除する場合あり)については、同人誌を購入された方への感謝と情報優位性を守るため、全面公開はもう少し先にいたします。ご了承ください。 |